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<Parts・2> “堕天使”という言葉は私にとっては正でも負でもない。 よいことだと思っているわけではないが、その行方を神がお許しになって いて問題が生じていないのであれば差し支えは無いのだろうと。 ・・そして、その選択がなければ今此処に存在している自分もまた、この “私”ではなかったのだろうと思うから。 例外、というものも、何にでも起こりえるものだ。 私が、実際に堕天使の“ひと”をこの目にしたのは幼い頃にただひとり きりだ。 “彼”はこれまで大方がそうであったと伝えられるように、見るからに不健 康そうで、熱病に浮かされたようなふわふわとした様子もあったが。ほっ そりと上品な初老の男性の姿をしていて口数少なく穏やかに、どこか夢見 るような風情で人の多く住まうところから少し離れた場所に小さな家を建て て暮らしていた。 草花がとても好きなようで、家の周りは見たことのあるものばかりでなく、 見たことも無いものや不思議な姿をした植物が育っている庭や、無色透明 な硝子だけで造られているらしい小屋のようなものもあった。 私が物心つく前に、天から降りてきたという一族の始祖“アダム”とそ の伴侶である“イヴ”はこの世を去っている。彼らはとても壮健で晩年ま で開拓に明け暮れたと伝えられているので印象が重なるところは無いのだ が、私はどこか、彼に天から降りてきた始祖の面影を探していたのかもし れない。 1人でちょこちょこと覗きに来る小さな私に気付いても彼は邪魔にする素 振りはなくいつも静かに過ごしていて、気が向くと手入れやそのほかの作 業の合間に、優しい少しだけ掠れ気味の声で土や植物やそれに関わる動物 の話を語って聞かせてくれた。 そのうち、いつの間にかどことなく彼に雰囲気の似た女性が、放っておく と長時間作業をしつづける彼の世話をしている姿を見るようになり。 数年が経った頃・・その家は無くなった。 堕天使というものは、元々は天に仕えるように定められて生まれてきた “天使(みつかい)”であり、その道を完全に外れようとすることは存在を 拒否するに等しい。だから、“堕天”を選ぶのは本来は人間を遥か超える 力を持つかれらにとっても容易なことではなく、天使(みつかい)であるこ とを捨て去って人間とほぼ同じ殻を纏って地上に降りることは、生きたま ま構造を全て作り変えることであり、生命(いのち)を賭ける行いなのだと いう。 そして、もしもその賭けで生き残っても、残る時間はさしてないのだと。 大概はたった一年ほど、長くても三年。 人間から見ても、それはとても短い時間。 ・・・それでも、どうしてもと何かを望んでその道を選ぶのならと。 神は彼らを許すのだろう。 私の記憶が正しいのなら、彼は最長といわれていた三年よりも少しだけ 長く生きていたのだと思う。 彼は道を違えて地に堕ちても神への敬意と感謝は持ち続けていた様子で、 遺したものを放置して影響がないようにと、死の目前に、全ての私物や沢 山育てていた植物たちをも跡形も無く処分した。 あれほど大切にしていて、かれらのためには労を厭わぬ様子だったのに。 『これは・・私の“我儘”だからね』 細めた瞳はどこか、遠くここでないものをみていて。 最初に会った頃よりも痩せた指と頬が、それらを燃やす不思議な炎に照り 映えてこの時でも穏やかな筈の彼をどこか厳然とみせ、そしてまたどこか、 深い安堵と諦めのようなそんな気配がしていた。 本当なら何かきみにも別れの贈り物をすべきなんだろうけど、私は自分 のためのものは全て捨てると決めていたから・・と、済まなそうに微笑む 彼を見て私は言った。 子供の私と一緒に遊んでくれて、地上の生き物について私が知っても問題 無い範囲で色々教えてくれた。 それだけで十分なのだと。 彼はそれを聞いて少し驚いたように目を瞠って、それからくしゃりと笑み 崩れた。 きみは優しいね。ありがとう、私の友達でいてくれて。 彼からみたらほんの僅かな時間しか生きていないだろう私を一度もけして 子供扱いしようとせず、対等に接してくれていた彼が。 その時だけは普通に年上の人間が親しい子供にするように、そっと優しく 頭の上に伸ばした手で私の髪を撫でた。 それからいつもの表情で穏やかに笑って、床にしゃがみこむようにすると 片膝をついた。立っていた私と目線が近くなる。 よかったらあの子にもきみの時間を分けてやってくれ、と。 それが、彼が私に遺したたったひとつの願いだった。 彼と共に暮らしていた女性とその娘は彼が亡くなって間もなく、最後ま で残されていた小さな家を取り壊し、身の周りのものだけを持って人の集 まる場所に移り住んだ。 彼の願いがあったからだけではないけれど、私は彼の思い出のためにもと 彼女たちの住まいを時々訪れるようにした。 些細な思い出話の遣り取りが、二人だけの暮らしには何よりも当分必要な ようだったから。彼らの娘は、自分が覚えていない父親の話を幼い瞳で不 思議そうに聞いていた。 彼女は両親に似たのか、どこか不思議な雰囲気を湛えた穏やかな優しい 少女に育った。ただ、一見おとなしく見えて頭の回転の速さと決断力・行 動力はずば抜けていて、彼女がこれと決めて口を開く時には反論出来るも のは同世代には中々居なかった。 それと、彼女には少しだけ不思議な力があった。 おそらく父親の力の一部を継いだのだろう。 彼女の手にかかるとしおれていた花は息を吹き返し、扱いが難しいといわ れる木々も見事な実をつける。けして自然に逆らうものではないが、その 流れをよりよく手助けするようなそんな力だ。 彼女自身にはそういう力があるという自覚があるわけではないようで、た だ絡まっていたり滞っているものを直しているだけなのだと、当人以外に はわからない感覚を、誰かが尋ねるとたまに口にした。 “緑の指”というあだ名をつけられて呼ばれると、わたしの手は緑色じゃ ないわよ、と笑ってみせたがその横顔に浮かぶ表情は、それを結構気に入 ってる様子だった。 子供の頃は生まれた時から知っていたこともあって全く意識していなか ったのだが、私は人の祖である天から降りてきたアダムの直系で、それは 代々“天使と人間の間に生まれた娘と結婚する”しきたりを続けていた。 天から降りて来たことを忘れない、ということと、もうひとつの理由は、 寿命の点だった。 アダムの直系は長命で最大1000歳ほど生きる。だが、離れていくほど寿命 は短くなってゆく。これはアダムとイヴが地上に“少しだけ早く”降りた という理由に原因があるようだが、詳しいことまでは分からない。 全体では300歳ほどの平均である直系以外の人間と比べると、直系の持てる 時間は長い。その長い時間を生かして責任者や語り部の役職に就くことが 多かった。それは良く務めている限りは利点だ。 しかし、寿命差の問題は個人にとっては一つの難点があった。 成人となるまでの速度は余り変わらないのだが、寿命が長ければ長いほど その後は変化が緩やかになる。・・・つまり。 ほぼ間違いなく、時を共にしたい伴侶を先に失うということだ。 近い血と婚姻すると支障が現れることが既に初代の時期に判明していたそ うで、この問題を後に起こる差と両方とも解決したのが“天使と人間の間 に生まれた娘と結婚する”ということだった。 天使といっても“堕天使”・・天使(みつかい)の任を捨てて人として地上 に降りてきた存在になるのだけれど、アダムとイヴが予定より早く降りた のも彼らの選択の誤りによるものだそうなので、ある意味で親近感のよう なものを感じていたようだ。 ちなみに何故“天使と人間の間に生まれた子と結婚する”ではないのかと いうと、何故か男子は生まれないかららしい。記録にも無い。 まあその謎はさておき、“天使と人間の間に生まれた娘”たちは、たまに 何らかの力を少しだけ継ぐ者もあったが人間と殆ど変わらず、寿命はアダ ムの直系に次ぐほど長かった。 ・・・まるで、堕ちて儚く散った天使の永遠を幾許かでも補うかのように。 つまり・・丁度良い時期に現れた彼女は親同士の間で決められた私の許 婚だったわけなのだが。 双方とも余りそういうことに頓着しないというか関心が様々なことの二の 次だったため、完全に年頃になるまでは幼馴染であり特別に親しい友達の ような関係だった。 だから、そろそろと告げられた時には少々慌てた。 これまでの状況と何かが変わることに。 ・・・だけれど、私と違って彼女は迷わなかった。 女性だから、男の私ほどそれまで頓着なくはいられなかったという点もあ るのだろうが。それを差し引いても潔い。 かつて、彼女が生まれたあの家のあった場所に私を呼び出して、彼女は 私に向かってこう言った。 わたしたちは多分、ほかの誰より親しいわよね。 わたしとあなたの結婚は親同士が予定として決めていたことだけど、ゆえ なく決められたことだとは思わない。 わたしはあなたと一緒に育ったし、わたしはあなたをよく知っていて、あ なたもわたしをよく知っている。 あなたは疎いから、これまで保留していたのだと思うけど、わたしはもう 以前からよく考えていたの。 色々なことを置いておいた上で、結婚するなら誰がいいのか?と。 ・・でも、やっぱりわたしはあなたがいいの。 あなたの真っ直ぐ過ぎるところをバカだというひともいるけれど、あなた は本当に自分で正しいと信じていることにしか従わない。 それが、わたしは好きなの。 今でもそれなりに満足だけど、もしもわたし以外にあなたの相手の候補が 何人もいたのならきっともっと平静ではいられなかったんじゃないかとい うくらいにはわたしも余裕じゃないのよ。 あなたは綺麗だし、年頃の女の子ならそれこそ沢山居るわけだし、と彼女 はそれでもきりりと決意をみせながらもやっぱり考え抜いた末らしい落ち 着いた態度で続けた。 ・・あなたが構わなければ、もうすこし傍に行ってもいいかな。 差し出された見慣れた片手は、土いじりで少し荒れていたけれどほっそ りとしていて綺麗だった。よく陽に焼けて健康的な肌。 ふっと、あの庭でみた彼の痩せた手を思い出す。 あの頃からずっと、彼女と私は同じ時間の中に居たのだと。 目の前に、少しだけ離れて立つ姿を見遣った。 中肉中背で、容貌は整っているが目立つほどでもなく。 さらさらとした長い髪を結って留めただけで簡素な衣服を選んだ格好は飾 り気がない。 けれど、彼女が話す時、笑う時、怒る時。 動く度に、呪縛から抜け出た樹木の精かのように自然に美しいことを私は 知っている。 私とどこか似ている、自分の信じたものを選ぶ心。 そして、その隙無く結ばれた薄い口元が微かに噛み締められているのを。 よく知っている気配がその底に緊張と不安を漂わせているのを感じ取って。 私はその時、傍に居たい、と強く思った。 手を伸ばして、そっとその手を取る。 彼女から全部言わせてしまって、情けないような気もしないでもないけど。 まあこれがよくもわるくも私たちなわけだし。 こんな私で本当にいいのなら、と。 漸く気がついた想いを言葉にして、告げる。 ・・・そうして、私たちは本物の許婚になった。 数年後から始まった結婚生活は特に問題もなく。 調べ物と書き物の仕事をする私と、家を切り盛りしながら植物を育てて余分 な作物を売る彼女は役割分担も相談して決め、時が過ぎるうちに何人かの子 供にも恵まれた。 元気よく駆け回ったり、彼女を手伝って土いじりをしようとしたり、私の作 業に興味をもって背の届かない机の上を見ようとするその姿を見ると、ふと 思う時がある。 もしも彼にもっと時間が有ったなら、あの庭でこの子たちがあちこち覗いた り話を聞いたりすることもあったのだろうか、と。 子供好きそうだった彼は、きっと賑やかなのも喜んだだろう。 それが少しだけ残念だ、と話すと彼を知らない彼女もそうね、と微笑む。 調べ物のために、私はしばしば遠出をしたがその際に彼女に頼まれてゆく 先々の土地にある植物を持ち帰った。 彼女は父親のように明らかに“変わった”姿のものを造り出すことはなく、 その植物そのままを育てていたが、健在である“緑の指”でかれらは伸びや かだがやたら繁茂することもなく行儀よく分を守り健康そうに風にそよいで いた。 ひっそりと秘められていたあの場所と違って、ここには人が度々訪れ、そし て時折はここから手渡されてゆく植物たちもいる。 此処は、どこか懐かしい、でも新たな庭。 いつも植物を持ち帰っていたせいか、彼女が咲かせる花がどこのものより も綺麗だったためか、私は彼女に花を贈ったことはなかった。 いや、そもそも思い返せば、結婚する際も家同士の遣り取りのようなものだ けで個人的にそういう意味で贈り物をしたことが無い。 子供の頃から、自分が何かそういう選択眼的なものがズレていることは解っ ていたので、彼女に本当に喜んでもらえないものをあげて呆れられたり落胆 されるのは嫌だなとどこかで逃げていた感もなくもないのだが。 贈っておけばよかった、と本当に気がついたのは、もう遠く隔たってしまっ てからのことだった・・・。 彼女は、ふとこう告げたことがあった。 あなたはそれほど長くわたしと一緒に此処には居ない気がする、と。 その時の彼女の瞳はどこか、あの地上のものではない炎を見ていた厳然とし た彼の瞳に似て見え、私の手出し出来ない領域の気配を湛えていた。 勘は良いほうだが予見などしたことはない彼女の言葉に、私はそれでもその 時少し不安になって言い返した。 何故、そうなんだと。まだ来ていないことなのだからわからないんじゃない かと。 彼女はその瞳をいつもの表情に変えて、それでも静かに答えた。 そうね、わたしにもわからない。 けど、一緒に居る間のことをずっと覚えていたいの。 あなたとわたしが此処に在った思い出のために。 その時はよくわからなくて、彼女の手を取ってそんなことはない、私は此 処に居ると言ったのだけれど。 その言葉は、随分経ってから現実のものとなった。 *** 彼女が亡くなっていたことは、その頃には“地上”の情報をある程度詳細まで 扱えるようになっていた私がふと気付いて調べた時にわかった。 かれがいつか教えてくれた未来の欠片のように、私の家族は特に大きく健康 を損ねることもなく過ごしていたようだった。 それに、ふとあの時のような安堵と、それを目に出来なかった一抹の寂しさ を込めた溜息を落としてから。 彼女の亡くなった時期が、丁度彼女が気に入っていた花の時期と重なってい ることを思い出して。 遠く、“地上”に在った日常に思いを馳せた。 それから数ヶ月が過ぎ去り、あの花の時期が来た頃。 私はまたふと思い出して少し沈んでいた。 せめて、彼女が自身に望んだように、思い出を留めるように思い返す。 あの花と彼女の姿を。 墓碑に手向けることが出来ないから。 美しい彩の代わりにはならないだろうけど、私の祈りを贈ろうと。 ・・・ああそうだ、色々な花が好きだった彼女の一番はわからなかったけど。 あの花を贈ってもよかったなと。 ふと、泣きそうになった時、その声が耳に届いた。 「・・なんだ、元気がないじゃないか。 どうした?」 長いと数年に一度のほんの僅かな時間にしか聞けない声が、明るい音程で、 でも気遣う気配を乗せて言葉を紡いだ。 この仕事部屋に現れる時に大概するように、窓辺に腰を下ろして。 でも今日はもう夕刻過ぎで、その背後には木立を透かして美しい夕暮れの青 と紫の色が広がっている。かれの影も少し青い。 「ルシフェル」 名を呼んで、とりあえず何を言うべきなのか、と考える。 だけれど、今このタイミングで聞く優しい色合いの声には余計涙が零れそう で。 返事を待ってくれているかれに向かって口を開き、 「・・・少し、今の“地上”の時期を思い出して。 どうしても、懐かしくなってしまったんだ」 とだけ答えた。 かれは少し不思議そうに思案してから、ああ、と独り言のように呟いて。 「“郷愁(ホームシック)”というやつか」 と淡く微笑んだ。 少し違うが、ある意味とても正確でもある言葉に私は頷いた。 私と彼女と子供たちが過ごしたあの家と庭が、今とても懐かしくて帰りたい。 でももう、そこに彼女は居ない。 けっして帰ることの出来ない時が懐かしい。 ふと、時を渡るルシフェルにはこういう感覚はあるのだろうかと思ったが、 そもそもそういうことを気にするたちでは仕事が務まらないような気もする。 天使の間ではそうそう会えなくなるというようなことは無いだろうし。 かれにとっては、神の元が“家”だろうから、そういう意味では時々帰って 来ることで足りているのかもしれない。 そんなことを私が考えている間に、かれのほうもなにか暫し目を伏せて考え ている風だったが。 ふ、とひとつ小さな溜息をつくと軽い仕草で窓枠から床に降り、そのまま腰 を下ろした。そして顔を上げてこちらを見るとひょいひょいと手招きをする。 その手の仕草で横に座れと示されたので、窓枠の下の壁を背凭れにしている かれに倣って隣に腰を下ろす。 徐々に暗くなっていく窓からの残光が、かれの短い髪と、ズボンと同じ布地 で出来ている上着の肩に陰影をつけている。 かれはそのまま少し前を向いて無言だったが。 「・・・・やっぱり、フォローする羽目になるのは私じゃないか」 とごく小さく微かに呟かれた後、こちらの顔に流れた視線が少しの間躊躇し て。肩越しに右腕が伸ばされて私の右肩を引き寄せた。 その手が、かれの肩に乗る状態になった私の頭を軽く指先で叩いた。 ・・・。 かれは時々気紛れに私のところを訪れて話をしたり遣り取りをしていったり、 土産をくれたりする事もあるが、直接触れる機会は非常に稀だ。 というか・・これは慰めてくれているのだと思うが。 少し驚いて姿勢を起こそうとしたが、かれの腕と手がそのまま、それほど力 を入れていないように感じるのにきっちりと頭の位置を保定していたので動 けない。 「・・・ルシフェル、あの」 有難うと言うべきなのか、郷愁の事情とか他の事を言うべきなのかよくわか らない状況でとりあえず呼び掛けた私に。 「・・・。 私が昔、とても落ち込んでいた時に、エルがこうしていてくれたんだ。 おまえが郷愁で悩むのもエルのせいだから、暫くこうしていろ」 少しはましだろう、と。 素っ気無いくらいに感情の見えない声だったが。 肩と腕越しに伝わってくる気配が。 ・・・いや多分、なんとなく神はこんなに位置保定はされていなかったのだろ うと思うけど。 これが、いまいち掴みどころの無い時のかれなりの照れ隠しなのだろうとい うことは私にも見当がついたので。 「・・・有難う。 もう少しだけ、このままで居て貰っても ・・構わないか?」 尋ねながら、力を抜いて頭を肩に凭せかけ直すとなんとなくほっとしたよう な気配が返る。 「ああ。 私が飽きるまで、はな」 陽はもう落ちて、暗くなった部屋の中でかれの顔は、私が顔を上げられたと してもよくは見えないだろう。 かれは顔を上げたままどこかをみていて、私は凭れた肩口から伝わる呼吸の 動きを感じている。 天使(みつかい)であるかれにひとのような心臓はないから、もしも頭をずらして その胸元に耳をあてたとしても鼓動は伝わらないのだけれど。 それでも、自分にどこか近いいきものの気配が傍(そば)にあることに安心する。 なんとなく、このまま眠ってしまいたいような気分に陥って。 いやこのまま寝たら流石に怒られると思うのだが。 それと、まだもう暫くしたら今日の仕事の片づけが・・・。 まあ、かれが来訪した時には時々予定もどうもこうもないのだけれど。 「・・・・。 疲れてるなら寝てしまえ。ラジエルには言っておいてやる。 多分、急ぎの仕事はないんだろう?」 ぽん、ともう一度軽く指先が髪の上を叩いた。 気配の変化を読まれていたようだ。 「・・・・いいのか?」 「おまえひとりくらいなら運べるからな」 かれは細身の体格と見た目よりも軽い重さの割に、通常状態(らしい)でも人 間からするとそれなりの腕力がある。私を担いでそう遠くない私室まで運ぼ うと思えばさほど難しいことではないだろうけど。 最上級天使が、たまに帰って来た滞在時間の一端を使うことがそれか。 そもそも直接運ぶ必要があるのか(言い回しからして意味は間違っていないと 思う)。 唐突に可笑しくなって笑った私に、不審そうな気配が返る。 「? 何か変なことを言ったか?」 「いや・・・ ルシフェルは優しいなと、思ったんだ」 「・・! うるさい。とっとと寝ろ」 また照れさせてしまったようだったが、それでも抱えていた頭と肩を放り出 したりせずに居てくれるかれは本当に優しいと思う。 もう一度少し笑って、おとなしく甘えさせて貰うことにした。 いつか、何かでかれを助けてあげられればいいのだが。 多少天界仕様になっているとはいえ、ただの人間でしかない私に出来る事な ど限られている。 だから今は・・かれの言う“暇潰し”だというたまの訪問に付き合おう。 「・・・おやすみ、イーノック」 真面目に、静かな響きが告げて。 慣れていない風な手がそっと髪を撫でてくれた。 「・・おやすみ、ルシフェル」 挨拶を返して目を閉じる。 時を渡る翼の元でなら、帰れない時に帰る夢がみられるだろうか。 夢の中の彼女に、花を届けよう。 祈りと共に、幸福だったという思い出を添えて。 記憶は共にあるだろう。 私が生きている限り。 END. 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