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それは、黒と銀の色彩をしていた。 様々な色彩を生み出すように造られたのだという人間のなかには、黒い肌も 白い肌も黄の肌も赤い肌も茶の肌も、様々な眸の色と髪色があったが。 それでも、それは私が初めて目にした色彩だった。 神に引き合わされた“世話係”を目にした時も少し驚いたのだが、かれが どのような天使であるかを聞いて更に驚いた。 人間の感覚でいえば、普通その場所に不慣れな者を世話する場合、手の空 いている者か、そのような身の周りを世話することに慣れている者が引き受 けることが多いだろう。 なんと、かれは神の補佐官のような位置にいる天使だったのだ。 「ここにあるような情報とか、もっと広範囲のものを扱ってるんだよ」 と相変わらず神は気軽い口調で説明されているのだが。 無表情に近い様子で立っている“かれ”を見遣る。 “キューブ”の説明をされたこの部屋にふっ、とどこからともなく現れて神 の座している椅子のそばに佇んでいるけれど、先程から表情も動かさず姿勢 も変わらない。 ・・・迷惑がられていないのかと心配になってしまうのは仕方ないだろう。 私の様子を察して下さったらしい神が、苦笑されるとかれに顔を向ける。 「・・ラジエル、イーノックが怖がってるじゃないか。 挨拶くらいしたら?」 正確には怖がっているわけではないが、ある意味正しい。 神の呼び掛けにかれはふと表情を動かす。 真黒に近い滑らかな肌に、白いが不思議な透明さと光沢のある長い少し波打 った髪。その白の中には、何か細かく様々な色が時折ちらついている。 神と同じような白い長衣を纏っていて背は高い。私よりもやや上だ。 黒い肌には、顔の目と頬の辺り、それから袖から出ている手指にも白銀の紋 様がある。 面のようだと思った顔に引かれた銀線が開いて、かれがそれまで目を閉じて いたことがわかった。目の中は・・金属のような白銀一色だ。よく見ると人 間で言うと眸と白目の部分を分ける位置にそれを描くような線が入っている が。 「・・・“メイン”で少々やりかけの、固まりの作業だったのでな。 失礼。イーノック、私がラジエルだ。 神はおまえを“書記官”にするという希望のようだから、私が引き受ける事 になった。身の周りのことでも、仕事や資料の扱いに関することでも、質問 があればいつでも尋ねるがいい」 沈着冷静、を声にしたらこんな感じだろうという印象の音が響いた。 そして、とても明瞭で聞き取り易い。 目が開いて、黒色のため目鼻立ちの掴み難い容貌をよく見直すと、顔と声だ けなら至極中性的だろう。背の高さはあるが肩幅はごく普通で見えている手 や首の感じから見ても、目立って細くもないしがっちりしてもいない。 しかし、黙って佇んでいるだけでも口を開いても、色彩や身長のせいだけで はない存在感がある。 「・・は、はい。 あの、宜しくお願いします。ラジエル様」 とりあえず挨拶を返そうと慌てて口を開くと、 「様は要らない。 我々に神以外の上の存在は居ないのだよ。 まあ、敬意はアリなので敬語は許可する」 スパスパと歯切れ良く更に返答が返る。 「あっ・・はい、ラジエル」 正しく呼び直すと、かれはそこで漸く少し笑った。 ほんの少しだけ、声の響きも柔らかくなる。 「切り替えは早いようだな。 まあ、そもそもこの状況自体がおまえにとっては変則的(イレギュラー)にも 程があるだろうが。まあ神が決めた以上、仕方がない。 なんとか慣れてくれ。 では、ついてこい」 今度は、現れた時のようにふっと消えたりせずに透明の壁の戸口に向かうか れを見遣ってから椅子のほうを振り返ると。 「・・・いやまあ、喋るとなるとこの調子で。しかも仕事中はすっごい無口 なんだけどね。 悪い子じゃないんで」 ヨロシク〜と、脚を組んだ神は苦笑気味に微笑ってひらひらと手を振ってい らした。そのままついていって問題はないようだ。 そちらにひとまず礼を返して、先に戸を潜って表扉のほうに向かうラジエル の背を追う。 こんな調子で、私の書記官になるための一歩は始まった。 *** 慣れてみると、ラジエルは応対する時に常時気をつけなければいけないの かと危惧した当初の印象と違って、付き合いやすい・・と言い切ってしま っていいのかはわからないが、良い上司だった。 位置的には私は例外存在で神の直属にあたるので、もうひとりの上司とい うことになる。 まず私が真っ先に習得しないとならないのは天界語の会話と読み書きだ ったが。 卵から孵ったばかりの天使(みつかい)は普通すぐに不自由なく共通語も天界 語も操れるのだけれど、たまに上手く扱えないこともあるらしい。 最近は余り増えることもないのでお蔵入り気味だという、そのための天界語 の教材を共通語の解る人間用に変更したものを用意してくれた。 音声だけのものと、絵の映る板のようなものに共通語と天界語の表記に音声 が併せて流せるものがあり、簡単な操作で必要箇所を自由に繰り返したり確 認したり出来る。 更に一日分や一定範囲が終了すると、ラジエルが学習した部分に合わせた質 問や簡単な試験をするので習得度も判定される。 最初に宣言した通り、私からの質問も幾らでも受け付けて納得がいくまで説 明してくれるので助かった。 ラジエルは何時も資料編纂室だという広くて少し薄暗い部屋に居るのだが、 私室とは別に編纂室近くの小部屋を仕事準備用に与えられた私は、毎日その 小部屋で学習を進めていた。質問がある時は知らせるための鈴のようなもの を鳴らしておくと、かれの仕事のきりがよいところ(大概は殆ど間が空くこと はなかったが)で、ふっとかれの姿が現れて何がききたいのかと尋ねてくれる。 最初はこちらから行くべきなのではないかと思ったが、かれいわくこちらの ほうが面倒がないそうだ。 お陰で、幸い記憶力はそれなりで状況的にこれを覚えるしかない私は、纏ま った部分で出来が良いとかれが少し嬉しそうにしてくれるのを励みにして、 ひたすら頑張った。 かれは実際、面倒見がよくかつ放任主義というかで、必要以上には干渉せず、 こちらの許容状態を的確に見分けて無理は言わない。 口調も聞きなれてしまえば分かりやすく、曖昧な事は滅多に言わないのであ れこれと憶測をする必要も無い。こちらが意味が明確に取れない場合は即座 に聞き返せばいい。かれはそれを説明するのを面倒がる事はない。 天界語の学習が一通り終わってラジエルにひとまず完了と認定され、やや まだ危なっかしいこともあるものの語彙を増やしながら、“本当にこのまま 書記官になっても良いか”と神に尋ねられたのを了承しなおしたりしていた 頃。 神が私の仕事用に用意して下さったのだという特殊なインクに、試し書き してみようとラジエルから貰った羽の先を浸してみる。 かれの羽は白い髪と同じ、透明の光沢のある不思議な白だ。 天界では、天使は皆自分の羽をペンに使うらしいが、私はそうではないので 自分のものを用意出来ない。 そこで、ラジエルが間に合わせに一枚くれたのだ。 「正式任命時には神がおまえ用のをくれるそうだから、それまではこれを 使え。用が終わったら私用にでも使うがいい」 薄暗い部屋の中央の変わった形状の机と椅子の周りが、人間の私の視覚のた めに少しだけはっきりと明るくなっている。 ラジエルの普段の作業スペースはここの机上ではなく、この部屋そのものだ。 かれは私に用意されたような紙やペンではなく、その身体そのものが情報収 集の操作盤であり編纂機なのだという。この部屋はその働きを助ける拡張機 と整理前の情報の収納庫だと説明された。 私が“キューブ”の説明を受けた部屋は、誰でも立ち入れる公開の“地上”情 報の部屋で、“地上”の情報だけでも本当にあれは極僅か一部に過ぎないの だという事だった。 私に任じられた普段の仕事は、その通常の“地上”の過去情報の“バックアッ プ”・・つまり基本の保管情報以外の予備の情報を作ることなのだという。 編集方法や記録媒体などそれまでと違う方法をとるため、人間である私にい ちから任せてみることにしたと。 椅子から立ったラジエルは、前触れ無くその背に大きな翼を広げた。 身長を超える大きさの白く透き通る一対の翼は上のどこかから射している白 い光を通し、艶やかに輝く。よく似た白である髪と同様に、時折その中には 断片的な様々な色彩がちらちらと躍って消えてゆく。 無造作な仕草で片手で引かれた片方の翼から、かれはもう片方の手で一枚の 羽を引き抜いた。 「・・・痛く、はないんですか?」 長い羽は、よく鳥の巣にある小さな羽毛とは違って中々抜けそうにない。 人間で考えると髪を数本纏めて引き抜いたようなものではないかと少々痛い 気分になったのだが、かれは顔をしかめることもなくそれを差し出した。 「特には。 まあ、といってもそう度々引き抜くものじゃないからな。 直ぐに失くしたりするなよ?」 黒い滑らかな指の上で、その特別な白さは更に眩く見える。 かれの掌の上にある、作業中に時折見える姿を変える紋様が微かに線を浮か せてまた見えなくなった。 一瞬躊躇してからそっと受け取ると、私の褐色の肌の上でも、その羽はまた 別の映え方をした。かれの翼から一枚だけ離れた羽は残念ながら中に舞う色 の欠片は見えなかったが、その白はやっぱり美しい。 「・・・綺麗、ですね」 芯の部分を指に摘(つま)んで光に翳すようにして見上げた私に、かれは珍しく はっきりとにこりと笑った。 「“神”(あれ)の選んでくれた色だからな。 こういう色の趣味は悪くない」 天使は翼を褒められるのは基本的に好きだから覚えておけ、とこれも珍しく 眇めるような表情になって僅かにからかうような声音が続いた。 つい先日の記憶から、手元に意識を戻す。 小部屋の机の上に置かれているのは、一枚の紙だ。 “紙”という名前で呼ばれているが、植物から出来たものでも木の皮を薄く 削ったものでも動物の皮を加工したものでもない。 ラジエルも、おまえには説明しづらいな、と言って非常に珍しくも必要上で なく説明を放棄していたので普通の物質ではないのだろう。 手触りは確かにあって、さらりとした表面は滑らかでペンの滑りは良さそう だ。 インク瓶の蓋を開けて、渡された時には既にペン先状になっていたラジエル の羽のペンを黒っぽい液に浸す。 滴が垂れないか注意しようと思ったが、ぴたっと液を芯の内に収めていてそ の様子は無い。そっと紙の上にペン先を置いて思いついた単語を書き綴って みる。 神に教えられた通りに、文字を書くときにその意味を考えながら意志を込め る。すると、書き上がった文字が淡く仄かに光を帯びた気がした。 ペンを置いて、その上を指で触れてみる。まだ湿っているかと思ったそれは もう完全に乾いていて擦れる心配もなかった。 そして、指が単語の文字の並びの順に仄かに光るのと同時に、指先を通して 私の込めた“意味”が伝わってくる。 これをきちんと文章として綴れば、手で触れるだけで全体の概要がイメージ として伝わったり、必要な箇所の意味が分かるという仕組みらしい。 「ほんとうに部分だけに用があるとき、情報読み苦手な子にはこういう軽 量版のほうがいいんだよな。直写しじゃなくて概略主体にすればそれほど嵩 張らないんじゃないかと。そんなにほいほい作業進められるもんでもないし ね。 あ、議事録の纏めにも使えるから、それも悪くないんじゃないかな〜」 「張り紙でもする気か? まあ、小天使(ちびども)にはこれ一枚で十分だがな」 と、説明された時に神とラジエルが遣り取りしていたが。 まあおそらく、やっていくうちに私にも何となくどのようなものか実感が湧 いてくるだろう。 議事録、というのは私のもうひとつの仕事は、天の会議であるエルダー評議 会の議事録関連の書記でもあるからだ。 これは、私が仕事部屋で専用の仕事だけをしているとほかの天使(みつかい) のかたがたに「誰だっけ」とされかねないからだとか神は説明してらしたが、 正確には多分、天使のかたがたにわかりやすい必要性の仕事・・だと思う。 私が適度に周囲に認識されるように気を遣っていただいているということに なるのだろう。 初めて会った時に、ラジエルが言っていた“メイン”という言葉の意味は、 暫く経った時に聞くことが出来た。 まだ天界語の習得中で、一日の学習は終わった後だったのだが他に身の周り の件で尋ねたいことが幾つかあったので、いつもの時間内の質問とは違って 編纂室内のラジエルのもとを訪ねた時の事だ。 主に時間初めと時間終わりの挨拶に顔出しする時と変わらず、かれは何時も の通りに中央の机の椅子に腰を下ろして目を閉じていた。 この部屋には、たまに神が訪れて話されているのを見掛ける以外ではいつも かれ唯一人しか居ない。 薄暗い天井の高い・・どこか鳥の卵のような形状をした部屋の中で、かれの 髪が彩をちらちらと透かして朧に光り、机の上に翳した手の下から紋様が放 っているだろう光が漏れている。それに呼応するように周囲の壁面でもちら ちらと様々な彩の光が躍る。 「・・イーノックか。 何か聞きたい事があるのか?」 僅かに間を置いて声と同時に机の上の頭上のいずこかから私のための光が射 し、かれが閉じていた目を開く。白銀の一色(ひといろ)の眼がこちらを見遣った。 「はい。 ・・お邪魔してしまって済みません」 彼は何時休んでいるのか不明なほど、ずっと此処に居る。 天使は人間のように朝起きて夜休むというような周期で活動していないそう なので、私が気付かないうちにかれも休んでいるのかもしれないが。 そう思いながらも、時間外に仕事の邪魔をするのはやはり少々気が引ける。 机の傍に立って謝意を示すと、かれは(普段殆どしない)瞬きをひとつしてか ら口を開く。 「ああそうか。まだ説明していなかったな。 私はこうやっておまえと話している間にも作業はしている。 だから気にすることはない」 ・・・天使は人間ではないのだから色々出来たりするのだろうが、どうやっ ているのだろう? 私の顔に理解できてないと歴然と書いてあったのだろう。 「・・・うーむ」 珍しく少し思案する様子をみせてから、かれは机上の何もない空間に、節ご とに銀線がぐるりと描かれた指を滑らせた。 すーっとその跡に応じて薄緑の光る線が引かれる。 一番上に四角がひとつ。その下に一本の長い横線。 それから上の四角から、横線を越えて下に描かれた幾つかの小さな四角に斜 線が延びる。 「“神”と私は構造が似ているんだが。 これが“メイン”。この今話している“私”」 ラジエルの指先が、一番上の四角を指す。 それから横線の下に並ぶ小さい四角をぐるっと指す。 「このへんが“サブ”だ。 そうだな、無意識というものは分かるか?」 頷くとかれは続けた。 「意識が分散構造になっているから、“主(メイン)”の意識と“副(サブ)” の意識がそれぞれ別の事が出来るんだ。 “サブ”部分は普段は無意識の領域で、識別だの選別だの伝達だのと割と簡 単な作業を担当している」 こういう“直接の会話”はメイン向きだな、と締め括るとかれは机上に片手 を滑らせると説明用の略図を消した。 私はとりあえずなんとなくわかったのだが、かれの仕事の邪魔をしていな い・・わけではないという事にも気がついてしまったので、それ以降質問を する際には自分で事前に優先度をよく考えてみることにした。 かれの本来する事ではない作業に時間をとらせてしまっているわけだし。 着実に慣れて、出来れば必要最低限で済ませるようになりたい。 実は、神と同じく天から動けないラジエルにとっては。 直接観察できる“人間”である私と遣り取りするのは結構面白いことだっ たらしいのだが。 “あれ”(イーノック)が滞りなく仕事を進めるのを見るのは指導した分に は嬉しいのだが、慣れたら慣れたで遣り取りする機会が減るのはつまらん、 と。 かれが神相手に一度ぼやいていたことがあったのは、当時の私には勿論知 るよしもなかった。 END. 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