「・・・・・。 これも、か・・」 しまったと、臍(ほぞ)を噬(か)むような思いでやっと呟いた私の横で。 “エデン”からふらと先程戻ってきたばかりのルシは。 『私が・・時を渡れる筈の私が、考え及ぶべきだったんだ』と。 言ったきり立ち尽くして、俯いている。 床を睨みつけているような視線と表情は、本当は自身に向けられている のだろう。きつく握り締められている両手と肩が、感情を抑えられない かのようにほんの少し震えていた。 「・・・・私が、選択を誤ったんだよ。ルシ」 思いつきで“鍵”をあの形にせず、私から直接与える形にしていれば。 或いは、避けられただろうに。 宥めようかと声を掛けると、怒っているように聞こえる声が低く掠れて 搾り出される。 「・・でも、私は、それを助けるべきものなんだ。 君は・・・ただ、あの子たちに贈り物の形として、それに悪くない思い 出の色をつけようとした、だけなのに」 悲痛。 かれは、私が頬に伸ばした手を振り切って窓際に逃げた。 自身を抱えるようにされた両腕の先が、苛立っているようにぎりと上腕 の衣服越しに表皮に指と爪を立てる。窓の向こうに目を落としているよ うで、きっとその目はそちらなど見ていない。 「・・・」 歩み寄り、私より頭ひとつ分に近い程高く。 そして大して変わらないような細身の背を眺める。 布地に余裕を持って作られている膝下までを覆う上衣とほぼ脚の輪郭に 添う揃いの下衣と、似たような材質の長靴(ちょうか)は、いずれもやや 鋭角の切り返しの仕立てで丈夫そうに仄かな漆黒の光沢を帯びていて、 そのかたちを護るように隠している風だったが。 ・・・首から上を除いて全身を覆う黒の色が。 黒い手袋から指だけ出ているその手元が。 その、黒い光沢が。 あの硝子質のように丸みはないのに、どことなくリリスの鎧を思い起こ すのは、選(よ)りにも選ってこの時にかれがそれを身につけているのは ・・偶然か、偶然ではないのか。 「ルシ」 このまま放って置けば、もしかしたら長袖のそのかれの力の一部に被わ れた丈夫そうな布地を越えてでも自分を傷つけてしまうだろうと、食い 込む指を丁寧に外させるとその手は意思を失ったように、只だらりと下 げられる。 促すようにやんわりと腕で支えて私のほうに向きを変えさせるが、微か に首が振られた。 「・・ルシ」 頑なにもう一度、力無く首が振られて俯いた顔は上がらない。 「・・・・独りで負うなと、言ったじゃないか」 「・・・・」 低く伏せた瞼の顔が少し、背けられる。 溜息をついて、一寸だけ強引な手段を“選択”した。 抱え込むようにその両肩に片腕を回して引き下げながら、窓辺の下の壁 に凭れる形で並んで腰を下ろす。 「・・!」 驚かれたようだったが、流石に逃げるのは諦めたようだった。 強張っていたような肩から力が抜けて、短い黒髪の頭が、私の顎のした でことりと私に凭れた。 「・・・・・すまない。 また、役に立てなかった」 零れ落ちるように口にされたそれは、泣くのかと、思えるほどの響きだ ったが。かれはそれを自分に許さなかった。 「・・・・あの子は、私のことを“ふーる”と呼んでいた。 先の時で、それは“愚者”のことだ。 あの子は知らない筈なのに、きっと知っていた。 ・・・私は。 知っているつもりで、何も知らずに看過し、危険を招く」 呟くように、語るように。 それに“違う”と、否定する。 優しい記憶の筈のそれを、心を侵食する刃などにしてほしくはない。 「・・・・ルシのせいじゃ、ないんだ」 その髪に少し頬擦りするように顔をつけ、かれに告げる。 「<神>は、私だよ。 私のせいに、すればいい」 「エルのせいじゃ・・!」 「いや、私のせいだよ。全部」 言い掛けた言葉を遮って、言い切る。 そうだ、私のせいだ。 原因も、発端も、私だ。 だから、君がそんなに自分を責めることは無い。 役に立たないなんて、言わなくていい。 そんなことは“無い”んだ。 ・・触れていた腕に込めた気持ちは、かれに伝わったようだった。 「・・・・・・。 半分、そういうことに・・しておく」 微笑む気配が届いて、懐くような仕草で頭が少し動き、凭れ直してくれ る。 ・・・それを片掌で抱え、肯定の気配を返した。 “時満たぬ実”が引き起こしたことは、後々のことに重大な波及を与 えた。ほんの、ほんの一寸の、後僅か。 しかし、それは。 時と共にほんの少しずつ、本来想定されていたものとずれを生じ、揺る ぎ、拡がってゆく。変化が変化を招き、多様な差異が現れる。 「・・・・。 “それ”は“時間の経過”と共に起こる、“変化”のうちなのだと・・ 思っていたよ。 彼らにはそれが“とても早い”のだと」 “地上”のいきもの、特に“ひと”という存在のうえに現れる千変万化 のような絵札の要因のひとつである、それ。 私の執務机の椅子を借り、深く掛けて背を預けたルシは、溜息をついた。 その気になれば威圧感を醸し出せそうな黒装束の脚を組んで、掌と手首 だけを覆う黒手袋に映える白っぽい指が胸前で組み合わされているその 様子は、憂い顔なのも妙にさまになっている。 行儀悪く机の上に乗って胡坐をかき、かれを眺めた私も溜息をつく。 「そうだな。 ・・私も、そういうものなのだろうと思ってしまっていた」 手を離れたら、もうそれは独自の周囲との相互の影響下にあるのだと。 <世界>とは、要素の集まりでもあるのだから。 本来、彼らに与えられる筈だったものは、“前のアダム”の時ほど長 く穏やかな周期(サイクル)では無いが、それなりの長さのものだった。 だが、“ひと”はそうならなかった。 初代のアダムとイヴから系が離れていけばいく程に、彼らに与えられて いる“同じだが違うもの”を生み出す要素は薄れ、寿命も短くなってゆ く。 そして、短くなってゆく周期を繰り返し、伝播し、時に途切れ、またど こかに蘇ることもあり、別の形で補うかのように様々な“差異”が生み 出された。 それを、時を渡って目にしていたルシと、それを伝え聞き見る私は。 “多様な変化”と“時の推移”という属性を強く持っている“地上”の “殻”を有する複雑ないきものゆえのことだと思っていた。 しかし、それはひとつの“選択”が引き金となって、起こり得たかもし れない本来の何倍もの速度で進んでいたのだ。 現在の“箱庭”は前回の轍を踏まないよう、ラジエルと私の共同管理 扱いとなっている。それにも関わらず、異常を察知するのは“見事に” 遅れた。 天界全体を巡回するのが日課であるミカエルも、“エデン”が特殊な管 理区域だからとて怠ることは無く、何時ものように確認して“別の場所 に去っていた”。 アダムとイヴが“実を口にした”ことと、動物たちがそれに倣うように したことを“感知”して警報(アラート)は鳴らされたが・・・時は既に 遅かった。 曖昧な隠された気配。発覚を遅らせた停滞。 イヴが出会ったという、<リリス>という名と、目にしたその容貌。 そして、私とラジエルから知らされてまさかと“エデン”へと駆けつけ たルシは、またしても自分の力が及ばない領域を目の当たりにした。 時を少しだけ遡ったかれの目の前で、リリスとイヴが会話し、遣り取 りをしている。 リリスに干渉出来ないのは以前の“巻き戻し”がダメだったこともある から不思議ではない。 でも、それならばとイヴが単独の状態に働きかけようとしても。 先に声を掛けて遠ざけようとしても、それとも別れた後に実を手にして いるところに顔を出して“それはまだダメ”なのだと伝えようとしても。 ・・・まるで薄く見えない障壁に阻まれているかのように。何も出来な い。 私のところに“跳んで”来たルシと、手を携えて“巻き戻す”願いを掛 けてみても同様だった。 ・・・・・これはもう、“決定事項”なのだ。 あの狭間の空間はこれに作用し、全ては既にあの時からリリスが<異 界>へ去るまでにもう終わっていたのだと。 遅蒔きながら、私たちは漸く“把握”した。 「・・・きっと、代を重ねて遠ざかるごとに、様々な問題が表れてく るだろう」 寿命減少等以外にも、繁殖機能の負荷や老化による健康の弊害など、 後に多くのものに起こり得る問題点は多岐に渡ったが。 初代の彼らと極近い係累には然程問題は無い筈だし、子孫に関する不 安材料だけを与えても仕方が無い。 私は、彼らがあの実を食べるにはやっぱりまだ早すぎて“複雑な不具合 が生じた”ということと、後の警告と忠告を与えるに留めた。 「・・アダム、君はイヴによく気をつけてやるんだよ。 イヴ、君はアダムに気を配ってやってくれ。 ふたりで、手を携えて時を過ごして。 そして、生まれた子供たちを大事に育てていくのだから」 自分たちが誤った選択をしてしまったのだと悟った彼らは、神妙な面持 ちでそれに頷いた。 リリスが気に入っていたイヴは、それでも彼女には本当に優しい様子だ ったリリスを疑うつもりは一切無いようで、正確なことは神様にお伺い するべきだったと普段の思慮深さを欠いていたことを悔やんでいた。 ・・・。まあ、私がリリスについて曖昧に教えた“だけ”だったのも一 因で、彼女は悪くは無いのだ。 そもそも“現在”からして、本来のリリスの寿命から考えれば三倍近く も経過している。“時間跳躍(タイムジャンプ)”を考慮に入れなければ、 普通に考えたらありえない要素なのだ。 そして、リリスは“あの直後”、即ち“現在”からすれば随分以前に、 <異界>へ確かに渡って去っている。 時間の流れは別世界では同様とは限らないが・・・、恐らく、再び相見 (まみ)えることは、無いだろう。 リリスは本来あるように描(えが)かれていたものとは随分別の形で、 “地上”に多大な影響を与えた。 しかし。 もしかしたらこれも・・・“必然”のうちであるのだろうか。 今のルシの前では、こんなことはけして口に出せないなと思いながら。 椅子に掛けたまま、疲れたように目を閉じているかれを見遣る。 視線を当て続けていると、その気配に気が付いたのか瞼が上がる。 「・・・・? エル?」 どうした?という風に、片手が上がって額に落ちかかっていた前髪を除 けるようにした掌の影から、眼差しがこちらに向けられる。 私を気遣ってくれているのか、負荷を抑えて様子を覗うようにするその 独特の表情が。 私よりも年嵩の容姿であるその容貌が、微妙な陰影を帯びて、それに何 かを感じる。 ・・・・・・・。 ルシが、ええとその、・・・。 [概念]を掘り返し、当て嵌まるだろうものを引き当てた。 ・・・・。 ルシが、“色っぽい”、のですが。 ・・何となく、無い筈の鼓動が。 アダムやイヴの胸のうちで時折驚いた時跳ねるのに似た風にどきりとし たように感じて、曖昧にやや目を逸らすと、かれは不思議そうにした。 「? エル、どうかしたのか」 きょとんとしたようなそれには、もう影は無い。 無防備な信頼と、私のことを気に掛けてくれる親愛が、真っ直ぐに向け られている。 ・・・・。気付かなかったことにした。 私は、それを知らなくてもいい。 今のままが、いいんだ。 「・・・いや、その新しい服。 そうやって座ってると中々さまになってるなぁ、って」 格好良いぞ、と笑い掛けると途端に、その瞳に幼いような風情が仄かに 覗く。 「・・そうか?」 にこ、と。嬉しそうにすると自身の格好を確認するように視線を下ろし たかれに気付かれないように、心中でこっそりと溜息をつく。 ・・・・まったく、やれやれ、だよ。 *** ルシは、結局、直接彼らの見送りには出なかった。 遠目に見届けて、溜息をついているようだった。 知っていたけれど、あえて引っ張り出そうとは思わなかった。 かれは、アダムとイヴにはまた会えるんだ。 今、無理しなくてもいい。 アダムとイヴ以外の動物たちは、殆どがそれぞれ自分の意志で実を口 にしてしまっていた。 イヴが手にしていたのだけ見て、もう良いのだと早とちりして食べに行 ったもの。イヴに、もう匂いがしているのかと尋ねてから行ったもの。 それらの動きにつられて追従したもの。 アダムとイヴが、ほかのものが持ち帰って口にしているのを見て堪らな くなってとんでいったもの。 動きの遅いものたちは別に行き渡らないことはないだろうとのんびりと していたが、親切のつもりで持ち帰ってきてくれたものもあり。 結局、その時眠っていた等の極僅かの例外を除くと殆どがそれを口にし ていた。 “時満つる前だった”ということを知った彼らは、驚愕や動揺、そして 後に支障が現れるだろうということを聞いて落胆した。 大方を楽しみにしていればよかった筈なのに、どうしてこうなったのだ ろうと。 そして、自分で行ったにしろ貰ったにしろ“口にする”ことを選択した のは自身だということから、表立っては反省しているようだったが。 しかし、その奥底で、小さくその“原因”となった、元々はほぼ好感し か抱いていなかったイヴの行動・・・と、そしてそれを示唆したのだと いう“前のひと”とやらいう存在。そしてイヴの伴侶であるアダム。 つまり“ひと”という存在に、微妙に逆恨みも含まれた“不信感”を抱 いていたのだが・・・それが明確になるのは、まだ後のことだ。 口にしなかった残り僅かの動物たちも、取り残されることは希望しな かったので同様に実を口にし。植物たちや、実を口にしにくいほど小さ ないきものたちにも均等と言うことで樹液の形で残らず“鍵”が与えら れた。 そうして、植物たちの先触れがまず降りて“地上”が広く豊かに緑に覆 われた後。残る植物たちと動物たちが降りる番がやってきた。 「・・・きっと、大丈夫です」 イヴが、憂いを抑えて優しく微笑む。 「ふたりで行けるんだから、問題ないですよ。 イヴが俺を助けてくれますし、俺がイヴを助けます」 アダムが、力づけるように拳を握って元気よい仕草を見せる。 ・・・逆に、心配そうなのを隠し切れない私を気遣いしてくれる彼らは。 ふたりの額に祝福の口接けを贈った私の頬に、ひとりが片方づつお返し の口接けを返すと手を振って、天使たちに連れられて“エデン”の皆と、 約束されていた“地上”へと去っていった。 がらんとした、ただ空間だけが広がる“箱庭”。 その仮想の“空”を見上げて、仮想の“地”に立つ。 溜息をつき、片手を振る仕草でその稼動を“off”にする。 音も無く、太陽が射してるような光源も、空も、土の感触も消え。 闇夜であるようなそこには、区切られた格子(グリッド)状の線が微かに 薄青く光を帯びて続いている、広大な“四方”だけがある。 ふ、と手を握り込むような動作をすると、私は“エデンの入口”が在っ た筈の天界の一角に立っていた。 今はもうそこには、並び立つ二本の木の形状を取っていた空間の門(ゲ ート)も、無い。 そこに今まで在っただろう何かの存在の跡形も無く、何も。 ・・・ふいに現れて背後に立つ気配に、振り向かずに言葉を投げる。 「・・・・。 とりあえず、一段落は・・したな」 手の内にある、光沢のある透明に薄青い特別な“キューブ”のような ものを翳して透かし、天界の空を見上げた。 これひとつの中だけに、あの仮想の“地上”を演算し構築しそのうちに 生きるものたちになるべく違和感を抱かせないようにする。 それだけの膨大な情報が収納されているのだ。 「・・・届けておこうか?」 横から掌を上に向けて差し出された片手に、ん、と頷いて透明な小箱を 渡す。ラジエルが確認してから制限度の高い収蔵庫に置かれるだろうそ れは、恐らくもう今までのような役割としての用事は無いだろうが。 ふと、アダムとイヴのことを思い出す。 かれらには矢鱈なものを見せないように気をつけてはいたが、“キュー ブ”はシンプルだし見たところでそうそう真似て造り出すことは出来な いだろうものなので、学習教材の一種として時折普通に手に取らせてい た。 アダムはキューブを読み取るのが壊滅的に苦手だった。ちょっと読もう とすると『ぐるぐるする』のだという。幾度試しても慣れる様子もなか ったし、本当に気分が悪くなるようだったのでどうも適性が無いらしい。 イヴは大量のものは苦手だったが、適量のものなら細部まで詳細に把握 して、代わりに要旨をアダムに説明してみせたりしていた。 ・・・もう、あの光景も目にすることはないのだなあと。 ふと、ひどく寂しいような気分になる。 「・・・エル」 軽く袖を引かれて振り返ると、ルシが何かを握った拳を下向きに差し出 していた。小箱はもう片方の手に持っているのがちらと覗いて見えてい るので違うものだ。・・何だろう。 拳の下に程近く掌を広げてみると、それが開かれて中身が落とされた。 ぽとりと落ちたそれは、丸く、表面に虹がかる透明なもの。 指先一節の更に半分ほどの、小さな球体。 「・・・・綺麗だろう?」 ふわと、ルシが微笑む。 硝子で出来ているそれはひんやりとしていたが、心地良く滑らかに丸く、 明るい水色に虹の膜を帯びたような優しい色合いをしていた。 球体というところは違うが、何となく天使の卵にも似ている。 ころころと掌の窪みで転がしてみると、光を弾(はじ)いて何だか“夢”の 欠片を手にしているようだった。 「・・綺麗だな」 ぽんと片手で放り上げて受け止めて遊んでみると、ルシが笑った。 「ビー玉っていうんだ。 いろんなのがあるんだが、とりあえず土産」 私が気に入った様子に嬉しそうにしたかれに、有難うと返して暫く放り 上げては陽に翳して光を弾いて遊ぶ。 ・・・ああ、こんな優しい硝子の塊なら触れるだけで不安を招くこと など、そうそう無いのだろうに。 ルシに向かって弧を描いて緩く放る。 指先だけで簡単に掴み取って見せたかれが、あははと笑って私を真似て 放り返してくれる。 弧を描いて、幾度か行き来したそれを改めて握り込んで。 「じゃ、それ頼んだ」 「ああ。 じゃあ、また」 手を振って、かれが歩いてその場を去ってゆく。 見送って、もう一度手の中の硝子玉を眺める。 ・・・なんとなく、それは“地球”に似て見えた。 *** アダムとイヴの最初の子が生まれたと知り。 私は、正式なことなので自分が直接“移身(うつしみ)”を使って訪問す ることも考えなくもなかったが。ルシに名代(みょうだい)として行って 貰うことに決めた。 表に出して見せることは無いが、まだ確実に“エデン事件”の衝撃が尾 を引いているだろうかれに。 その成長もろくに直接目にすることも出来ず、ちゃんと別れを告げて見 送れなかった彼らに会い、彼らと新しい“子”に私の代わりに寿(こと ほ)ぎと祝福を贈ってほしいと。 言葉として説明したわけではないが、かれは私が“名代を”と言っただ けで意図を理解したようだった。 少しだけ困った風にはしたが僅かに躊躇ってから、頷いて引き受けた。 天使の先触れによって待っていたアダムとイヴが、笑顔で出迎える。 お久し振りですと懐かしそうにする彼らが、もう大分大人びているの に少し感慨を帯びたようなルシの声が応じて。 私(エル)からだと伝えた頬への口接けと伝言と、右手で額に触れて健 康や幸運などの“願い”を込める祝福に、彼らはとても喜んだ。 それから、この子がそうです、と壁際に吊るされた籠型の小さな寝台 に案内されて中を覗き込むと、まだ名前が決まっていないのだという その“地上”で最初に生まれた“ひと”の子は眠っていた。 まだ、普段は泣くか眠るかくらいしかしないのだというそれを、少し 不思議そうに、ふうん、と呟いて眺めたルシの視線の先で。 ぽかりと、その瞳が開いた。 握ったとても小さい手が振られ、そのまだあまり対象を詳細に捉えて はいないのだろう視覚がじっと、こちらの目の辺りを見詰める。 動いている小さな拳に、興味深そうにそっと指先を近づけると、触れ たと思った途端にそれは掴まれていた。 小さな小さな細い指が、人差し指を掴んで感触を確かめるようににぎ にぎとする。 そして気が済んだように放すと、拳を握り直し。 また、すう、と眠ってしまった。 傍(はた)から覗き込んだアダムとイヴが、折角特別な天使様が来て下 さっているのに赤ん坊だから仕方ないなあと笑って、ふにりとその手 を軽くつついたが、起きる様子もない。 マイペースだな、と笑って、ルシはまだ名無しのその赤ん坊にも、頬 にそっと口接けと、額に祝福を贈った。 帰ってきたルシの手から、かれの視点の記憶を伝えて貰う。 それから伝わる感覚と、かれの抑えているけれども嬉しそうに話す補足 事項に安堵した。・・ルシを行かせて良かった。 それから、懐かしむような優しい眼差しを伏せて取り留めないように、 自分の子供の頃のこと(大きさのこととか、子供時分ならではの私との 思い出とか)を少しづつ切れ切れに口にするかれを眺めていて、ふと、 考え付いた。暫くどのように切り出すか考えてから、かれの話が途切れ たところで話してみることにした。 微笑んで、呼び掛ける。 「・・ルシ。これからは、もうひとつ仕事をしないか?」 ルシが何だ?という風に見返すのに。 「あの子たちから広がってゆくものを。 “人”の未来を、君に、見て来てほしいんだ」 疑問符が、その表情に浮かんだ。 「・・それは、元々私の仕事の内じゃ・・」 まだ通じていないようだ。 「だから、だよ」 歩み寄り、軽く背に腕を回してゆっくりと語りかける。 「・・・きっと、あの子たちの代ですらこの先は以前夢見たような“美しく” “優しい”“穏やかな”ものばかりではないよ。 私は、新たな“人”に“変化”と真の意味での“多様”を希望(のぞ)ん だ。それゆえにあの“生命(いのち)”は強く逞しく、また儚く脆く、常 に何かを求めて脈動している。 ・・・リリスの与えたほんの僅かな短縮と、ズレと見えたそれこそも。 もしかしたら彼らが吸収すべき、変化の要素のうちだったのかすら知れ ない。あの子も本来“ひと”であるのだから。 ・・だからこそ。 君に、その新たな、暖かな熱い“血”を持つ彼らから生み出される何か を。君が追い切れないほど現れるだろう<分岐>の幾許(いくばく)かの 様子を。 ・・・それと、ルシが目にして気に入ったものを。 私に、届けてほしい」 「・・・・エル」 引き寄せていた距離を少しだけ離して顔を見ると、僅かに瞠っていた瞳 が私の顔を見直した。 薄く赤を刷いた柔らかな茶色が、ゆらとたゆたう。 「引き受けて、くれるだろう?」 ルシは少し沈黙して、それから私の肩に頬を預けて背を抱き返した。 「・・・仕方ないな。 君が本気でそう“願う”なら。 ・・私に、断れるわけが、無いじゃないか」 小さく微笑む気配に、私も笑って背を軽く叩いて再び抱え。 暫くそのまま、そうしていた。 7頁← →5頁 |
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