リリスがざっと見て把握したように。
“もうひとつ”の裂け目から漏れ出でた<異界>の大気は。
直接目に見えるような影響は、“塔”や“遮断幕”が明らかに原因はそ
れと示して及ぼすように、それらが大地を徐々に変えてゆく変容や、
“ひと”やほかのいきものを変化させることに熱心な堕天使の活動とそ
の結果に比べたら。その影に埋もれるように混ざってしまい、とても目
立たず見分けも付かず、原因を悟ることなど難しいものだった。
天に属する“翼あるひと”とは相性が良くなく、かれらが近寄るのを躊
躇させ、ときに耐性の弱いものを苦しめるだろう、という以外では。
・・・しかし、深く静かに。
“塔”の出現とほぼ同時に始まっていたその染浸(せんしん)は。
ひとつの異変を招き寄せた。

 今までの倣いであれば。
“ひと”と、“ひと”とよく似た器(うつわ)・・殻を得た堕天使の間に
生まれるのは、ただびとと変わらぬものか、天使の“力”をなんらかの
形で受け継ぐ見た目はひとと変わらぬもの。
その、いずれかだった。
 しかし。
天使とひととで反応の異なる大気は、“堕天”して見た目や構造は、背
にある翼の名残の“尾”のようなものを除けば殆どひとと同様になって
いる筈の“元天使”との間に、“隔(へだ)て”のようなものをつくり出
した。
それは・・・
かれらの間に生み出される筈のものを“纏まらなく”させ、“不安定”
にし、“これまでのように留(とど)まらぬもの”をかろうじて繋ぎ止める
程度に弱める。・・その結果は。
“ひと”に属するもの。“いきもの”のうちであるものとして、本来
あるべき何倍もの速さで、ごく小さく柔らかに薄くかたちを成した。
だがそれは、双親(ふたおや)にはその略図として思い起こされる程度の
ほんの僅かしか似ることなく。
本来あるべきである“個々の違い”を見た目に示さず。
“子”が“親”に、生きるために向ける“記憶”と“関心”が余りにも
薄かった。
たったひとつ。
確かにそれがその全身で、忘れることなく抱(いだ)き続けられるものは。
“さびしい”
薄い不安定な自身を繋ぎ止め、在る筈だった姿を取り戻そうとするかの
ように。かれらは、親が子に普通そうするように与えられた“食べ物”
を口にし、飲み込むことを好んだ。
かれらは記憶を大概のひとのするように留めておくことが出来ないので、
親が“関心”や“愛情”を向けても濃くし固定することは困難で、ほん
の一寸した弾みでそれを直ぐに失ってしまうのだ。
異形ではあったものの可愛らしいともいえるその姿ごと愛そうとした親
は、・・あるものは失望し放置し、またあるものは満たされるのであれ
ばと食べ物を欠かさずに与え続けた。
だけれども、かれらの構造的に抱(いだ)く不安定な空虚は、その変わら
ないそれだけの繰り返しに“飽く”ということも、“満足”な状態を暫
く留め続けることも、かれらに許さなかった。
食物を口に運び続けたかれらは・・・・巨(おお)きくなった。
最初は、ひとの親指ほどの小さく軽い姿で生まれてきたかれらが。
次第にひとのように大きくなり。
そして、ひとを遥か越えて見上げるしかない大きさとなってゆく。
一定以上の大きさになったり、放置されたかれらのうちのいくつかは時
が過ぎるうちに、ひとのいう“食べ物”ではないものにも手を伸ばし始
めた。
 その顔を不定な身体の表(おもて)で移動させたり、手元に掴んで運び、
薄い記憶と感覚を頼りに“それが食べ物であるのか”とか、“どのよう
な形状のものか”と確かめるかのようにしているうちは、おとなしい。
“親しみ”や“遊び”のような仕草すらも時折見せる。
“食べ物”や“そうでないもの”。
“ひと”や“堕天使”や“仲間”や“ほかのいきもの”。
色々なものを、記憶は薄いけれど、それでもこの<世界>に生きる感覚
のようなものでかれらは“見分けて”いる。

 ・・・・・・だが、何かの弾みにそれは“箍が外れる”。
食べるのに適したものが無くなり、手に届く範囲からそれが消えて、別
の場所に移動するにも距離と時間を長く長く必要とした時。
働きかけるものも、ずっと何も傍に居ない時。
それは・・・“選択”を、“忘れる”。



***



 ネフィリムの脅威が明らかになり、かれらが恐れを含む象徴に変化し
始めるよりも、まだ少しだけ前のこと。
“塔”からそう遠く無い場所の、ひとの群れ集い住む場所の外れで。
ひとつのそれと、ひとりのひとが出逢った。
ひとは、丁度、ひとりきりで。
少し離れた場所に居たその“気配”を感じ取って、近寄ってゆく。


 「・・ねえ、なんで泣いているの?」
『・・・ ぼく さびしい。
おかあさん いなくなった。
さがしても さがしても みつからない』
そっと呼び掛けた声に、思念のような淡い淡いものが返る。
ごく普通のひとには捉えるのが困難なのだというかれらのそれを、少女
は受け取り、また語る言葉に乗せて似たように送り返すことも出来た。
「・・おとうさん、は?
誰か他の、一緒に居てくれるひとは、居ないの?」
『おとうさん ・・・いない。
おかあさん ずっとずっと いっしょに いたのに。
いなくなった。
どこにも どこにも いない』
少女はその、かなしいかなしい色を乗せたきもちが、青い水のような瞳
から零れ落ちたように感じた。
・・実際は、そんなことはなかったのだが。
ネフィリムは、彼女の知る限りでは、泣けない。
かなしむことはあっても、強い感情を留めて置けないから。
強すぎると低い限界に達して散じてしまうから。涙はその瞳から流れる
ことはない。
でも、“かれ”は確かに、泣いていた。
かなしい、さびしい、と。
漣のように淡く淡く寄せる、微かに色彩を乗せるそれを、少女の敏感に
“気配”を読む独特の才覚が至極正確に拾い上げる。
「あなたは・・ ネフィリムね。
わたし、こんなにはっきりお話できる子には初めて会ったの。
あなた、おしゃべりすき?」
『うん
おはなし すき』
「じゃあ、わたしと少しお話しましょ。
わたし、ナンナっていうの。
目が見えないから、あんまりひとりで遠くには行けないんだ。
あなたがここにいてくれてよかった」
今、友達が、一緒に来ているおじいちゃんの用事が終わりそうか、見に
行ってくれているの、と。理解出来るかはわからないネフィリムに向か
っても、普通にひとに話すように説明する。
かれは、そのまま理解したわけではないようだったが、少女が誰かと一
緒なのだということはわかったようだった。
かなしい切ないような澄み切った青の水色を美しく薄く湛えていた“感
情”の波に、少しだけ、橙色のような、桃色のような、淡い柔らかな色
が加わる。
『いっしょ うれしい。
だれかいる おはなし。
ごはん いっしょ』
その暖かな色合いが、割合をほんの少し大きくするのに、少女は安堵し
た。きっと、“おかあさん”が大好きで、この子はその気持ちを覚えて
いたいんだと思う。・・なのに、どうしてしまったんだろう。
「・・・そうだ、ねえ。
あなた、お名前は?
名前、あるの?」
可愛がってくれていたなら、きっと名前はあると思ったのだけれども。
かれは、ほんの少し思い出そうとするように沈黙してから、こう言った。
『なまえ・・・・
わからない』
少女は、はたと思い当たった。
先程の“かなしい”がかれを一杯一杯に埋め尽くして、きっと、それま
で何度も何度も大好きな“おかあさん”が呼んでくれていたのだろう、
その“かれの名前”を。
水を張った盥に浮かべた小舟が、水を足しすぎた縁から流れと共に外に
出てしまうように、それはかれからこぼれ落ちてしまったのだ。
思いついて、周辺の気配を探ってみるが。
届く範囲には、“迷子”を探すような気配は見当たらなかった。
ネフィリムは普通、大きさ以外では殆ど見分けがつかず、放っておいた
ら間もなく何かを忘れ始めてしまう。大切にされていればいるほど、保
護者はかれらを単独で放置することによる問題は承知している筈だ。
なのに、それがなく。
かれは、ずっと一緒に居た大好きな“おかあさん”が居ないと。
探しても探しても見つからないのだと、泣いていた。
おとうさん、はどうしたのかしらないが、ほかのひとも居ないのかもし
れない。
・・・かれは、ひとりぼっちになってしまったんだろうか。
それからもう少し、幾つか遣り取りをしながら待ってはみたが。
かれを探しにくるものも、探す気配も近くには無かった。
 少女は、ひとつ決意する。
「・・・ねえ。
名前を忘れてしまったのなら。
とりあえず、あなたのことを<ネフィリム>と呼んでも構わないかな?
あなたたち、新しい“ひと”の子供たちの名前だから。
大概、皆がこれがあなたたちの名前であることは知っているの。
だから、忘れても。誰かがそう、呼んでくれて。
きっと、思いだせると思うの。
・・・どうかな?」
かれは、少し不思議そうに。
白いような柔らかな色味を波に乗せた。
『ねふぃりむ・・・』
少女は、物心がはっきりとついた頃からもう視力が働いて居なかったの
で、その具体的な“見た目による様子”を認識したわけではないが。
ほかから聞かされて“ネフィリム”の姿は知っていたので。
何となく、かれが首・・というか身体全体を少し傾げるようにして思案
する様子が見えたような気がした。
『ぼく・・・ ねふぃりむ』
かれは、覚えようとするように、その名を繰り返した。
元々の、本当の名前は、忘れてしまったようだけど。
ぼく、と自分を示そうとするように“個”という認識もそれなりにはっ
きりとあるようだ。
“おかあさん”はきっと、繰り返し繰り返し、本当にいつもいつも、か
れを呼んで、かれが“個”で自分と“一緒に”居られるものだと教えた
のだ。
少女は、自分もかれに覚えて貰いたいと思う。
「わたしは、<ナンナ>よ。
ナンナ。
あなたは、ネフィリム。わたしは、ナンナ」
かれは、交互にその名を繰り返しながら。
ねふぃりむで自分に向けて、少女に向けてなんな、と繰り返した。
そして、告げる。
『なんな なんな。
おぼえる』
明るい緑のような、とても柔らかな色が波に乗って届いた。
目の見えない少女は、数々の色を色そのものとして知っているわけでは
なかったが。
そのイメージのようなものと、どこか・・遠い遠い記憶の底のほうで、
世界には“色彩”というものがあるのだということを、何となく確信の
ようなものに満ちて知っていた。
だから、その“覚える”ことを嬉しいことだと感じる若葉のような気配
に少女はとても喜んで、かれに応える。
少女は様々な色に惹かれたが、何となく“緑”が一番好きだった。
共に生きるひとびとを護って色々なものを与えてくれる草木の象徴であ
り、自分の眸にもあるという、時に水にも似たその色。
「嬉しいな♪
・・・そうだ!
ねえ、ネフィリム。
ネフィリムは、ナンナと、ともだちになってくれる?」
『ともだち?』
「おともだちー。
一緒に居て、遊びましょう。ネフィリム」
ネフィリムは、少女と“一緒”に居られるということに心惹かれたよう
だった。直ぐ傍に並んで座っていた、柔らかな手がぱたりと振られる気
配がする。
『なんな、ねふぃりむ、ともだち』
薄い黄色なのだと聞いているその丸く細長い手の先を、少女は握った。
自分の肌は、暗褐色なのだと聞いている。
触り心地は悪くない、さらりとした健康な子供の肌だ。
まださほど大きくも無い子供の大きさの手が、黄色い手を握って少し振
る。
「じゃ、これが“握手”ね!
ご挨拶のひとつなの。仲良くしたい、というしるしよ。
・・・よーし。
何から話そうかな?」
じゃあねぇ・・、と思案しだした少女の向こうから、連れの少年と、白
髪(はくはつ)だが壮健そうな活力を動作と体格の内に覗かせている老人
が、少女のほうに向かってやって来た。
用事は終わったのか、手荷物を手に何事か遣り取りしながら来たふたり
は、丁度その方向からは見え難かった余り大きくない、少女と同じくら
いの大きさの“ネフィリム”がいることに驚いたようだったが。
少女が、かれらに向かって熱心に何事か訴え掛け出したのを聞いて、少
し困ったようにしたものの、やがて、保護者である老人は頷いた。
そして、ネフィリムの両手を片方づつ取った少女と少年は楽しそうに歌
を歌いながら、一歩先に行く老人の後をついて。
その、かれらが住まう場所とは大分違う土地を立ち去って行った。


 異邦で生まれた娘と、この界に居場所の無い存在。
 かれらはどこか、似ていたのだろうか。
 それはまだ、誰も、知らない。

 
 
 END.


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