ナンナが拾われて育てられたのだという隠れ里、今は各地から逃げ出
した人々が集う“自由の民”の本拠地となっているその傍(そば)。
かつては周囲一帯がずっと緑豊かな森に覆われていた筈の、今は凡そが
茶白く色褪せ弱々しくなってしまっているものも多いその地に。
緑が勢い衰えたことで、逆にその全体像を現しているものがあった。
“アララト”という名の岩山。
緑の覆いの無くなったそれは遠目からはまるで保護色のようにその淡目
の岩肌の茶色を周囲に溶け込ませながらも、傍近く見上げるものには目
立たないように抑えた“力”と、人が畏れ敬う自然の堂々たる威風のよ
うなものを感じさせる。
粗く削り出されたような独特の形状を成しているそれが、水に浮かぶた
めの“方形の船”のようであることに気がついたのは、もっと以前にま
だ緑に色濃く覆われていた此処に訪れた際にその山にも興味を持った、
方々を歩き回り見聞する、雑貨商を兼ねた旅人だったという。
低く広めに四角い形に、船の上に設けられた小屋か船室か下部へ立ち入
るための入口か、それとも展望室かのように。下の形よりも狭く上に伸
びている部分がある。
その山は、長い間滞ることの無かった周囲の自然の“気”が生み出す活
力や護り育むものとはまた別の、大地と天の繋がりの元で長く長く掛か
って宿した“力”を“場”として秘めていた。
それゆえに、元々住まっていた里人だけではなく、異変が生じてから千
々に周辺に集っていた他所の人々も、本能的に頼るものを求めて彷徨い
結果的に其処に寄ったのかもしれない。それは安全を求めようとする意
味では、状況にとても適切だろう行動だった。

 しかし。
元々の穏やかに静かに、彼らを生かす周囲の森のようにひっそりと深い
包容力をもって営まれていた隠れ里の気風と違い、新たに増えた人々は
規模の大小差のある人の力で築いた集落や、定住せず季節で放牧をして
暮らすものたちだった。
彼らは逃げて来たこともあって怯えや怖れも多分にその胸に抱(いだ)い
ていた。だから、それは無理もないことだったが。
彼らのそれは、先住者のうちであるもののうちから、異質を名指しした。
柔らかで黄色い、ひとつきりのそれを。
“人である筈だったのが歪んだ、けして人では無いいきもの”だと。
かれを大切に思う少女と、かれがどのような風か少女が伝えるものとそ
れ自体が示すもので形だけではない理解を示していた家人や里人は、ネ
フィリムたちは確かに変化してしまう可能性を有してはいるが一律に必
ずそうとなることはないのだと、絶やさぬことで保てるものがあるのだ
と語ったが。
数々の脅威を直接目にし、あるいは間接的に伝え聞いていた彼らの視線
は、後参者であることで遠慮する者も多くあるにはあったが、根底で変
わることはなかった。
・・・少女は、彼女とかれをよく知らぬ者に自身が意識の変化をもたら
せない無力に歯噛みした。
そして、恐怖の視線の一部のうちに、ネフィリムに直接的な害をもたら
すのではないかという芽のようなものの気配を悟った。
それは、日に日にはっきりとしてくる。
 思案の末。
彼女は目の見えるものの何倍もの時間を掛けて丁寧にしたためた、ひと
つのごく簡単な、強い筆圧で、なぞれば自分も読んで確かめることの出
来る書置きを。今はもう片方しか居ない養親の元にひっそりと見つかり
難いように残して姿を消した。いつも彼女と一緒に居た、黄色いいきも
のの姿と共に。
長老への書置きに添えて伝言されていた「黙ってごめんね。おじいちゃ
んを宜しく」という一言に、両方と親しくしていた幼馴染の少年は、も
う追いつかないだろうことを承知で駆け出してその二つの名を呼んだが。
彼女とかれの行方は既に、彼から遠く隔たった距離になっていた。



***



 私が落描きを始めるより、半日ほどの前。
その隠れ里やアララトからでは人間が何らかのかたちにでも察知するの
は難しいだろう十分な距離を置いて。円陣を組むように集った馴染みの
面々が、地面に腰を下ろしたり膝をついて話をしていた。
イーノックと私と、ナンナとネフィリムと、ナンナたちが加わってから
交替的なばらではなく纏めてでも特に用が無くても顔を出すようになっ
た四天使たちと。ええと・・・3人と5羽か?
1パーティにしては中々多いだろうか。
まあ、四天使は一段外側の補助役であるので、この“旅”の主体として
直接活動しているのとは少し違うのだが。旅の仲間、には違いは無い。
 私たちが一堂に顔をつきあわせて相談して居たのは。
どうしても最後まで私たちと同行するのだというナンナを一度、彼女が
住んでいた場所の傍(そば)、今は一種の避難所のようになっているのだ
という山、アララトに集う人々を引き受けて纏めているのだという隠れ
里の長老に会わせようという段取りのためだった。

 彼女は子供ながら、基本的な考え方はしっかりしているし、必要であ
ると思う際の意志は非常に強く。
そもそもネフィリムを護り自分の信じるところを貫くために家出・・も
とい里出をして、たったふたりだけで“塔”まで辿り着いたばかりか。
ネフィリムを多く生み出して領域に集めているのだというサリエルに問
いを向けようと考えたり。同行することになった私たちと共に、彼がど
ういう性格であるかとか一緒に居るネフィリムの旧知でもあったのだと
知ると、今度はそもそもこの堕天の最大の牽引役であるというリーダー
・セムヤザに会ってどういうつもりでここまでの状況を作り出して進め
ているのか聞きだしたいと思ったという・・・。
まあ強い意志と行動力にそれを可能とする強運をも併せ持つ子供ゆえの、
怖いもの知らずと言ってしまえばそこまでかもしれないが。
間違いなく“ひと”の区分のうちのいきものであり、まだ稚(いとけな)
い風も残す可愛らしい容姿と性格の少女でありながらも。天上で長らく
暮らした末にでも<神>であるエルと天の議会に反論を述べたイーノッ
クと同じようなものを、私や四天使はその存在のうちに認めた。
・・・何よりも、ずっと謎だった生い立ちがはっきりしたばかりだ。
ネフィリムについては重要な関わりがあり、ただこれまで以上に危ない
からなどと言ったところで引き下がってはくれまい。
養親や親しい顔に会ったからと言って里心に気を変えてくれるとも思え
なかったが。経過や終着がどうなるのか不明なのだということはわかっ
ておいて貰おうと、概略ではあるものの正直に過去や現状の問題の色々
な事を大半は彼女の胸のうちだけに収めてくれるようにと告げて語り、最
後の過程へ出掛ける前に家人にきちんと会いにゆくことは承知して貰った。
・・・本当は、何が無くとも会いたいのだろうけど。
きっと戻ったら引き止められるんじゃないかとか離れ難くなってしまう
かもしれないとか、<世界>がどうなってしまうのか怖い思いだって無
いわけではないだろうそれを、“穏やかな日常”で感じていた筈の一端
に再び触れるのを避けているのじゃないかとか。
小さな頭のうちと細い肩と背のうちにあるものは、それなりの付き合い
がある今ではそんな風に推測することは出来たけれど。
きりと顎を上げる彼女の希望に、<神>であるエルも、“旅”の主体で
あるイーノックも“異を唱えない”というのなら。
私から特に、それ以上もう言うことは無かった。
意志の強さは筋金入りなのだ。



 冥界の異変絡みの事態が一段落したところで、私はイーノックたちの
ことを一時(いっとき)四天使に任せ、現状報告を兼ねて天界のエルの元
へ飛んだ。
かれは、私が目にした限りのリリスのことと、異界の王が去っていった
様子を伝えると、途中で聞き返すこともなく一通り聞き終え。
ただ、静かに頷いた。
閉じられた眼差しには痛みと、気付けなかったことに対する後悔のよう
なものもあったが。これが、必然であろうとそうでなかろうと。
リリスが信じたように生きられたなら、と。
一言だけ。
そして、私に近寄ると両腕でぎゅ、と抱き締め。
ただ暫く佇んだまま、そうしていた。

 その後は、かれは何時ものように明るく笑って。
挨拶代わりのように祝福のように、頬と額と髪に優しく口接けて、小さ
い頃から変わらない風に髪を撫で。
更に、力づけるように肩を軽く叩いてくれたけど。
・・・おそらく互いに、この旅の結末がどうなろうとももう直接には会
えないような気がしていた。
それでも。
天上で私が唯一、エル、とかれを呼ぶように。
天上で君が唯一、ルシ、と私を呼ぶのだと。
ルシフェル、と滅多に正式には呼ばずに略して呼ぶその、片時も忘れた
ことなどない声を記憶に改めて焼き付けて。
お返しにするように、ぎゅ、とかれをただ抱き締めて離れた。
沈む黄金の、木漏れ日の影のうちで陽光がちらつくような眸が。
私を見返して、軽く手が振られる。
何時ものように、気軽なように。
・・・・エル。
眼差しを返して私も手を振り、じゃあ、と。
かれの仕事部屋から歩いて出る。
そのまま去ることは流石に出来ずに、ラジエルにも顔を見せてから再び
“地上”へ飛んだ。


 私が“地上”へ戻って暫く後。
それなりの広さだった相談中の私たちの作る円陣の真中に、エルの姿が
現れている。これは、“影”だ。
ややぼんやりとして全体が金を帯びていて、背景の色をほんの少し透か
す立体の映像が、イーノックや私がその“ひととなり”を断片で語りな
がらも、私があえて直接“絵”で見せることはしなかった<神>の、遠
隔の姿であることに。ナンナは少しだけ驚いた風にじっと見入っていた。
その彼女とネフィリムに、こんにちは、とにこりと手を振ってみせて名
を呼んで挨拶したエルは少々真面目な顔に切り替え。
これまで私たちに同行するよう命じていた四天使たちに、二択の選択権
を与えた。
『これからゆく“方舟”に留まって守護する』
か、それとも
『引き続き、変わりなくついてゆくか』。
ラファエルやガブリエルは戸惑った様子も見せていたが。
先に“方舟”の様子を不可視の姿で見回ってきていたミカエルは、これ
までずっと同行していた私たちを心配しているのだろう僅かな躊躇いの
ようなものを思い切るように、“方舟”を守護することを相変わらずの
大分丁寧な様子と口調だがきっぱりとした風に宣言した。
「イーノックの守護は、ルシフェルが。
なれば、少しでもその後顧の憂い無きように務めるのも、“護る”ため
の戦いを象徴として冠せられた私の取るべき道ではないかと」
かれの正確に把握してきたらしい内容から推測すると、どうやら状況が
悪化する一方の現状で人々を落ち着かせるのに苦労している長老やそれ
に類する意志を持つものを見て、自分が居ることで少しでも安心を提供
出来るのであれば助けたいと思ったようだ。
“地上”を救おうとしたイーノックとしても、ナンナの身内もだが、近
かったり遠かったりする血縁である人々が集まっているその場所が気掛
かりでは、心配を無くせない思いもあるだろうし。
有難う、とその決断に向けて微笑みかけると、にこ、と安心して任せて
ほしいという風な笑顔が返った。
・・・エル、成長する“弟”が可愛いというような気持ちもなんとなく
わかったよ・・。
ガブリエルとラファエルはふたりで自分たちの能力の向きについての幾
つかを手短に相談していたが、結論としてはかれらも、“言動で落ち着
かせたり助言することが可能”なガブリエルと、“物理的精神的な癒し”
が行えるラファエルはミカエルと共に“方舟”に留まることを選択した。
 ウリエルだけは、ムードメーカーではあるが能力が“落ち着かせる”
向きではない(鼓舞というか何というか)ことと、真実の探求を司ってい
て、これは神の選択の関わる<世界>の結果にも関わり向かうのだとい
うことで。私たちと同行してイーノックの志気をそれとなく支え、ナン
ナたちの護りに気を配ってくれるということで分担はなされた。

 そして、エルは私たち全員に改めて幸運の加護と、四天使には“方舟”
の内部を整えるための基本的な算段とそのための力を分けた。
ネフィリムはアララトに一緒に訪れるわけにはいかないため、私と一緒
に此処で待っていることにしたので。留守の間にこちらは大丈夫だろう
かとイーノックやナンナが心配しないようにと特製の護陣も描(えが)き
出してくれた。
イーノックたちが戻ってきて一旦此処で休んでから出掛ければいい、と
いうことで広さにも余裕はあるし、その“力”は、万一食べ物を探して
彷徨うほかのネフィリムが遠方からでも感知して引き寄せられてしまう
のを防ぐように丁寧に潜められている。
周囲が不安定な状況でのネフィリムも心配なのだろうが、冥界の記憶の
せいか私を置いていきたくなかったらしいイーノックは。しかし四天使
たちだけでナンナを送らせるわけにもいかない(現状、端から見ればイ
ーノックと私?が預かっているかたちになるしこちらはまがりなりにも
成人(おとな)ではあるので、本来の保護者である長老に顔見せして挨拶
と経緯の口添えをしないと・・ということで)ので少々困っていたのが、
明らかにほっとした表情になった。エルの護陣はあの時実際に目にして
もいるから、信用実績というやつかな。
その護陣の内に在る、保護色のように茶色の系統ではあるが周囲にある
ようなかさかさと乾いたりぐんなりと衰えたようになった朽茶なものと
は違う黄土色のような柔らかな植物の集まりで形作られた休み場所の、
ふわふわと細かく滑らかな布地のようでもある不思議な手触りに、私は
うっかり興味を惹かれそうになって慌てて抑えた。流石に四天使が至極
真面目な様子で並んでいる現状では矢鱈に態度を崩せない。
・・・皆が行ってからネフィリムと一緒に心行くまでごろごろして遊ぼ
う。待ってる間は暇だし。
エルにこっそり、ふわふわ有難うと小さく手を振ると、当然予想はして
いたのかくすくすと悪戯っぽく小さく笑っていた。





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