★ | ||
冥界で次元震によってイーノックと二度目にはぐれたプートが気が付 いた場所は、ピンポイントにも“狭間”だったという。 こちらから直接繋がる場所ではない見知らぬ其処と、沈黙する無数の “画面”、出入口からの明らかな<異界>の気配にどうしようと周囲を 見回すと、床の上に“樹の根”?にしか見えないものの端が、しかも基 に近いと思われるほうは端がぼんやりとかき消えているというどこかか ら根だけがはみ出ているようなそんな印象のものがあった。 判断を迷った次の瞬間に、プートは目前に大きな樹木に酷似しているよ うにしか見えないが自分の知る樹木ではないいきものが居て、その伸び た枝に自分が掬い上げるように持ち上げられていることに驚いた。 だが、相手の気配にも触れる感じにも害意は一切無く、先程のは感知す るために残してあった“触手”代わりのもので、“領域”に属する場所 に入ってきたかれへの関心とかれに残る“痕跡”に興味を示したという ことが、伝わってきた“波”によって知れたので。個的な興味と、知的 関心のようなものもあって“情報交換”を試みた。 その結果、冥界に現れた謎の存在が<リリス>であると判明したため、 王からの『待っている』というだけのリリスへの伝言と、大まかに把握 出来た事態の経緯情報を携えたプートは王に送られて、封印のほうの裂 け目から冥界に戻った。王は、居心地の良い場所では無いそうだったが そのままそこでリリスを待つという。 時間の流れが違うため、聡い王と出来得る限り手早く遣り取りが出来 たこともあったプートにそれほどの長居をしたつもりは無かったのだが。 かれが戻ってきたのは、硝子のような箱に閉じ込めた際に私から取り上 げた蓄積エネルギーで冥界を壊そうかという程の勢いでリリスがあちこ ちを揺るがせている真っ最中だった。 最盛期ならまだしも、本来は衰え気味で、ただでさえ均衡を狂わせてい たリリスに、私の“通常使用可能な分”の枠を越えた、構成維持だけに 近い分をかろうじて残しただけのほぼ全てのエネルギーを一時(いちど き)に得るなど過多に過ぎた。 ゆらりと姿も意識も崩していってしまったリリスには、冥界に存在する “魂”たちがまるで囚われてくびきに繋がれて管理されているように 見えたらしい(これはイーノックと再度対峙している時に零された断片 からわかったことだが)。この領域を破壊すれば彼らも“自由”になれ るのだという最早使命感のような変質した執着と共に、ひとのかたち であったり、筆で中空に引いた線の塊のような黒い煙のようなものや 黒い靄(もや)ともほかのものとも変わり続ける不安定な姿で、もうどう して此処に固執しているのかもわからなくなって冥界内を“跳び”続け るリリスが、イーノックの魂の光に引きつけられたのはまあ一種の本能 のようなものだったのかも、もしかしたら<エル>の光に似たところもあ るそれを誤認識したのかもわからない。 冥界自体が次元震で各所が異常事態ではあったが、既に通常通りの エネルギーを使える私の冥主権限で、もう他にゆかないようにと予備 の空間を引っ張ってきたはいいものの、エルに対するものとイーノック に対するものをごちゃ混ぜにしつつ彼と戦おうとするリリスは、私が閉じ て一旦封じ込めようとした瞬間に、伸ばした黒いもので巻き込んだ彼ご とその空間に引っ込んでしまい、私も追う羽目になった。 漆黒に塗り込められたような広大な空間を内包する球形の内で、必死で 抗しながらもリリスの切れ切れの意味を成すものも成さないものもある 言葉の底に深い深い嘆きがあるのを感じ取ったイーノックは、リリスで あることに気付いた私の様子から知り人であるらしい相手をこのままに してはおけないと決意して、無茶にも“浄化”と覚えたばかりの“分解” を駆使して何とか緩和しようと対峙し続けた。 そして、私たちの居場所を探し当てたプートが辿り着いたのと。 “気になる”が更に強くなった“どうしてもいかなければ”という確信 のような何かに駆られて、四天使を通じて間接的にエルに請うたナンナ が特別の許可と加護を得て、四天使をまるで従えるかのように守護され て冥界まで降りてきたのはほぼ同じ頃だった。 おかあさん!と叫んだその声は泣いていて、遠い記憶と共に封印の解 けた瞳は、確かにリリスを視覚的にも見ていた。 あの子だ、帰ろう、と呟きのように零れる黒い靄がひとの形を取ろうと はするが、それはやっと腕だけで。リリスはやっと自身が既に完全に異 質ないきものと成り果ててしまっていたことに気がついたようだった。 プートが落ち着かせるように自分が何者であるか話し、境目の向こう側 で王が帰りを待っていることを伝えるが。 近寄って手を伸ばしてくれるナンナの様子に、嬉しい気配を帯びるリリ スの声はまた、自身を構成する不定の黒がその衣服や髪の端をゆらと侵 食しようとすることに驚き慌てて身を引いた。 そして改めて、やっと直に目にすることが出来た成長したナンナをよく よく眺め・・・正気を取り戻したことで、自身の現状と状況を悟った。 『わたしが、わたし自身もおまえに災いをもたらしていたのだと。 おまえは、此処で育った此処の子供で、わたしの勝手で連れ帰るべきじ ゃない。王にただ、わたしの心残りと形見として託すのも何かが違う』 リリスは、ナンナに思念で最後の別れを告げるとゆらとしてはいるがひ とがたではある黒い姿の踵を返した。 その彩色の無い影絵のような長い髪の後姿の輪郭に思わず、リリスでは なくアダム、と呼びかけた私に。 『・・・・・・わたしは、リリス、だよ。 ・・ルシフェル』 再び揺らぎかけていた黒煙のようなものが、見覚えの有る鎧の輪郭を形 作る。<リリス>の姿を。 『ルシフェルはやっぱり、“バカ”だな』 “愚か”では無い言い方で微かに苦笑のように言い残して。 去るのかと思われた姿は。せめて見送ろうとしてついていった私たちの前 で、樹の幹に在る状態の“それ”に溶け込むように、跡形も無く塞いでゆく。 向こう側に在る王に、もうひとつのほうを頼むと言い残してリリスは消 えた。望みを無碍にしてすまないと。 別れるのは仕方がないと健気に堪えようとしていたナンナが、呆然とし たあと号泣した。 「おか・・あさん、おかあさん・・、おかあさん! 忘れてても、会いたかったのに、ずっと・・会いたかったのに。 なんで・・なんで・・・!!」 うわぁあああん、と絶叫のように響き渡るそれに、ネフィリムと四天使 がおろおろした様子を見せていた。 力が抜けたようにへたりこんでいた私は呼びかけるイーノックの声すら 暫く遠くて話にならず。 対象のリリスが居なくなり、王の力が解除されたので天上から冥界を見 通せるようになり、私の代わりにプートから簡略に連絡を受けたエルの 指示で、四天使はナンナたちを連れて“地上”へ帰還し。 冥界の対処はプートとほかに任せて、間も無く気を取り直した私とイー ノックも“地上”に戻った。 ナンナが王に会いたいというのでもうひとつの“裂け目”へ行ってい るというそこへ後からゆくと、そこはただの地面に穿たれた穴のような、 ナンナが立ち入るために四天使が広げた入口が無ければ、全く目立たな い場所の奥に在った。 中はそう大して広くないので、四天使はネフィリムの面倒をみながら一 緒に外で待っていた。 大樹のような姿をした王は、“狭間”の向こうで自らの腕を折り取って “塞ぐ”準備をしている。 おとうさん!と泣きながら呼ぶナンナを、一度“裂け目”越しに葉を繁 らせた枝で頭を撫でて、香りの樹脂を贈るようにその掌に落とした。 それから王は折り取ってあった枝をばらして、まるで縫うように“裂け 目”を塞ぎ始める。こちらも向こう同様に“消して”しまうと均衡に危 険性があるから出入りだけを封じるつもりのようだ。 泣き続けるナンナを見ているのが自身の突然の別れも少し思い出してで もいて二重に辛いのか、イーノックは万一の邪魔が入らないように外を 見ていると私に小声で告げるとその場から姿を消した。 それを見送って視線を戻すと、大分閉じかけている“裂け目”の向こ うの王の傍に不可思議なものが見えた。 ・・・人の手の形をした、手首から先。だけ? そのぼんやりとしたひかりで出来たようなものが、王の折られた腕の跡 に軽く触れるようにすると、その後から新たな若い枝の元だろうものが 伸びて来る。王が感謝するようにそれに“波”を投げ掛けると、手はい いえというように指先を振って消えた。 樹脂を手に泣きじゃくっているナンナは気付いていないようだったが、 彼女も反応していないし王も私も“違和感”を微塵も感じていない風だ ということは問題はないのだろうかと思ったが。 ふと、その“手”がいつのまにか私の目前に浮いていることに気がつい た。正体のわからないそれに流石に一歩引こうとすると、そのほっそり とした指先の中指と人差し指の先が二本、そっと私の唇を押さえた。 『あの人には、内緒よ。 そのままのわたしを、覚えていてほしいから』 耳打ちするかのように囁かれた思念が伝えるそれが、何のことかわから ない私に。微笑むような気配と共に“手”は消えた。 どこか植物のような気配。・・だが、あれは“人”の筈だ。 冥主として、ひととおり“地上”のいきものの魂の区分を扱ったことの ある感覚が判断する。 ・・・“あの人”、に込められた一瞬の印象が、この場に居ないイーノ ックを指しているのだろうということだけはかろうじて悟った私は。 ぼんやりと、記憶の片隅にそれを押し込んで。 もしかしたらリリス所以(ゆえん)の謝意を表立ってはっきりと表すこと が出来ないエルや私の代わりに、王に感謝してくれたのかもしれない “手”の願い通りに。とりあえず、蓋をした。 王が最後に幸運を祈るような“波”をナンナと、私にも送り届けて くれて、完全に境目を縫い閉じた“狭間”から立ち去ってから。 立ち尽くして反応の無いナンナを私が抱え上げて連れ出して、四天使た ちが“狭間”に通じる穴と周囲を簡単に辿り着けないように跡形も無く 塞ぎ終わってあれこれの対処をしてからも。イーノックが心配そうにネ フィリムと共に覗き込んで、そっと声を掛けても。暫くナンナはひたす らぼうっとしていた。 許容量を越えてしまったんじゃないかと心配するイーノックや、何か役 に立てないかと、握っていた樹脂を持ち歩いて匂いも漂わせられるよう にと小さな飾りランプのような装飾品のようにも見える容れ物を用意し たラファエルや、女性風の姿をとっているのであれこれと身の周りの世 話を焼いてみるガブリエルに、どうしていいのやらわからないようだが とりあえず恐る恐る頭を撫でてみたミカエルとか。 ただただ、傍に座ってぴったりとくっついているネフィリムとか。 皆の心配や干渉にも関わらず、ナンナは暫く数日そんなようなままだっ た。 だけれど、夜中に低い木の枝に座って空を眺めていた私のところに、寝 かしつけようとしたガブリエルが掛けたものか毛布を被ってくしゃくし ゃの髪をしたままでやってきて、木の根元に座り込んだ。 「・・・・ねえ、ルシフェル」 「・・・うん?」 「ルシフェルは、・・ああじゃなかった時を知ってるんでしょう? それを、教えて」 私は、枝から降りて隣に座り。 ナンナが毛布を半分分けてくれようとしたので、私は寒くないから大丈 夫、と毛布ごと彼女を膝に乗せて軽く抱えて。 何となく御伽噺のように、私の記憶と、プートから聞いた情報も併せて 全体をなるべく簡略に再構成した物語を語った。 ・・・それから、その続きであるかのように。 私も登場人物に過ぎないかのように。 本の中から語りかけているかでもある風に口にする。 「・・・・もう、家にお帰り、ナンナ。 ネフィリムと一緒に居られるよう、エルに頼んで場所を確保して出来る だけ安全であるような結界を描いてあげてもいい。 でももう・・、君とネフィリムの謎は解けたんだから。 君の旅は此処まで、で良いんじゃないのかな?」 「・・・・。 そんなわけ、ないじゃない」 ・・・多少弱っていても、ナンナはナンナだった。 話を聞く前にはまだ少々ぼうっとしていた瞳が。 今は視覚を取り戻したことで本当に位置を把握しているゆえの“振り” や気配に向けているのではなく。 確かに“私の姿”を捉えているそれが、仰のいて。 ぺちん!と小さな掌が軽く私の頬を打った。 遠い星明りだけで、更に彼女の顔は私の影になっていたけれど。 私の視覚では、こちらを見ている薄水翠の色を認識することが出来た。 「神様とルシフェルが、色々間違えたから“ああなった”というのなら。 “在り得ないわたし”はそもそも此処に居てはいけない。 在り得ない存在が、ネフィリムたちを生み出したの」 否定しようとした私の口元を、伸ばされたナンナの掌が塞いだ。 「わたしはそれでも、“わたし”が結構好きだし。 あなたたちも好きだし、きっと神様もともだちになれそうな気がする。 育ててくれた人たちも、この<世界>も好き。 ネフィリムとも、ちゃんと一緒に居たい。 ・・・だから。 お荷物かもしれないけど。 最後まで、見届けさせてほしい。 わたしたちが此処に居ていいのか、知りたいの」 まだ最後の謎は解けていないよ、と。 掌を離したナンナは、少年のようにも見える表情で、笑った。 4頁← →2頁 |
||
★ |
<Second>目次/落書目次/筐庭の蓋へ |