<Color> この辺りは、元々はとても緑豊かな地だったのだと。 腰を下ろして片側を凭れるように寄り添っている、独特の柔らかな感触 のいきものに語る。 かれは暫く此処に居たのだから、知っていたはずなのだけれど。 でももう、薄れてしまったかもしれないから。 確かめるように、なぞるように。 回した片腕に時折少しだけ力を込めて、おまえがここに居て自分もここ にいるのだと、示すように。 ふわとした不定の厚みの弾力が、寄せた頬と触れるほかに心地良い。 遠く時の始めに差し出された腕が、自分にした仕草を真似るように。 ほんの少し、頬ずりするように顔を動かして額をつけてみる。 その顔は、最初に会った時そうしたように。 座ったこちらの頭に合わせる位置に下ろされていて、真球を半分埋め込 んだような青の水の色彩が、相変わらず透き通るように澄んでゆらと光 を帯びている。 ・・生きているビー玉みたいだな、と。ふと思ってくふりと笑う。 ふたつきりの、かれのためだけの滑らかな青珠。 現時点で頬である辺りに顔を押し付けるようにしてもう片方の腕も回し、 人であるなら首に抱きつくような状態にしてみた。 勿論首のように細くなっているわけではないので、胴にそうしているよ うなもので、かれがひとの成人(おとな)程度の大きさであるために容易 に回り切りはしないのだが。 ・・今の状況で、ここでふたりだけって、ほんの少し寂しいなと。 顔を押し付けたまま素直に呟くと、柔らかな小さめの丸みが肩先と、そ して頭の上に乗ってそっと撫でるようにするのを感じた。 ・・・おまえのほうが大変なのに。 やっぱり、優しいんだな。 ぽさぽさと短い金髪のひょろ長い痩身の堕天使が語ったかれの母親は、 この子供を気遣うことで対する相手にそうすることも教えた。 それはかれをかたちづくる構成に染み込み、かれと会話の出来るナンナ によって失われることなく、時折こういう風に示せるまでになっている。 本気の関心を示せるものは、そうという形でなくとも自らの行いでそう いうものを示せるものは。それの育てたものを“こうせよ”と指示する わけでなくても、次第に何らかのかたちで倣うようにさせたり、何か思 うところを留めさせる。 勿論、誠意や真心の全てが、その本当やつもりのとおりに、示したそれ らの関わりが認められるように、上手くゆくとも限らないのだけれど。 優しく伸びやかなものに育てられたかれが、その面影を覗かせるのは私 たちにとっても嬉しいことで。 そして、ひとのようにとは少し、いろいろと違うけれど。 優しく暖かな金と白の色彩の元で育った私も、そのひかりのかけらを宿 せる存在であれたらと。願う。 おまえとふたりということには文句はないけれど、早く帰って来ない だろうかなと笑うと、頷くように傾げるように薄い黄色の身体がふるり と揺れた。経験からすると、これは笑い返してくれている。 ふと何かが視界の端にちらと入ったような気がして。 少し身を離してかれを改めて見直し、座る格好であるために地面に近い ほうが少しだけ丸まるように緩く曲げられている、表皮の足元に近い辺 りにあるものに気付いた。 幾つかの形を描く線が、少しだけぼんやりとしてきている。 記憶を留めるのが難しいネフィリムたちが好むのだという、それ。 “変換”が必要な文字よりも、忘れてしまってもわかりやすい“絵”。 詳細なものではなく、簡略に様々なものを指す“落描き”。 元々は木炭を木から取れる樹脂で練って加工したものを使っていたナン ナが、指先や描いた周りも意図的にでなくぺたぺたと黒くしていたりし たので。 物入れ用の簡易空間に押し込んであったものから、先の時で作られた “油性ペン”を選んで出してみたら、イーノック同様にその独特の臭い は好まないようだったがそれは篭らなければすぐ散って然程でもないし、 彼らの皮膚に描いても痛めるというようなことはそうそう無く。筆先と 描いて直ぐの筆跡(ふであと)に触れないようにさえ気をつけていれば、 手が汚れず綺麗に線が描けて落ち難いということはとても気に入ったよ うだった。 養い親や、絵が得手なのだという幼馴染の少年や、育った里の住人が、 その掌に折々に手を取って指先で描いて教えてくれたのだという、様々 なものの形を。記憶のかけらを。 少女の手が操る筆先が、薄黄色の柔らかな表面に接し。 墨色の軌跡が伸び、途切れ。また続き、重なり。時に点として落とされ る。見えない筈の目でも支障は無いかのように、自分の動きと対象の表 面の推移を記憶して。 不定の表面が揺らぐにつれ徐々に、時が過ぎる旅路の過程でも薄れてゆ く頃である度に、それは必ず思い出され繰り返されていて。 ナンナだけではなく、私もだが、時にはイーノックも請われてペンを手 にすることもあった。 元々、伝承や物語などを記録として留める仕事をしていたイーノック は専門の字だけではなくそれなりに絵も得手だったが、基本的には頭の 中に思い浮かべる想像上やそれらの連想の溶け合う何かを描き出すとい うよりも、目にしたものを平面の形として表すほうが向いているらしい。 普通は見た時か、それから記憶が薄れるほど経たないうちに描くのだが。 一度だけ。 彼が、言葉を発することに支障を来たして大分経っていた頃のことだが。 記憶の中にあるひとつなのだという、窓の縁に外向きに座って向こうを 眺めている私の後ろ姿を、至極正確にしかし過剰ではなく、黒の細い線 だけでまるでその場で写生したかのように紙の上に表していたものを見 た時には少し驚いた。 彼は、ふと手元にあるものに描き出してそのまま最後まで続けてしまっ たのだというそれを、彼の仕事用の“記録用紙”に描いてしまったので。 大変申し訳ない、と悄然としてラジエルに申し出て、少々面白がったか れがエルに伝えて直接それは<神>の手に渡されたのだとかで。 帰還した私にむけて、悪戯っぽい笑みと共にひらと振られたそれにエル は“写真”よりもある意味凄いんだなと、実物と見比べて笑った。 “意味”を込めることが出来るその紙に映し出されたその風景に指先で 触れてみると、簡潔な程に純粋な、記憶にあるそれをここに表してみた いのだという風なおもいが込められていて。 彼に記憶されているということは嬉しくないわけではないのだが、何で そんなものに描いて、エルがこれは私が没収して私室に置いておくとか 楽しそうに笑っているような状況なのだと文句を言いに行ったら。 休憩時間に入ったばかりでうっかり気を抜いてしまったんだということ を必死に、余計上手く出て来ないらしい単語を並べて平謝りされたので、 何だかもう、こいつが時々間抜けなのは今更だと溜息をついて諦めた。 あれはまだきっと、エルの私室の書き物机の上の透明な覆板の下にき ちんと、その後にエルに請われて同様の記録用紙に描いたのだという、 エルとラジエルのそれぞれの姿の“イーノックの記憶の風景”と並んで 収まっている筈だ。 ・・・人の作る紙のように様々な要因で変色したり、その描線が色褪せ たりすることはなく、描(えが)かれた時と何の変わりも無い風に。 何だか、切り取った時間を永遠に留めるように。 きゅぽ、と軽い音を立てて、きっちり閉じていたペンのキャップを外 すと、馴染みのある独特の臭いが軽く嗅覚に触れて散じる。 私はこのにおいは別に好きなわけではないが、嫌いでもない。 “落描き”の記憶と繋がっているからだ。 まあ、人間にはこの溶剤の臭いとその元となっているものはまともに嗅 ぎ続けるにはよくないもののようなので、イーノックやナンナたちの反 応は適切だ。 彼ら用にはその後で臭いの無い種類を選んで用意したけれど、私は何と なく、最初のこれの中身が尽きるまでこれでいいと思って使い続けてい た。まだ掠れないといいのだが。 ネフィリムに向き直り、何を描こうかと少し思案すると。 ぽてん、とまるく。足を投げ出すように座った姿勢で、かれが私の顔を 覗き込むようにする。つや、と光が動いた円(まる)い瞳の表面とその仕 草で表されたものは、“期待”だ。 私はこれまで、絵画の類というものを手先の技で表す必要も極少なく。 “絵心”が特にあるというわけでもないので。 普段描くものは星だの月だの雲だの木だの魚だの、本来の“地上”であ れば目にし易く、略図も既に人間の手の内で繰り返されているものを選 んで倣うように描いてみることが多かった。 ・・・。 ふと、思いついた。 これなら“見本”が目の前にあるじゃないか。 しかも“自分”では目にしにくい。 慎重に思考の中で略図を思案し、どこから線を引こうと考えてから、両 端に筆先のあるそのペンの細いほうを動かし。 程無く、そんなに想定とも違わずに何とか描き終ってほっとした。 ・・・うん。まあまあ、なんじゃないかな。 どうかなネフィリム、“おまえ”だぞ? と尋ねてみると。 くるりと光の走った瞳が、それをよくよく見ようと顔の位置を上のほう に戻して身体を曲げる。 それじゃあ逆さまだぞ、と笑うが、かれはどうやら私の描いたものを喜 んでくれたようだった。 キャップを閉じたペンをまだ手にしていた私の手にその丸い細長い先を 触れさせるとぽんぽんと弾ませ、身体を左右に傾げる。 それからふと、これまで見たことの無い仕草をした。 ペンを持った手の前に少し離して、その手の先を停止させたのだ。 ・・・・これは、貸してくれと言われているのか。 キャップを外したペンの先に近いほうを持って差し出してみると、指の 無い手では少々扱いが難しそうだったが、細くした先で軸を巻き込むよ うにして握り、もう一方の手で私の片手をちょんとつついた。 描いてくれる、なら何処がいいのだろうと考えて、少し袖を捲って左の 下腕の内側を指し示した。私が“残そう”と思って留めれば、余り意識 し続けなくとも手の甲や掌よりも差し支えは気になりにくく、消え難い だろう。 私はそうそう汚れたりしないから、人のように手足や身体を洗ったりす る機会も本当に稀だしな。そういう意味の“うっかり”は大丈夫だ。 そろりと動くペン先はごくごく慎重に、やや俯けられた顔と共に少し づつ動く。 ほんの少しくすぐったいような気がするのを堪えている間に、その線が 私の表皮の上に描(えが)き出したものは。 きっちりしたものではけしてないが、やや小さめの丸とちょっとだけ縦 長の丸らしきもの、それと並べて大き目の丸をふたつ。 更に、その並んだ上に、点をよっつ近くに。何となく、星にも見えなく もないかのように並べた。 そして、差し出されたペンをこちらが受け取ると、空いた手で自分を指 した。その手がそのまま縦長っぽいそれを指し示す。 ・・・。 そうか、これは。“私たち”なのか。 常時並べて目にするというわけでもない“四天使”はスペースの都合も あるのか点で略されたようだったが、それらも“忘れない”、“かれの 記憶の風景”の一端を見た。 ・・・・・有難う、ネフィリム。 何だかとても懐かしいような、でも記憶に無いような切ないような気持 ちが溢れてくるようで、礼を告げて伸ばした両腕でぎゅうと抱き締める と。真似て返してくれるように丸い両腕がとんと回された。 こんなにふたりきりで居たのは初めてだが、大方通じてくれているよう で良かった。 ふと。 一応安全とはいえ、無意識で周囲に少し伸ばしてある感覚の端に。 記憶にある幾つかの気配が触れるのを感じた。 もうすぐ帰ってくるぞ、と教えると。 また笑うように。 ふるりと揺れた黄色が、ぽんぽんと私の背で両手を軽く弾ませた。 2頁← |
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