<Egg>




 それは、<世界>の時の初めよりーーー



 それ、はそこに在った。
それ、はそこに“在る”自身を[認識]した。
自己と、他。
他・・・周囲は、黒。
暗い、のだと“思う”。
それを変えるには、“どうすれば”よいのだろう?
此処に在るこれは“闇”。
全てを内包し、まだいずれにも変わることの出来る、原初の闇。
ならば対は“光”。至悠の光。
光を得ようと思い、それを[認識]する。
・・・自身が“光”だと。
光あれ、とどこからともなく“音無き声”が聴こえる。
それはその身の内に有る、アストラルに備わる[記憶]が伝えたもの。
そしてこれからまず最初に何を始めるべきかも、[知って]いる。

<光(エル)よ、在れ>

[記憶]と魂に響く声に応える。

『我は、光(エル)。
此処にありて、光(ひかり)投げるもの』

言葉と共に、身体が仄かに輝き始め、自身と辺りが“視覚”的に[認識]さ
れる。
周りにはまだ、何ともつかぬ深い深い黒の色の空間のみ。
これは、原初の闇。混沌の力。空間と星を生み出す根源の元素。

『創めよう。この<世界>を。
始めよう、時の流れを』

原初の闇にむかい、遠く遥かまで彩り豊かに広がるように“願う”。
広大な永遠の夜の海、無数の星々。
それをやがて生み出す永い永い時の初めを、光は暫く眺めていた。
光はそのように造られていたので、永く待つことは別に苦では無かった。
だが、待つ間に別の事をしようかと思う。

まず、自分の姿を見下ろす。
やや縦長の姿に、下のほうでそれは二つに分かれて身体の空間における位
置のようなものを支えている。上のほうにあり縦長の横から伸びている二
つは、先が下のほうの先端にある部分のように更に分かれていて、でも少
し形が違い、細長い分かれとそれが付いている部分はもっと細かく動く。
そして、その“触覚”を動かして自分が姿を“見て”いる部分に触ると、
丸い柔らかなおうとつと幾つかの部分、それを上から覆う細く細かい数の
多いものがあった。それらは大まかに丸いかたちの固まりのようなものの
うえに現れているものであり、それは細長い部分から、もう少し細いもの
で繋がっていた。
全身・胴体・手・腕・足・脚・肩・背・腹・胸・首・頭・顔・髪・・
目・耳・鼻・口・頬・顎・額・・・
それらを表す[概念]を[記憶]が示す。
手、を握ってみる。
それが小さくまだ“幼い”ものだ、という認識が遅れて起こる。
自分はまだ生まれて間もない。だから“子供”なのだと。
比較対象が無いのでどのくらい小さいものなのかはわからなかったが。
小さい手、を開いて“指”と“掌”を眺める。
これ、は何のためにあるのだろう。どうしてこのような形なのだろう。
周囲には、遠く遠く透き通りながら広がってゆく原初の闇の名残しかなく、
手近に“掴める”ようなものは特に無かった。

ふと、思う。
この<仕事>を“手伝う”ものが必要なのだと。
自分の働く場が“定まった”後の永い永い時には、様々な困難があるだろ
う。それは、独りでは担いきれないものだ。
[知識]がそれに肯定と解を与え、光は周囲を改めて見渡してからひとつ、
頷いて。胸の前で“白”い両の手を緩く向かい合わせると、その合間の空
間に“願い”を込めた。
微かに足元に漂っていた原初の闇の名残の力のうちのひとひらが、そこに
向かって緩やかに流れ、溶け込む。光から“それ”に“願って”贈られた
“存在”の核の力と、原初の闇の力が混ざり合う。
一瞬。
“絵札”のように重なる無数の時と、透き通る柔らかな夜が“視えた”。
その感覚から“瞬き”をして手の内に目を落とすと、そこには丸い形をし
たものがあった。“両腕”に丁度、収まる程のもの。
片方は少しだけ丸く尖っていて、表面は微かに重なり合うごくごく浅い無数
の円形のへこみに覆われていて、厚めの“殻”は半分透き通っていて先程
視た柔らかな夜の黒の色。
その内に、ぼんやりと見えるなにか。
殻の内側にはもう一重に厚みのある膜のようなものがあり、殻と同じよう
に半透明に透けるそれは時折淡くきらきらと、その二重の内に包まれた中
心に見える“なにか”に紐のように細くなった部分からそれが“育つ”た
めの力を送り込んでいた。
透き通る殻の表面は時折薄らと、虹色に光を弾く。
光、はその“卵”の“感触”を確かめ・・・・“微笑む”。
これは、“自分に似た姿”で、“違う色”。
そして、“よく似ているようで違ういきもの”になる。
自分にとっての、一番最初の“他者”。
・・・大切な、自分よりも小さなもの。
そうだ・・きっとそれは“好き”で“愛しい”もの。
卵に頬を当てる。
自分は・・・・・“僕”は<エル>だよ。
待っているよ、可愛い最初の子。
そして僕の次の、二番目のこの<世界>の子供。
 そうだ。名前を。
この子にも、僕が呼ぶことの出来る、名前を。

・・・早く、会いたい。
でも、急がないでゆっくり出ておいで。
そうして、君に差し出したこの手を取って。
一緒に、長い時を過ごしてほしい。

 光が、楽しそうに笑う。
きらきらと、キラキラと。
それは、世界に響く最初の“音”。

そして、最初の“声”は。

「・・・・。
そうだな。<ルシフェル>。
 そうだよ、君は、ルシフェルだ」

どんな姿をしているのだろう。
どんな声をしているのだろう。
どんなふうに、話すのだろう。
僕を、好きになってくれるかな。
光は卵を大事そうに胸に抱えて、まだ暫くずっと、時の流れを眺めていた。



***



 「・・・<ルシフェル>!
やっと、会えた。
・・・ええと、こんにちは? ルシ。
僕は、エルだよ」
 重さはさほどではないけど、小さな両腕には完全に手に余る程の大きさ
に。
やっと十分に大きくなって“孵った”卵に、僕は飛び上がりたい程に嬉し
かったけどまずは挨拶からだ、と。
用意していた“かれ”のための服を着せてあげようと、割れた殻の前に座
り込んで僕よりももっと小さな“子供”を見詰めていた。
かれを待つ間に色々な[概念]を覚えたりしておこうと[記憶]を浚ったので、
この姿は“布状のもの”などで出来たもので心地よくするのが適当だと分
かったんだ。確かに身につけてみると何も無いよりも落ち着く。
 生まれたばかりのかれは、ゆっくりと顔を上げると、瞬きをした。
手も指も、顔も身体も、僕より丸みが多くて小さくて細い。
“赤ん坊”よりは大きいけれど、まだ“子供”の領域に入ったばかりの様
な。動くのには、支障は無いのかな?
でも・・・なんて可愛いんだろう。
少し尖った丸い頂点から、綺麗に縦に二つに割れた殻の間に座り込んだ
まま僕のほうを見ている大きな瞳は、薄い赤を丁寧に刷いたような柔らか
な茶。短いけれど艶やかな髪は深い黒。
肌は僕よりも色が有るけれど白めの色合いで。
そっと、服を抱えていないほうの手を伸ばして、柔らかそうな頬に触れる。
「・・・可愛いなあ。
あの、仲良くしようね」
ぱちり。
もう一度、可愛らしい綺麗な容貌が瞬きをすると小さな口元が動く。
「・・・・。
君が、<エル>か。
すまないな。・・少しまだ、感覚が追いつかない」
それは、見た目から想定されるようにまだあどけない声だったけれど。
平静な口調はもっと大きい年頃にふさわしいだろうものだった。
と、[記憶]にある[認識]が遅れて届いて、僕は一瞬驚いて固まっていたこ
とに気がついた。
「・・・あ! う、うん。
慌てなくても良いんだよ。
まだ、“場所”をやっと“創った”ばかりなんだ」
がっかりした、わけじゃないんだけど。なんというか、びっくりした。
そういえば・・・僕は、“自分を助ける最初で一番の存在”を願った、ん
だったっけ。
もしかして、無自覚に詰め込み過ぎてなければいいんだけど。
自分で着られる、というので白い膝丈の服やらを一揃い・・・。
膝下までの長袖の短衣と腰回りを押えて結ぶ帯、下に履く膝丈の足通し、
それと同じ素材で出来た足首に紐部分で結んで止める靴、を手渡すと、か
れは立ち上がり(動作にも危ういところは特に無い)。
扱いに戸惑うこともなく、着る段階でもたつくこともなくそれらを身につ
け終えた。
それから、自分の出た後の殻を見下ろすとかがんで、二つに割れているそ
れを重ねて小さな両腕一杯に抱え上げると、僕に向かって差し出した。
「これ、はまだ“力”が残っているから、君に、還す。
・・・有難う、エル」
どうやら、創造の力がまだ殻に残っているからそれは僕に戻すと言ってい
るらしい。・・早速、逆に気を遣われていないか?
こんなに、まだ小さいのに。
本当に、まだ生まれたばかりなのに。
でも。
有難うと口にして、僕の名前を呼んでくれた表情はなんとなくやっと、
“子供らしく”少しだけはにかんだような素直な気配がした。
・・・やっぱり、すっごく、可愛い!
“嬉しさ”とかなんやかやで顔が際限なく綻びそうになるのをなんとか抑
えて、頭・・幾つかだか分小さなかれの腕から殻を受け取り両手に一つづ
つ持つ。そして、それを小さな“星形”に変えた。
殻の色そのままの、綺麗な透き通る黒に虹の揺らぎを映した、指先で摘(つ
ま)める程の大きさのもの。
「・・・こんなもの、かな?
有難う、ルシ。丁度良いから、これで創ろうか。
・・ほら、あーん」
右手にあった分をかれの口元に持っていくと、可愛らしい容貌が、眉をし
かめた。
「・・・・。
不要、だったか?」
あれ。なんだか・・・。“悲しそう”?
「・・・・。
あっ、あ、いやこれは要らないから返したんじゃなくてね!
この殻は、ルシに属していたもので、僕の力と混ざって出来ていたから。
“両方”に属しているんだ。
だから、僕と君を繋ぐ、“糸”の元にしようと思ったんだ」
最初からあの調子だったから、こちらの意図を殆ど分かるのかと勘違いし
てしまった。そうじゃないんだな。必要なことは説明しないと。
「“糸”?」
小さな顔が傾げられる。
それに頷いて、続けた。
「うん。
ルシは僕と一緒にこれから大きくなって、僕の<仕事>を手伝って貰わな
いといけないんだけど。
君は、一番最初の子で色々多分・・特別で。
僕が次の子の卵を創るまでには、この創りかけの場所をもう少しきちんと
しておかないといけないんだけど、君にはまずそれを手伝って貰いたいん
だ。
だから、僕の力をいつも分けるために。
もっとほかの仕事をするようになって距離が遠い所に居ても“一緒に”居
られるように。
“御守り”の糸を繋ごう」
「・・・」
かれは少し思案するような表情をしてから、わかった、と頷いた。
素直に開かれた小さな口は、小さな白い歯と綺麗な桃色の舌が見えている。
その舌の上に小さな星形をそっと落とした。
口が閉じて、内容物を確かめるように頬が動く。
「・・・・“甘い”」
僅かに瞼を伏せ気味の表情が、少しだけ柔らかく綻ぶ。
良かった、好みの味だったみたいだ。
ちょっと“甘酸っぱい”感じの“飴”っぽくしてみたんだけど。
「・・“美味しい”?」
尋ねてみると、頷いて顔が上がり。にこりと笑った。
・・・・・・・・。
かわいい。
ああ、なんだこのぎゅーっとして黒い髪をわしゃわしゃしてみたいような
気持ち! ・・・・でもやったらどういう反応を・・・。
うーん、と考えていると服の袖が引かれた。
ん?と見ると、すぐ傍(そば)に座り込んだかれが見上げている。
「・・・・ええと。
エルもそれを食べないといけないんだろう?」
あ。星形持ったまま考え込んでた。
慌てて左手のそれを口に放り込んで転がしてみる。
うん、美味(うま)い。この味選んで良かった。
かれを見直すと、ほっとしたような顔をしている。
なんだ、僕が食べるのを躊躇しているとか心配したんだろうか?
そんなわけないのに。・・悪いことしたな。
「美味しいね、ルシ」
もごもごしながら笑いかけると、かれはもう一度こちらを見上げて、もう
一度味を確認するように口元を動かしてから。
「・・・・うん。
美味しい」
ふへ、って少しだけ崩したような笑顔が。笑顔が。
・・・・・・・・・。

 もうダメです。
僕は負けました。負けでいいです。
「るーしー!」
ぎゅーーっ。
小さな身体を押しつぶしたりしないようには手加減したけど、驚いた様な
気配が息を呑む。
「?! ・・・・ちょ、エ・・」
ぎゅっと両腕で抱え込んで、頬ずりして髪を撫でる僕に、ルシは本気で驚
いたようだ。小さな手が僕の肩を押して離れようとする。
ごめん、まだ放さない。
「可愛い、可愛い、可愛いよ。
ルシ、“大好き”だ!」
本能だか心情だか両方だかなんだかわからない気分で叫ぶと、もう一度気
が済むまですりすりと、柔らかい頬に自分の頬をくっつけた。
「・・・・」
単にそうしたいだけだ、と理解したようでかれは少し間を置いて、深々と
小さな口元から溜息をついて僕を剥がそうとするのを諦めた。
されるがままにしている。
心ゆくまで堪能してからやっと腕を緩めると、呆れたような顔をしていた。
「・・・・エル」
「・・・・はい」
真面目になった表情が、やっぱり可愛らしいがちょっと怖い。
「・・・・・・・・。
私の意向は考慮して貰えないのか」
「・・・・。
ごめんなさい。
ルシが可愛くて、ぎゅーっとするのさっきも我慢したら、どうしても」
「・・・・・。
・・・・・・・・。
・・・まあ、いい」
ぷん、とそっぽを向いた頬が少しほんのりと紅(あか)味を帯びているのに気
が付いて。また、ぎゅっとしたくなったのを落ち着けて、立ち上がっていたか
れの前に座り直して、その両手を僕の両手で取った。
「?」
不思議そうにこちらを見た顔に向かって、笑いかける。
「・・・ごめんよ、ルシ。
でも、あの。
・・僕が、最初に出会って。話をして手を取れるのが君で。
とっても嬉しいんだ」
口の中にまだ残っていた飴の最後の欠片が丁度、溶け消えた感触がする。
取っていたルシの両掌を僕の胸の上に引き寄せて、とん、と触れる。
「・・・・ほら、“糸”が繋がったよ。
見えないけど、わかるだろ?」
具体的に形があるものではないので別に“そこ”に在るというわけではな
いのだが。僕からかれへと流れる、今はまだ本当に細い一筋であるエネル
ギーの流れである“糸”があることはかれにもわかったらしい。
頷いて、僕を改めて確認するように眺めた。
そして、口を開く。
「・・私を、“可愛い”と言っていたが。
エルは、金色で、暖かくて。とても“綺麗”だ」
返礼のように返された言葉にもう一度笑って。
「・・・有難う!
この“糸”も僕らと同じで大きくなっていくんだ。
一緒に、この<世界>の先を見届けよう」
「・・・・わかっている。
私は、君を助けるために創られた。
君がよりよく進めるように、この手はここに在るんだ」
真面目な面持ちで返された言葉は、確かに正しいのだけれど。
でも、僕の希望(のぞみ)と少し違うんだ。
「・・・ルシフェル」
縮めずに呼ぶと、かれは「?」という表情を返した。
「僕が、好き?」
尋ねると、少し間を置いてひとつ頷いた。
「?
何故、尋ねる?」
不思議そうだ。
「・・・・。
ルシには、“嫌われ”たくない、からだよ」

 繋がった“糸”を辿った時。それを通じてかれを“みた”。
 かれを創り出した時の[記憶]と“記憶”を、そして目の前のかれを見て
 色々なことを“認識”する。
 ・・嫌われたくない。
 それ以上は、かれには決して話す事はない。
 [記憶]ではない。僕の“意志”が。
 それはあってはならないと、意識の底に深く刻み付ける。
 その気配を決して表に浮かばせないように笑いかけた。

「・・・・・・。
ちょっと、待て」
突然に、それまでと調子の違う声が聞こえた。かれは、怒ったような表情
になって更に私の間近に寄ると、確かめるように慎重に言葉に乗せる。
「“嫌い”だと?
まさか・・・、私に“刷り込み”を入れていないのか?
何故、そんなことをした。
<神>いや・・<神の代理人>の助け手がそれでは危険過ぎるだろう!」


 その後。
<世界>を<管理>する非常に複雑な仕事の紙一重の可能性についてと、
配下への制限についての必要性をこんこんと諭されたというか叱られた。
自分についても出来れば創り直してほしいと言われたのだが、卵を創り出
す時に原初の闇の欠片を使ったかれは、後付けも創り直しも不可能だ。
創り直したくなんかない、という非常に個的な僕の意向を確実な別とすれ
ば。実際問題、残っていた分はもうこの僕達の在る“場所”の基(もと)を
創り出すために使ってしまったし。もう一度“操作”するにも、再び同じ
ように創り出すにも必要な素材は、無い。
それを聞いたルシフェルは、深い深い溜息をついて。
僕が「二番目の子からは必ず」と約束するまで、ずっと口をきいてくれな
かった。



***



 それは、意図してやったことではなかった。
ふわ、と。そっと何かを潜り抜けたような感触がして。

 とん、と浮き上がっていた中空から床に足をつける。
周囲を見回してみるけれども、白っぽい石板を組み合わせたような真円状
の床と、縦に浅く半円の細かな襞のある丈高い円柱。
そしてそれを透かした周囲に広がる“星の海”。
エルの創った“最初の場所”は、今までの記憶と変わりない。
広げていた一対の翼を背の上におろして、それでも何かが違う、という感
覚の原因を確かめようとする。
・・・なんだろう。
何が違うというのか。
 視覚的なものではない。
体感的なものでもない。
それは・・・。
「・・・。エル?」
エルが、此処に“居ない”という感覚だ。
気配が全く無いわけじゃない。
でも、“此処ではない”と本能のようなものが強く訴える。
創りかけや、拡張中の別の場所に居るのでは?と意識の内では可能性も検
討してはいるのだが。やっぱり本能が、違う、と確信している。
「・・・・・」
もう一度、先程と同じように中空で背の翼を軽く羽ばたかせてみる。
そして、なんとなくの感覚を再現するように“遠い”ほうへ“飛ぶ”。

 そこは、やっぱり同じように見える場所で。
・・・しかし。
そこには、先程とは明らかに違うものが在った。
 エルくらい。・・だと思う。
の大きさの、ぼんやりとした淡い金色の輝きが。
まるでエルを何かですっかり包んで覆って輪郭を無くしてしまったかのよ
うな縦長の丸い・・“繭”のような形で、そこに、佇んでいる。
気配。
薄いけれど、それは確かにエルの気配を宿していた。
恐る恐る傍(そば)に近寄って、右手をそっと、その朧な光に向かって伸ばし
てみる。
指先は、何にも触れない。
その光が、私の指を仄かに染めることもなく。
私の指先に、それが在るという何かを伝えることもない。
干渉出来ない、なにか。
「・・・・・。
影、なのか?」
思いついた概念を口にして、それからそれが正しいのではないかと認識す
る。
エルは、此処に、居ない。
だから、影が残っている。
 もう一度、金の影を眺めてから。
確かめるために浮かんではばたいて。
それから、思い切って少し強く進む。
今度は、“逆”に。
エルの気配を追って。
そして、それを越えてさっきよりもほんの少しだけ“遠く”へ。

 ・・・・・。
そこには、見慣れた“場所”がなかった。
遠く遠く、広がってゆく深遠の黒。
遥かな彼方まで、時間と空間を満たしている星の海。
その只中に、私が独りだけで。浮かんでいる。
・・・少しだけ、それに“寂しい”と感じて。
金影を眺めた時のようにもう一度、その風景を記憶に留めて。
再び、羽ばたく。
今度は、“かれ”の“居る”場所を目指して。


 「・・エル!」
「・・・ルシ?!」
突然目の前の中空に現れた私に、エルは少し驚いたように両腕を差し出し
て、確りと抱き留めた。
「・・・どしたの?
少しだけ、ひんやりしてる」
見た目の[概念]からいえば、かれの大きさや身体つきは私が多少小さいか
らと言っても抱え続けるには手に余りそうな感じだが。幸いかれにはそう
いう制限はそう簡単に影響する程無い。
右腕だけで軽々と私を抱えて、空いた左手で頬や腕、そして背に現れたま
まの翼に丁寧に触れる。
 私の翼は身体と見合っているのかまだ余り大きくなく、一肢が自分の腕
の手先から肘くらいまでの大きさでしかないが。全部で六対も在る。
こんなにあっても邪魔だと思うのだが、エルが“増幅用兼予備”とかよく
わからないことを大真面目な顔で言っていたので、何らかの意味はあるの
だろう。
少しづつ動かしてみようと、時々背に一対かそこらを現して羽ばたいてみ
ていたのだが。それで起こったのが先刻の事態だ。
あれは、普通の“空間の移動”ではない。
何時もよりもひんやりしている、のはきっと、かれの気配のある場所から
離れて、今の私には少しだけ大き目のエネルギーを消費したせいだ。
「・・・。
エル、君は、私に何の能力を与えたんだ?」
「え?」
一瞬、かれの表情が硬直したように思ったが。
それは直ぐに解けて、きょとんとした様子になる。
「・・何か、よくわからないことが起きたとか?」
「・・・・・。
いや、起こった事はなんとなく“理解”できた。
私は、“時間”を“飛ぶ”事が出来るようだ」
先程の事と、そう考えた経緯を説明すると、かれは少しの間考えていた。
「・・・・成程。
それがつまり、君に“あれ”を使った理由ということか」
「あれ・・・って。
“原初の闇”の欠片、のことか」
何か他事のように口にしているが、かれは時折そういう事がある。
<神の代理人>であるかれは、かれよりも上の存在にこの世界の管理者た
るように“造られて”いる。・・・ということを、かれが私を第一の補佐
役として創ったために、私もある程度[記憶]という概念や知識のようなも
のを共通のものとして有しているため一応“知って”いる。
その[記憶]があるため、かれの行動決定時にはその意図とは別に時々[記
憶]に従って無意識にしていることが含まれるようで、後で追認識してい
るらしいことがあった。
どうやら、今のもそのひとつのようだ。
「・・・単に、君の思いつきというわけではなかったのか」
かれの普段の様子を見ているので、てっきり手近にあったよさそうなもの
を選んだ、のだとばかり思っていた。
「いやまあ。
卵を創った時は多分・・僕自身はただ、あれがいい、と思いついたような
状態だったんじゃないかな?」
あはは、と明るく笑うとかれは私の髪をくしゃくしゃと撫でて、それから、
よいしょ、と私を足先から床に降ろしてくれた。
 別に、かれが[記憶]に拠る“考えなし”の行動ばかりする、などという
ことはなく。一部の例外を除けば基本的には[記憶]は情報のひとつに過ぎ
ず、かれはかれなりに考えて決めているし、説明されれば問題があるよう
なことは稀だ。が。
時折、本当に気紛れのように突拍子もないことをするのだ。
それが、本当にかれの只の“思いつき”の“気紛れ”なのか。
それとも、<神>という存在の取る“必然”であるのか。
見分けるのは、私にはとても難しい。
更に最近は時々、“冗談”というものまで使い始めたので最初は戸惑った。
“嘘”・・とは少し意味合いが違うのだが。
慣れればこれは、見分けがつくようになるのだろうか?
 背の翼をしまって、ふと。
先程まで、かれの気配の無い時間に飛んだことで少しだけ冷えていた身体
がいつもの温度に戻っていることに気が付く。
私を抱えていた間に、かれが何気なく力と温度を分けてくれていたのだろ
う。エルは私に、いつも優しい。
「・・・有難う。
もう、ひんやりしてない」
かれの言い方を真似て礼と共に笑い掛けると。
エルは、どういたしまして、と嬉しそうにえへへと笑った。
それから、ひょいと身体を屈めて私の顔を覗き込む。
「・・僕は、その翼は“星の海”を飛ぶためのものだと思ってたよ。
ルシは、もっと“遠い”ところに行けるんだね」
私の翼は、透明な黒だ。
重なっていると不透明に深い黒に見えるけれど、完全に広げて光に翳すと
少しだけ半透明気味に、その向こうの風景が見える。
暗い空を背景にしていると、時折薄い星の光が輪郭を縁取っているらしい
が、余り出していない上に自分では背後は見辛いのでその辺りはよくわか
らない。もっと翼が大きくなって背丈を覆う程になれば別だろうが。
「・・・もっと、大きくならないと“遠く”へは飛べないな」
これが何かに役立てられるようになるのはどのくらい掛かるものかと、少
しだけ溜息をつくと暖かな掌がそっと頭の上に乗る。
「・・何、溜息ついてるのさ。
急いで大きくなったりなんて、しないでくれよ」
掌が顔に移って、両頬と眉間に小さく音を立てて口接けが落とされる。
・・眉間に皺でも寄せていたんだろうか、私は。
「エル、でも。私は」
君の助けになるために在るのだと、そう言い掛けた私の言葉を遮って。
エルの右手の人差し指の先が、封じるように私の唇の真中を軽く押さえた。
「・・・わかっているよ。
でも、それだけじゃなくても、良いだろう?」
こつん、と額が額に当てられて。
「僕は・・・君と一緒に居るのが好きだよ。
大きくなったら・・・
君は、きっともっと、遠く遠く“旅する”ようになる。
その間にも、この“糸”と“記憶”があれば本当に離れたりはしないけど。
でも、だから。
それまでは、ずっと傍(そば)に居てほしいな」
出来ればそれまでがなるべく長いと良いんだけど、と冗談でもなさそうな
口調でかれは口にする。
「大きくなったら、きっとこーしたりしたらなんか止められそうだし」
いつかのように、ぎゅっと抱き締めて頬ずりするその仕草が、幸せそうな
のに何故かどことなく寂しそうで。
「・・エル。
私も、君と居るのは好きだよ」
かれには、笑っていてほしい。
時々私が振り回されて困ることがあっても、元気な様子でいてほしい。
腕を緩めてくれたので、その頬にそっと口接けを返して。
「だから、私の“神”であってくれ。
ずっと、変わらずに。
・・・・・私が、遠く旅する時が来ても。
君が、私の帰る場所なんだから」
言葉に込めた意味合いを、かれは読み取ってくれたようだ。
うん、と頷いて。
「そうだね。
僕はずっと・・・君の“信じるに足る”ものでありたいと思うよ」
もう一度抱き締められた腕の温かさと、ルシフェル、と耳元で確かめるよ
うに呼ばれたその声を。
私は、きっとずっと忘れない。


 あれは・・何の話の時だったのだろう。
 かれがまた冗談交じりに何か言ったのだろうか。
 「君は・・・本当に面白いな」
 少し呆れたように言った私の言葉に、でもかれは。
 嬉しそうに笑って。
 「光栄だね」
 と眉上に片手を翳す仕草をしてみせた。
  ああそんな、他愛の無い記憶が。
 幾つも幾つも。
 
 私とかれとに、緩やかに降り積もる。
 それは、管理者と助力者であるけれど。
 なによりも、それよりも。
 君と、私。
 <エル>と<ルシフェル>。
 その間に交わされた、記憶。




 END.



<Egg>-after



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