湖の縁に息を切らせて辿り着いたあたしは。
もう、何も光を帯びたものは見られない静かな湖面に。
落胆するような思いで、少しの間立ち尽くしていた。
・・・間に合わなかったの?
ただ、走ってきたらよかっただろうか。
こんなもの、用意したりせずに。
ただ夢中で走って、辿り着いて、腕を差し伸べて。
 ・・・・でも。
あたしが美味しいと思うものを、“人”に近くなった彼らに食べて貰っ
て気に入って貰えたらいいなと。少しでも滋養のようなものになれれば
と、思ったのだ。かれらは、元々はこういうものは殆ど口にしないと聞
いていたから。
疲れているなら、柔らかな手触りの布で枕か掛布にしてあげたらと。
そう、思って・・・・。
すとん、と力が抜けたように岸辺に座り込む。
ばかみたい。
あたしって、ばかみたい。
物語のように、都合よくいくわけないじゃない。
あたしを見て、彼らの誰かが「有難う」って笑ってくれたらと。
そんなのを、子供の頃からこっそりと夢見ていたのに。
・・・・・。
ばかだよね。
こんな普通で、元気なだけが取り得のあたしにそんなことが。
・・・・あるわけないじゃない。
溜息を、ついた、時。

 ぱしゃん、と。
水が大きく跳ねるような音がした。
静かだった、湖の中央のほうに。ひとつの黒い影が見えた。
今夜は月が無くて。
もう“流星”も流れきってしまったらしい空には、星明かりだけ。
その明かりを微かに照り返す・・・不思議な、色。
水の中から・・・出てきた、ひと?
思わず立ち上がり掛けると。
肩に掛けていた袋がずり落ちて、ぼすん、というくぐもった音を岸辺の
綺麗な砂の上で立てる。
その音に気付いたのか、泳ぐように頭と肩口を浮かせているみたいだっ
た人影が、こちらに顔を振り向ける。
その頭・・肩を少し越えるほどらしい髪がまた、とても不思議な色に水
の滴を優雅に散らして煌く。
もしか・・・して?
息をひとつ、飲み込んで。
決心して、震えそうになるのを抑えた声を掛ける。
「・・・・・あ、あの」
影は僅かに首を傾げるようにした。
その弾みに、また髪が光を綺羅と反射する。
「・・あの。
あなたは、堕ちて来られた天使様、ですか?」
おずおずと、普段のあたしにはないかのように問い掛けると。
影は、もう一度僅かに小首を傾げるようにしてから・・こくりと頷いた。
それから、ゆっくりと泳いでいるのか、少しづつ水面を頭の影と時折の
煌きが近付いてきて、岸辺に近い浅いところで立ち上がった。
ふるり、と水を切るように振られた頭から、また煌く光彩と滴が宙を舞
う。
星明りに照らし出された、大分陰影になっているけれどもそれでもとて
も白いことがわかるほっそりとしていて優美な身体の線。
長めの手足に細い首。
骨太でやや確り気味の体格で背は高いほうのあたしから見て、目立って
高く低くもない。頭半分くらい違うのか。彼のほうが高い。
ちょっと華奢だけれど、でも流石元天使だけになんて“美人”だろうと。
大分近付いて立ち止まったことで、確認できたその容貌を眺める。
白い面(おもて)に、遠目にも目立っていた不思議な色の緩い癖のついた
髪。
それは黒の地に、魚の鱗のようにか、美しい特別な蝶の羽根の細かな織
の輝きを載せたかのようなとりどりの色味の緩やかな輝く反射。
青碧、翠、青、黒、金茶、赤紫・・・。
様々な色が、光を仄かに宿すように弾(はじ)く。
面立ちは、体つき同様に優美で華奢な印象だった。
天使はそれぞれに決まった姿から変わらずに長生きだそうだから外見は
余り意味が無いのかもしれないが、大雑把な見た目でいうならあたしよ
りも幾つか年上な感じか。
やつれているような痩せた感じと生気の乏しい弱い気配はしていたけど、
細い線で形作られた目鼻立ちや少し戸惑っているかのように伏せた繊細
な目元と口元の輪郭にも、あたしは髪に負けず劣らず見惚れた。
ここらへんには、若い年頃の女の子にだってこんな綺麗な人は居ない。
最近もうそろそろ考えろと、育ててくれたおばあちゃんを前の冬に亡く
してから一人暮らしのあたしに嫁にいくか婿をとれと時折、年嵩の周り
の一部が度々煩かったり“良縁だ”という話を持ち込もうとしたりする
のだが。
あたしはどうもまだそんな気にはなれなくてのらりくらりと、日々の仕
事に精を出しながらかわし続けていた。
あたしがこんなに綺麗だったら、今頃はとっくに引く手数多というやつ
だったのかも。と、ありえないのは不思議ではないのに何だか可笑しい
ような思いでふふふと心の中でこっそり笑ってから。
ふと、静かな様子で周囲を見渡していた彼をもう一度見遣る。
その眼差しが上がって、こちらを見て。
まだ足元が水に浸っていた状態から砂地に上がり、もう少しこちらに歩
み寄る。
・・・・・。
近付くことで見て取れた眸も、不思議な印象だった。
多分黒だろうけど。
艶やかで、穏やかな。何となく子供の頃よく摘んだ草の実のような色。
五歩かそこらか、大分間近になった彼が、その淡い色の青褪めたような
口元を動かした。
「・・・こんばんは、と言えばいいのだろうか」
声も、余り声量はなくて弱めだが、それは穏やかに響く。
それほど低くも無いけど、確かに“男性”の声だ。
・・・・・・。
ん?
はた、と。
やっとそこで、あたしは相対している“彼”が“男の人”の姿であると
いうことを正確に認識した。
白い全身の輪郭に、ほっそりとした長めの脚の向こうからちらりと覗く、
黒い細長い紐のような、先は矢印のような形に尖っている背尾。
それは確かにかれが“人”に似ていて“人”ではないという証だったが。
・・・子供の時分には近所の男の子とも一緒に水遊びや行水ではしゃぎ
回ったこともあるし、時々忙しい季節とかに小さい子の世話を頼まれる
こともあるのでそんなんだったらきっちり目にしたような記憶もあるが。
最近になって大人の男性のそれを目にしたこととか・・・。
あんまり彼がどこもかしこも“綺麗”なので、星明りの湖を背後に静か
に立っている様子はまるでどこか夢の絵のようで。
それまで現実味に少々欠けていたのだ。
主に肩辺りまでに見惚れていて、つい気付くのが遅れたせいもあるんだ
けど・・・・・。
耳まで血が上る。
うああぁ、恥ずかしい!!!
“彼”のほうは元々性別が無い上に、天使は皆綺麗らしいから裸に余り
頓着が無いのかもしれないが、あたしはそうはいかないのだ。
慌てて、無意識に砂地に落とさないように片手に掴んだままだった織布
を両手で広げて彼に向かって差し出す。
「こ、こんばんは!!
あ、あの、これ。寒いでしょうから羽織ってくださいっ!
風邪とか、引いちゃいますよ」
布を広げた陰に頭と目線を少し下げて隠し、彼の肩口から下を見ないよ
うにする。ああもう、なんであたしはこんなときもおっちょこちょいな
の。何かに気を取られるといつもこうなのだ。
折角会えたのに、最初の目的である“助ける”までぼーっと眺めて忘れ
ているとか本当にダメ過ぎる。
「・・・使っても、いいのかな」
穏やかな細い声が響き、受け取る仕草が布を通して伝わる。
羽織る気配が終わるまで、あたしは目線をひたすら真下に落としていた。
「・・・・」
ふわりと、柔らかな気配がする。
彼が、嬉しそうに笑ったのだ。
「これ・・・“暖かい”ね。
有難う」
顔を上げると。
その背丈と体格なら十分な大きさの、薄い茶を帯びた白い柔らかな布地
を肩からすっぽりと前で合わせて羽織った彼が、踝(くるぶし)の骨の目
立つ、それでも綺麗な足首の前後をやや覗かせて。
優しく微笑む“元天使”が、あたしと同じ地上の、すぐ傍(そば)の砂地
の上に立っていた。
・・・・。
憧れていた夢が叶ったんだと。そう思い当たるのに。
少し間を置いて。
「あ・・・いえ!
あたしの大好きなとっておきのお気に入りなんで。
・・気に入ってもらえたら、嬉しいです」
胸が温かい気分になる。
そして、切ない気分にもなった。
こんなに綺麗で優しい様子なのに。彼は・・・どのくらい生きられるん
だろう?
それに心の中で頭を振って払い除け、とりあえず幸い今はもう寒い時期
ではないけれど暑くもないしと、水辺よりももう少し暖かいところにと
思って、すぐ傍にある筈の。時折漁をするためのものや森仕事用の道具
の予備が置かれている、小さな船着場の小屋を探した。
あ、あった。影が見えている。
彼を促すように、もう少し落ち着ける場所に、と上向けた手を差し出す
と、布の陰から現れた細い手の指があたしの手に少し遠慮がちに乗る。
その爪先までも整っていて綺麗で、感触もひんやりとしていたけど柔ら
かで、あたしの手のように傷や癖も無さそうだ。
・・・・男性だということは先程確かに目にしたことで認識しているけ
ど、動きもおとなしく品があって、でも慣れない環境に少しだけ不安そ
うな様子は何だか、“可憐”だ。
とても綺麗なふわふわしたいきものを助け上げたような気分になって、
あたしは元気よく笑いかけて励ますと、彼の指先をそっと握って引いて。
裸足の彼の足元に危ない何かが無いように見える限りでよく気を付けな
がら、湖面に揺らぐ影がある場所まで導いていった。


 幸い、彼が石や枝や他の何かを踏んで足裏を痛めることもなく。
小屋の中は綺麗に道具が整理されていて空間にも余裕があり、二人分が
入っても支障は無かった。
窓辺から釣り糸を垂らしたり、仕掛けた網の様子を見たりしながら待つ
ための、今は閉じられている窓の前の長居し易いように設(しつら)えら
れている詰め物をしたそれなりの大きさの敷物の上を彼に勧めて、あた
しは備品の中を探して小型の石の器のようなものを探し出した。
「すぐ、火を焚きますから。
待っててくださいね」
敷物の上で膝を少し立てて座っている彼は、あれこれがこういう状況で
目にするのは当然だが初めてなのだろう。
織布の隙間から手を出して敷物や窓の板戸を撫でてみたり、空中を撫で
るように手を動かしたり、手を握るような動作を繰り返して眺めたりし
ていた。
仕舞い込まれていた火打石と焚き付けを探し、上手く火が付いたことに
ほっとする。家のは大概火種で維持しているから、時々やると忘れてて
あんまり上手くいかないんだよね、あたし。
彼がごく幼い子供が珍しい物に手を出すように、ふと、魅入られたよう
に火皿の上の炎に白い指先をすごく近く翳したので慌ててその手を掴
んで引き戻す。
「だ、だめですよ!そんなに近づけちゃ。
火傷したらずぅっと痛いんですから」
天使は人間とは色々構造が違うはずだから、こういうことも“自身に関
する実知識として”知らないんだろうか。
危なっかしい。
「・・・そうか。“火傷”、するのか」
すまないな、と小さく溜息をついた彼が先程翳した指先を見る。
ほんの少し、赤くなっているかも。大丈夫かな。
荷物袋から水筒と包みを出して包みに使っていた布の端を小さく細長く
裂き、清水の水筒のほうを傾けて湿して、念のために彼の指先を包んで
冷やしておく。
「痛かったら、言ってくださいね。
家に薬があるから、火傷になってたら後で塗りましょう」
ああ、と了承を返したかれはまた、有難う、と笑った。

 結局。
用意しておいた飲み物と食べ物をゆっくりゆっくり、少しづつ少しづつ。
でも君のなのだからとあたしにも食べろというので断りきれずに少し食
べた分を除いて、彼は全部口にしてくれた。
君は良い物ばかり分けてくれるな、と織布もそれも気に入ったのか満足
そうに布地に頬を寄せる様子を見てあたしも至極満足した。
しんとした湖を見てがっかりした時のことが嘘のようだ。
憧れが全部、現実になった。
よかった、諦めなくて。あのまま何も考えずに走っていったりしなくて。
あなたを、見つけられて。よかった。
疲れているのかうとうとと微睡(まどろ)むようにし始めた彼に横になる
ように勧めて。あたしは火の番をしながら、時折炎の影が揺れる、丸く
なるようにして眠っているその白い顔が具合を悪くしたりしないかと心
配で、長いことじっと眺めていた。



 外が白んで来た頃にはあたしもうとうとし始めたが、はっと目を醒ま
して、小屋の中の火皿などを片付けて荷物を纏め。
動く気配で目を醒ましてくれた彼を促してぼんやりと明るくなってきた
空の下(もと)で、一晩お世話になった小屋を出る。
食べ物を包んでいた空になった布を使って、裸足の彼の足は簡単にだが
包んである。大きさ的に履けない事もなさそうだったが、あたしの靴を
履かせてあたしがそうするという選択肢は一寸・・数日手入れをさぼっ
ていた靴だったので、止(や)めた。
昨夜よりは多少ましだが、気をつけながらまた彼の指先を引いて、あた
しは家に帰り着いた。
台所を兼ねた居間である炉部屋を物珍しそうに見回す彼を、とりあえず
椅子に掛けてもらって待たせておき、物入れを探して彼が着られそうな
服を探す。
まあ幸い細いし大きさもそれほど変わらないから何とか、女物という程
でもないような普段着の上下とかを揃えて彼に着方を一応説明して、着
替えて貰うことにする。下帯は男物なんてまああたしだけの家には無い
ので適当な布を用意した。後で、人の良い夫婦住まいのお隣にでも向こ
うに問題が無ければ取りあえず相談しよう。
単に服が無いという以外にも、肌触りが気に入って身体から離さない様
子なのは嬉しいけど、いつまでも織布一枚でうろうろさせているわけに
はいかないし。
あたしの家は家の並びからちょっと外れたところにあるが、流石に裸に
布一枚羽織って足元に裂いた布を巻いたきりの美人のお兄さん、があ
たしの家に居た、などという話が噂好きの面々に広まったら冗談じゃな
いことになりそうだ。・・想像しかけただけで頭痛がする。
更にそれが“堕天使”だとなったら・・おそらくもう目も当てられない。
そんな理由が原因で、遠くに引っ越す羽目になるのはゴメンだ。
 あたしの寝台や私物などがおいてある小部屋の扉が開いて、着替え終
わったらしい彼が、炉部屋に顔を覗かせた。
「・・・これで、問題ないかな」
足元に近いほどの長さで前で合わせて帯で止める半袖の上衣に、その下
に一枚着る長袖の膝下までの貫頭衣。下は少し余裕のある足通しに、あ
たしのお古のだけど革と布で作られた足首上辺りまでの、手入れ済みの
柔らかな靴を用意してみた。
色は染めのない生地そのままの上衣の灰茶や下衣の灰黒に茶の靴と、地
味なものばかりだが。
彼の白い・・明るいところで見るとまるで透明気味の白のような肌に。
黒っぽい、陽光のような光源だと逆に沈みがちの複雑な光沢を持つ、布
の飾り紐で首の後ろで括られた、背の二つの骨に掛かる程の長さの髪も。
全体的に、意外と何の違和感も無く調和していた。
「・・・似合うじゃない!」
とつい何時もの口調で話しかけ、丁寧に言い直そうとすると、普通でい
いと遮られた。気さくな元天使様である。
まあ、そちらのほうがこっちも有難いので、とりあえず朝御飯にしよう
かと炉に火を移して、まだ織布に未練があるらしく肩から羽織ろうとし
ていた彼に苦笑して、そんなに気に入ったなら眠る時に使えばいいと言
うと「そうか」と納得したように丁寧に畳んで空いている椅子の背に掛
けていた。まあ、まだ洗濯しなくても大丈夫だろう。
簡単に、早く煮えるように細かく刻んで味をつけた野菜と香草の汁物と、
昨夜夕飯の後に準備しておいた独特の香りと栄養のある草の実入りのパ
ン生地を薄く焼いて切り分け、茹でただけの小さな野鳥の卵を添えた。
茶器には、搾り立ての山羊の乳を暖めたものに、ほんの少し甘い赤い草
の実を潰して混ぜたものを用意した。
並べてしまってから、そういえば元々鳥っぽい人に卵なんて出しても良
かったのかと思ったが、彼は特別に気にする様子も無く、むしろなんで
も珍しそうに昨夜同様に時間はかかったけど全部食べてくれた。彼の分
は量をどれも軽めにしておいてよかった。
 食後に香草を煎じたお茶と干果物と炒った木の実を小皿に用意して、
彼から何故降りてきたのか尋ねてもいいかと話を聞いてみると、びっく
りした。
“流星”が雨のようだとは思っていたけれど、本当にかつてない数の天
使が今回“堕天”したらしい。
別に、天界や神様がどうかしたとかいうわけではなく、普通はどうして
もと思い詰めた天使が単独で行う堕天が此処まで大規模になったのは、
今回“先導者”・・・というか、“扇動者”が居たからなんだとか。
元々、地上を見守る役目だった天使の一区分があり、かれらはグリゴリ
と呼ばれていた。そのうちの、七名の天使が神に離反し自分のやりたい
ことを叶えたいと地上に降りることを強く主張し、その強烈な意志の放
つ磁力のようなものに、ひっそりと、又は何となく願いを抱いていたも
のたちまで次第に引き擦られるように感化されていってしまったらしい。
森葡萄の干したのを興味深そうに一粒摘(つま)んで口にしてから、彼は
お茶を入れた器がまだ熱いらしく、ぴた・ぴたと時折指先でつつきなが
ら、一緒に降りてきた仲間が、多分生存確実な首謀者七名以外にも、ま
だほかにも生き残っているはずだと言う。
彼によると、堕天による変化の生存率を上げるのは唯一、純粋な“願い”
の力でしかない。複雑なものよりも簡潔に。唯一そのために、と願うこ
とが生と死の狭間の紙一重を変えるという。
賭けに勝った彼の願いは・・『人間になって“地上”で過ごしたい』。
簡潔だった。
生まれた時から定められていた務めの日々が終わるまで、殆ど永遠に変
わらずに居るのか、と。
それがふとむしょうに寂しく思えて、時折堪らないようになることがあ
るようになってしまったのだと言う。
彼は“中天使”と呼ばれる天使の種類のうちでは力が強いほうだというこ
とだったが、本来は感情の起伏が安定していて、そんな強い感情を抱き
続けることはないのだとか。・・・その願いを明確にした時から彼はもう、
後戻りが出来ない方向に変わり始めてしまったのだ。
「だから、今回のことは丁度良かったというか・・。
・・・今もう、結構満足してる。
君は良いものばかり分けて、家に入れてくれて。
昨夜からずっと何くれとなく、心配して親切にしてくれる」
人間はやっぱり悪くないなと、にこりと綺麗な顔が笑う。
あたしは慌てて、
「ちょ・・まだまだ、満足しちゃダメよ!
美味しいものとか見せてあげるものとか、色々たっくさんあるんだから
“地上(ここ)”には」
「・・・。
君は、本当にいい子だな」
本当に嬉しそうに笑った彼が、やっと丁度良い温度になったらしい茶器
を取り上げて少し口に入れ、薬用である、不味くはないが一寸変わった
味に不思議そうにしている様子に。
あたしは、何だかとても嬉しいのに胸が酷く締め付けられたような。
そんな気分に、なった。







 彼の言ったとおり、首謀者なのだという七名の堕天使たちは確かに生
き残っていただけではなく。非常に“活動的”だった。
天から持ち出したという技術と、変わっても何らかの形で持ち続けてい
る不思議な力を使い、みるみるうちにあたしの住んでいた場所から少し
離れた寂れた平野のような特に何も無かった場所に、巨大な“塔”を造
り上げた。
 出来上がったと耳にしたので、少し離れた場所から全体を見渡せるそ
れを彼と一緒に眺めに行き。その速さに思い当たってあたしは呆気に取
られて立ったままぽかんと眺め、隣で石に腰掛けていた彼が少し笑った。
あたしを笑ったのではなく、“塔”に向かって笑ったのだ。
それは、余り明るいものではなかった。
「・・・どうしたの?」
尋ねてみると、ああごめん、といつものような笑みをあたしに向けてか
ら、
「・・あれは、“延命装置”なんだよ」
と言う。


 そのまま過ごすと彼らの寿命は短い。
天使の時には呼吸するだけで力の糧となっていた大気が、逆に毒のよう
に全身を弱らせてゆく。
住居であり砦となる“塔”だけでなく、彼らは、外を出歩く時には奇妙
な“防護服”を身に纏っていた。
最初は頭の部分にある大きな目玉のようなところがぎょろりと動くのや
奇妙な形状の獣の爪か牙のような突起や刃物のような部分が一寸怖かっ
たので、もしかしてああいう姿に変わっちゃったの?と彼の影に隠れて
ひそひそと尋ねていると、説明しようとした彼が口を開きかけたときに、
その丁度話題の対象になっていた通りすがりの“防護服”の人物が何時
の間にかそばまで近寄って来ていて、ひょいとあたしを覗き込んだ。
「違うよ。コレは“鎧”なんだ」
独特の音程の声が言い、身体部分はほっそりとした輪郭の“彼”は、基
調が黒に一部各人毎に色違いになっているところが明るい紫であるそれ
の、頭部分を“消した”。
ふわふわとした、変わった形に切り揃えられた短めの黄色い髪に、まだ
大分若い感じの整った男性の容貌なのに余り色艶の良くない肌。
「サリエル様」
彼が少し控えるように頭を低める。
「畏まらなくてもいいよ。此処に来たらみんな似たようなものだろ?」
にこにこと愛想良く、サリエル・・様って呼んだほうがいいのかな?が
笑う。
「君たちは、一緒に暮らしてるって聞いたけど。
好き合ってるの?」
え?と彼の片腕の上腕の辺りを隠れかけるように掴んだまま見ていると。
愛は偉大だよね、とサリエル様はうっとりとどこか上天を眺めるように
して、奇妙な大きな装飾のついた鎧の両腕を広げた。
「神の創られた世界の“愛”は素晴らしい。
そして“人間”の“愛”は俺にとってとても興味深い。
それを自分の手で、確かなものとして感じてみたいのだ!」
・・・悪い感じってわけじゃないんだけど。
どうやら時々この調子で語り出すらしい。
彼によると、元々はどちらかといえばおとなしいかただったそうなので、
これも堕天の変異による“副作用”だったりするんだろうか?
「応援してるよ〜!」
と鼻歌でよくわからない歌をふんふふ〜んと奏でながら、ゆらり、とま
た頭部分を元通りに被った堕天使は去っていった。
まあ、あのかたは余り怖くはなさそうだ。

・・・後に顔や話している様子を見る機会のあったアザゼルやエゼキエ
ルという初老の男女の姿をした堕天使も彼と一緒にも目にしたけど、彼
は説明してくれる時に“様”をつけようとはしなかった。ある程度好感が
あるらしいサリエル様とは違って、彼らのことは好きではないらしい。
いつもとても優しい落ち着いた性格だし、か細いような見た目はしてい
るが、“堕天に挑んで生き残った”だけあって、意志やその身に抱(い
だ)く思考のようなものは強いのだ。意外とはっきりしている。
確かに、人間に素直な興味や好感を持っている彼や、一寸ズレているが
同様に簡潔に人間自体に興味を抱いているようなサリエル様と違って、
彼らは何だか人間そのものではなく“事象”に特化した関心を抱き、本
当は生きてそこに居る人間はどうでもよさそうなような・・・そんな印
象がするのだ。
厳しい顔つきであたしにはちっともわからない難しそうなことをそれに興
味を引かれた者相手に口にしていたアザゼルも、一見にこにこと穏やか
そうに見えるエゼキエルも。
長い時を経て病を得た人のように、美しかったのだろう面影を残して不
健康に老いてしまっていたが、妙な熱気と迫力のようなものを湛えて精
力的に動いていた。


 彼らや、顔や姿を見たことの無い首謀者達以外にも、“塔”に身を寄
せている生き残りは多少いるようだった。でも、彼らが出歩いているこ
とを見るのは稀だ。後悔しているものも居るようで、そういう者は“塔”
の内に居てもそのうちに弱っていって亡くなったという。
そして、あんなに沢山降りたうちで数少なく賭けに勝って在った筈の、
彼らは。ほんの短い間に減っていった。


 ・・・・そして、それと同様に、彼も。



***



 彼が、“塔”ではない外で暮らし続ける以上、本来の“堕天”の結末
のように期限を縮め続けることはわかっていた。
あたしが、長く居られるならあそこで過ごして家に遊びに来たら良いん
じゃないの?と一度尋ねると、彼は珍しく激しい拒否を示した。
「・・・嫌だ。
僕は君の居るこの家が良いんだ。
そうじゃなきゃ、“地上(ここ)”に居る意味が無い」
サリエル様が言ったように好きあっている・・というか“付き合ってい
る”というわけでは無いのだけど。
彼は、時折ごく近所に短時間出ることはあっても、殆どあたしの家から
離れたがらなかった。
あたしのやることを見覚えた家事や数匹居る家畜の世話、小さな庭の手
入れなど、細々としたことを毎日飽きずに丁寧にやって過ごしている。
手先があたしより器用なので、裁縫を覚えたら、そこらの布や自分の着
ているものやあたしの服に綺麗な縫い取りを始めた。
基本的にあたしが目にして喜べば満足のようだったので、周囲に見せて
みたら評判が良かった小型の布地を最初から“商品”として作ったもの
を物々交換品にすることにした。彼は、これでお世話になってる恩返し
ができるな、と嬉しそうにまた、家事の合間に色々な自然のものなどを
糸で描く。
 あたしとあたしの家に執着するのはなんだか、鳥の刷り込みのようだ
なあ、とも思ったのだけど。
“意志の強さ”と“願い”が生き残りを決めるのなら、彼の意向を尊重
してあげたほうがきっと彼は長生きできる、と信じて彼の好きなように
していいと告げると、彼は幸せそうに笑った。
近所の人も、あたしが彼を世話しているのだと知ると最初のうちは物珍
しそうにだったり心配そうに入れ替わり立ち代わり様子を見に来たが、
彼がとても美人で穏やかで人間の暮らしに憧れていて、そして堕天使ゆ
えに寿命が残り少ないことはその儚げな様子からも十分窺えたので。
大事にしてあげるんだよ、とそっとしておいてくれた。
そろそろ結婚しろ、と煩かった顔触れも、流石に彼を前にしてどうこう
言う度胸があるのは幸い居なかったので良かった。
それはやめろだのそれでもアリだの何だのどうでもいいことを言われた
日には、余計なお世話だとあたしが三軒向こうまで叩き出していたに違
いない。
・・・・あたしも、彼とこの家で暮らすのが好きなのだ。
一人暮らしはちょっと味気ないこともあったけどそれなりに気楽で。
でも彼が、うちには余分な部屋が無いので家の裏の壁に寄せて建て増し
した小さな一部屋だけの小屋からお早う、と朝にやってきて。
あたしが外に出てあれこれ仕事や用をしている間に家の世話をしてくれ
て、夕飯時に帰れば一人の時には前の晩に朝食分と合わせて下拵えして
あったものをそれから調理していた食事の支度が、もう出来ているとか。
遠い記憶のお母さん、とかずっと面倒見てくれたおばあちゃん、とは一
寸感じが違うかな。
・・・これって、あたしが彼をお嫁さん?に貰ったような状態なのか?
まあ、不満とか全くこれっぽっちもないから、いいや。
朝御飯はあたし。夕御飯は彼。中間の軽食は適当に。
大体そんな感じで、両方の作るものが食卓に交互に並ぶ。
美味しいね、とかこれ何で出来てるの?とか。
今日あったこととか、明日の予定とか。
他愛ない遣り取りを、明るい笑顔で遣り取りできるのが嬉しい。
うん。あたしも幸せだ。

 彼がいつも服の中に背尾をきっちりと納めていて、その存在の気配を目
にする機会は一緒の家で暮らしているあたしですら極々稀で。
平穏なささやかな賑やかさのようなものと漂う生活感に、あたしも多少は
そうなので仕方ないのだが、周囲の人たちもそう経たないうちに彼が“堕
天使”であるというよりも“療養中の病弱美青年”ででもあるような扱い
になってきた。
身体に良いからこれ食べてみなよ、とか。
休むのにいい香草袋作ったからあげるよとか。
小さな子からお年寄りまで、逆に気を使わせて彼の身体に障らないよう
にと長居しようとしたりはしないが、顔を見ついでに少しばかり力の要
る外仕事の手伝いをしていったり、窓から顔を見せて炉部屋の椅子で縫
い取りをしている彼と立ち話をしていったり。
彼は、人間と変わらないように認識されているという、そのことも嬉し
そうだ。
そして、彼が幸せそうなのは、あたしも嬉しい。



・・・・でも。
やっぱり、そんな“夢のような現実”はそれほど長くは続かなかった。




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