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夕飯の支度が済み、一人きりで進まない食事を片付け。 そのほかの雑用ももう全部済んでしまってから。 時折様子を窺ってはいたけど、彼は身動きひとつしなかった。 気分転換に湯を沸かして湯浴みをしてから、柔らかい清潔な布と冷めな いように暖められる火皿の容器の上に重ねて載せられた金属の器を持っ て私室に向かう。 この地上の人間であるあたしも本当は彼にはよくない何かをくっつけた りして気付かず撒いているかもしれないのだ。気休めでも近寄る前にな るべく清潔にしておきたかった。 眠っている彼の様子を眺める。声を掛けてみるけど、目は開かない。 「・・・ちょっと、拭いてもいいかな」 いつもひんやりしている彼の肌は、頬だけでなく服から覗いて見える首 や手足にも薄(うっす)らと赤味が差して来ていて、ぼんやりと熱を持っ ていた。 苦しそうとかいうこともなく汗ばんでもいなかったが、いつもと違う状 態は辛いかもしれない。お湯で気をつけて拭けば、冷やしすぎるという こともないだろう。部屋も少し、小さな炉に火を入れて置いて温めてお いたし。 出掛けた時と逆に、普段着を脱がせる。 綺麗で全く動かないと、彼が色々な作業をしている記憶もあるし、作り 物にしては細かすぎる生きている感じがするけど、何となく人形のよう な気がして。ふるふると首を振ってそれを振り払う。 気のせいだ。 彼はまだ、ちゃんと生きてるじゃない。 拭ける所を手早く簡単に拭いてから、寝間着代わりの一重を着せてき ちんと掛布で肩口までを覆った。 食べやすそうな簡単な食事は暖められるように用意してあるんだけど・ ・・。起きそうにない。 彼が起きたらすぐ気付けるように、寝台の横に敷物を運んであたしの寝 床を作り。彼がもし目を醒ましたら目に付きやすい手の届きそうな場所 に、水差しと器や食べ易い剥かずに口に出来る果物も用意しておいてみ た。彼は好き嫌いが無いのか食事の点で特に好み、と言うものがわから ないので、あたしの好きなものにしてみたが。 「・・・・。 おやすみ」 心の中で名前を呼んで、いつもは炉部屋か玄関で別れるおやすみの挨拶 をする。 そして思いついて。 そっと、ぼんやり熱い額に軽く口接けた。 束ねられていない黒い不思議な色の髪を額から払うようにそっと撫でる。 ・・・元気になりますように。 翌日になっても、彼は目を醒まさなかった。 水差しも果物も動いていなかったし、掛布すら動いていない。 彼は、ただひたすら・・眠っていた。 あたしは普段他のひとがやっている仕事の手伝いを務めているので、彼 の具合が急に悪くなったので様子見で休ませてほしいと近所の人に頼ん で伝えて貰うと、お見舞いの品と共に気にしないでいいという伝言が返 って来た。 お見舞いの籠には、愛用されている様子の彼の縫い取りのある布が覆い として掛かっていて。中には貴重な蜂蜜の入った小さな壺や上等の穀物 粉の詰まった布袋が入っていた。 ・・・・。これで、お菓子でも作ってみようかなぁ。 日持ちするものを作れば、彼が起きた時に少しでも口にする気になって くれれば。 今日も家の雑用をこなす。 動物達はいつも来て丁寧に世話をしてくれていた彼が姿を見せないし、 あたしも落ち着かない様子なので何だか伝染したように不安そうだ。 ・・乳の出によくないから山羊には落ち着きそうないい草をあげなきゃ。 自分の食事の用意と、彼用に手間を掛けた色々なものが入っているけど 食べ易い汁物の用意が終わってから。日持ちのしそうな蜂蜜入りの、小 指の先程の小さな丸い焼菓子を沢山作る。 甘い、ほんのりした香りが炉部屋から家の周りにまでふわふわと漂って、 良い匂いだねと加減はどうかと言いに来た隣の人に首を振って残念がら れ、少しお裾分けをした。代わりにと、新鮮な肉と魚を二人分づついた だいた。・・・・何にしようかな。 三日目。 彼は、目を醒まさない。 夜中に嫌な夢を見た気がして飛び起きても。 彼は身動きすらした様子が無かった。 朝になって彼の様子を確かめると、差していた赤味が引いていた。 呼吸はしているけれど・・・なんだか、不安で仕方が無い。 肉と魚は干しものにしておくことに決めた。 昨日の汁物は近所の人にお裾分けした。 また、別のを作る。 四日目。 彼が起きない。 様子は変わらない。 とりあえず今日の雑用は済んだので、寝台の傍に椅子を置いて座ってい た。 サリエル様が心配して様子を見に来てくれたが、肩において宥めてくれ る手もぼんやりと感じた。 君が元気が無くなったらダメだ、と台所をあちこち探してから山羊の乳 を搾ったらしく。蜂蜜入りの暖めた山羊乳を茶器に入れたものと、一昨 日の焼菓子を小皿に載せて用意してくれた。 まめなかただ。 彼には、大気から大丈夫な分を少しだけだがより分けたのだという“力” を注いでくれた。 そのきらきらとした色に、少しだけ安心した。 五日目。 起きない。 ・・・・・。 御飯を作る気が、しない。 でも、用意しなきゃ。 あたしも、食べないと。 六日目。 起きて。 もう一度、もう一度・・・ 話したいのに。 七日目。 夜まで、色々な片づけをしたりして過ごした。 けど手が止まって進まない。 この小さな家のどこを見ても、彼がそこで動いて、喋って、笑って。 記憶が、溢れてゆく。 眠る気にもなれず。 椅子は壁際に片付け、寝台の横で相変わらず寝床代わりに敷いた敷物に 座り、低い寝台に腕を掛けて彼の顔をぼんやりと眺める。 部屋の環境を悪くしないように、あたしの使うものも彼の寝台の布類も こまめに洗濯はして綺麗なものに替えているから、埃っぽかったりとか そのほかする心配はないだろうけど。 名前を呼ぶ。 最初にこの家で食べた朝食の後の話で、あたしが名乗っていなかった事 に気付いて教えると、彼のも教えてくれた。 綺麗な名前だと言ったら、神の選んでくれたものだから、と言う言葉の 後に、何だか辛そうな顔をした。 彼は、神様が嫌いではないらしい。というか、まだ好きらしい。 まあサリエル様もごく当たり前のように神を讃えていたので、堕天使= 神様嫌いではないのだろう。 ・・あのかたは、とても優しいし色々大変なのだと。 もう戻ることは無いだろう天上を心配するように呟いた。 ・・名前を呼ぶ。 いつも返してくれた笑顔が、何だい?というような覗う表情が。 あたしが喜ぶと、彼も嬉しそうにした。 本当に色々な時に有難うと言ってくれた。 彼の声が、あたしの名前を呼んでくれて。 もう一度、聞きたいのに。 呼んだ声を、届けたいのに。 ・・・・名前を呼ぶ。 もう、繰り返す気が起きない。 これまでずっと堪えていたのか、止まっていたのかわからない涙が。 溢れた。 聴こえないなら、泣いたって構わないだろう。 あなたが、あなたが、あなたが・・ “特別”に好きだったことに、やっと本当に気がついたのに。 居心地が良すぎて、傍に居て一緒に暮らす。 それだけでよかったけど。 でも、このままあなたが眠ったように消えてしまうというのなら。 あたしは・・一生引き摺りそうだ。 おばあちゃんの言葉を思い出す。 ・・・手を差し出すって、別に“伴侶”になるって意味だけでも無かっ たのかもしれない。 興味と好感を持って関わって、好意と親愛を抱く。 それが“恋愛”の意味も加わるかどうかはまた別だけど。 ・・・・もしかしたら、おばあちゃんも堕天使の“人”に会ったことが あったんだろうか。きっとそれは、あの口調のように諦めのような記憶 だったのだろうけど。 暫く、気が済むまで泣き続けているとふと、伏せた頭の髪の上に手の 感触があった。 5頁← →3頁 |
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