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・・・調子が、悪い。 元気だけが取り得だった、頑丈で運も良く、大きな怪我も病気もした ことの無かったあたしは、原因の特に思い当たらない不調に悩んでいた。 治療師に見てもらっても、首を傾げられるばかりだ。 子供を放っておいたり矢鱈に預けたりも出来ないので、家で出来る仕事 に切り替えたが特に無理はしていないし、家の中も清潔にきちんとして いる。 食事もちゃんと用意をして、子供と一緒に時間を掛けて欠かさずに食べ ている。一緒にあれこれ遊ぶようにしているので、運動不足とかそうい うこともないと思う。 ・・・・・もしかして“環境”の変化のせい、なんだろうか? “塔”と“帳(とばり)”の影響の及ぶ範囲が、徐々に元々の様子から 変わって行くことに気がついたのは、彼が居なくなって間もない頃だっ た。 草の色が変わり、樹の葉の色が見たこともない様子になり、土の加減が 知らない風になってゆく。 ・・・子供の頃から肌で感じていた季節の推移が、おかしい。 それは、“塔”から近いこの土地だけではなく。 ゆっくりと、でもひたひたと確実に、この地上を染め替えていっている 様子なのだと。 時折の旅人がもたらし、皆が囁きあう噂から悟った。 ・・彼は、“堕天使の自分勝手”のために“神様に許されている期限 を勝手に延ばす”から“塔”や“鎧”を嫌うのだと思っていたんだけど。 ・・・もしかして、こうなるかもしれないことも知っていたんだろうか。 だから、あの時どこか、もしかしたら自己嫌悪も含むような笑いを“塔” に向けたんだろうか。 “地上”が好きな筈なのに、自分がそれを止めることが出来ないから。 自分も“堕天使”でかれらと共に降りて来たから。 ・・・・それでも。 もしも知っていて何も言えなかったのだとしても、あたしは彼が好きだ。 此処が変わってしまう前に、願いを叶えたいと思ったのだとしても。 一寸ずるいようでも、幸せそうな穏やかな様子の影で誰よりも哀しんで、 そして自責の念で色々なものの板挟みになって。それに蓋して見ない振 りをしていたとしても。 神様を“見捨てて”来たことを心残りにしていたとしても。 それが、彼の命を掛けたたったひとつの“我儘”のためなのだとすれば。 ・・今、彼が目の前に居たら黙って独りで抱え込んでいることを怒って やったかもしれないけど。 あたしの眼に映った、あたしと一緒に暮らした彼が、大好きだから。 優しいのも、向けられたあの笑顔も、彼が誰より綺麗に見えたのも本当 だから。 想い出と、抱えた気持ちは変わらない。 *** どうしても怠くて時々寝付くようになってしまったあたしを心配して、 サリエル様が他の土地から運ばれてきたのを手に入れたのだという珍し い果物を籠に色々と持って、様子を見に来てくれた。 ネフィリム用の林檎もおやつのお菓子も忘れずに用意してくれているあ たり、相変わらずまめだ。 あたしの寝床は、具合を悪くするようになって暫くしてから、あたしが 降り易く、子供に触れやすくもあるように床に近く低くしてある。 その傍に座ってサリエル様がくれた色とりどりの果物を眺めていた子供 に、今日は代理で俺が用意してあげようと小刀と器を台所から持って来 たサリエル様が、切り分けて“兎”の耳の形に皮を残した小さな青い林檎 を、器の内に林檎幾つ分かを次々と積み上げてゆく。 ネフィリムたちの興味を引くための目先を変えさせる小手先の技とか、 世話に慣れているせいか元々器用なのかとても手際が良い。 作業中に目が届かなくて子供がうっかり取ってしまわないように、直ぐ 手の届かない高い位置の棚に器と籠を置いて、林檎を手に取って工作を していたその細い手指の先を、水色の円い瞳が興味を示している風にじ っと眺めて小首を傾げたのに気付いて。相変わらず余り良くは無い顔色 の表情がほころんだ。 あたしが前ほど色々な風に構ってあげられなくなっても、伝えたい気持 ちは受け取ってくれているのか、幸いまだ余り大きくなっていない子供 に、サリエル様は素直に感心してくれている。 切った林檎を片掌に載るほどの深めの器に積み終わると、あたしが半身 を起こすのにちょっと手を貸して、寄り掛かれるように詰め物をしてあ る布の敷物を寄せると寝台に造り付けてある棚の上に器を置いてくれた。 あたしが話したり撫でたりしながら、合間にひとつ兎林檎を手渡すと、 子供は直ぐ口に入れずに両手に持って形をよくよく眺めてから、大事そ うに口に入れて少しづつ食べた。気に入った様子にサリエル様も作った 甲斐があったと喜んで笑う。 兎林檎の大半は子供にやりながら、あたしとサリエル様も“一緒に食 べる”ために幾つか口にしたが、酸味の強い林檎は中々美味しかった。 あたしは子供に話しかけたり、兎についてあたしが知っていることを話 してみたりするが、サリエル様が近況を兼ねてあたしに話すネフィリム 育児話(あたしほど熱心に聴く相手は、残念ながらまだ居ないそうだ。 中々仲間は増えない)でも、子供はどこまで理解しているのかはわから ないものの、ちゃんと“話している”のを聞いている様子を見せている。 あたしが、此処に“彼”も一緒に居て林檎を食べてこの子を撫でてく れたらなぁ、と。ふとぼんやりと思ったことを何となく察したのだろう か。 サリエル様は子供を膝に乗せて頭を撫でていた手を止めて、あたしの頭 に空いていた片腕を伸ばして、掌でそっと撫でた。 君は元気でいなくちゃ、という言葉に何となく、以前彼が眠り続けてい た時に励ましてくれたのを思い出す。 そうですね、と笑うと、彼を思い出したのか何となく寂しそうにまた子 供の頭を撫でていたサリエル様も笑ってくれた。 ・・・起きられない。 子供はあたしを心配してくれているのか、枕元の脇に座り込んで丸い手 の先をあたしの手に触れさせている。 傾けた顔が、水色の円い瞳が・・・かなしそう、に見える。 名前を呼んで、掌で頬を撫でる。 ネフィリムは形や配置が完全に固定されていなくて、柔らかな手足や胴 が伸びたりする以外にも、目や口の位置が動かせるので、人のようにい つも決まったところが頬というわけではないんだけれど。 その時“顔”があり、目と口の横の箇所がそうでいいのだ。 枕元の棚に置いてあった、黒いあの羽根に手を伸ばす。 片手に子供の手を、もう片方にそれを掴んで祈る。 ・・もう少し、もう少し、お願い。 あたし、頑張るから。 サリエル様が、あたしを見て悲しそうにして。 それから少しだけ慌てて、何時も挨拶する時のように明るく笑ったので。 ・・・何となく、わかってしまった。 天使だった時に、堕天使だけではなく、きっと沢山の普通の“人”も見 送ってきた目にはきっと見覚えがあるんじゃないか。 あたしの期限が、きっと近いのだと。 ・・それで。サリエル様と少し話をすることにした。 あたしが居なくなったら、どうかこの子をお願いします。 というと、サリエル様は聞きたくなかったというように一度目を伏せた けど。「勿論、心配しなくていいよ」と頷いてくれた。 あたしの財産といえば家と家畜と。子供の頃亡くなった両親と、おばあ ちゃんが残してくれた多少の装身具(あたしは金属を身につけるのが 苦手なので、ろくに出したこともない)くらいだが、ネフィリムの養育分 なんてものは見当すらつかない。というかまあ、幾らあってもまともに は足りない。 とりあえず、どれか要りますかと聞いてみたら、装身具には一寸興味 があったみたいだけど、誰かにあげたら公平じゃないからなぁ、と溜息 をついた。 ・・・なるほど。 ふと、兎林檎を作っていた器用な手先を思い出して。 気に入るのがあればあげますから、それを見本にして皆に同じように作 ってあげるとかどうですか?と言ってみたら、考えたことが無かったと 真面目に思案していた。 サリエル様は、堕天に複雑な思いを抱いていただろう“彼”がけして 嫌おうとしなかったように。 基本的に、悪気は無い。 博愛で優しいところも多分にあるようなのは、天使の時の面影なのだろ うか。 神様も未だに好きなようだし、“人の恋愛”に興味を持っているために、 必ず“個人”と関わりあうことになる。 だから、サリエル様から見るあたしは多くの人が区別がつかないと言う “ネフィリムのどれか”のようなものではなく、あたしが自分のこの子 が唯一であるとわかるように、サリエル様が見た“あたし”というもの だ。人間のうちの誰か、ではない。 ただ、良くも悪くも全体的に一寸ズレているところがあるのは、堕天の “副作用”なんだろうか。 “彼”が“副作用”と呼んでいたそれは、“堕天”時の生存率を可能 なまでに引き上げる“強い願いと意志”のもたらす影のようなものだ。 賭けの成功と願いへの到達が‘光’だとすれば。 願いによる“思い込み”の弊害のようなものは‘影’と言えるだろう。 サリエル様は“人の愛を実感したい”という願いのために、人に近い身 を得て彼を望む人間に囲まれている。 ある意味、実現はしている。 ・・けれども、それは彼が世話する沢山のネフィリムにあたしの子供の ような“個”らしきものを形作るのが困難であるように、“薄い”もの なのだ。 サリエル様は、恋愛の最大の表現というか到達点が“触れる”ことだと 思っている。だから、優しくして触れ合う。 それは、別に悪いことではない。 だけれど、博愛で先が長くは無いことがわかっている堕天使には、それ 以上を無理に望む者が居ないのだ。それは、サリエル様が好かれている からで、それはそれで確かに愛だ。 でも、彼が本当に求めているようなものとは、きっと違う。 サリエル様が、“あたしと彼”を見ていたのは、どこかではきっと探 していたものをわかっているのではないかと思うんだけど。 ・・・あたしは、その手を取って一緒に居る道は選べないサリエル様に、 それを突きつける立場には居ない。 サリエル様にとっての“特別”は、あたしではない。 だから、それが見つからないのであれば、今のままでも好きなものに囲 まれてそれなりに幸せならいいのではないかと思ってしまう。 ・・“彼”がきっと強烈な罪悪感を伴う逃避を抱えながらも、確かに望 んだ先の幸せを得ていたように。 どうすれば一番良いのかなんて、あたしにはわからない。 だけど、“彼”にもあたしにも本気で優しくしてくれたサリエル様が、 あたしのこの子を見て、時折、“あたしと彼”のことを思い出してくれ たらいいなあと。そう思ったのだ。 自己満足かもしれないけれど。 せめてもの・・想い出と、探していただろうものの手掛かりと。 きっとこのまま在ることは難しい、この子の居場所のためにも。 8頁← →6頁 |
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