リリスは、かつて封じられた亀裂の一部を寸前まで気付かれないよう
に、丁寧に慎重に、しかしなるべく早く薄く弱める作業と共に。
試行錯誤の末、やっともうひとつ。
何とか“近い時間”の“塔”のそばに、新たな裂け目を繋げることが出
来た。“塔”にごく近い場所は“歪み”や“変異”の気配を帯びている
ため、それに紛れて気付かれる可能性はかなり下がっている。

これで、封印がされている向こうを一時(いちどき)に破って見せれば、
きっと警戒はそちらに向いて、もう一方のほうの発見は遅らせられるだ
ろう。その間に、あの子を捜し出し連れて帰ればいいのだ。
いつか、エルの居場所を捜し出した時のように、きっと判る筈だと。
 幸い、“塔”の周囲に<異界>の大気がほんの僅かに漏れ出しても、
傍近い場所に住まう“ひとびと”は特にそれと異常を感知したり、暫くし
ても支障が現れたりもしない様子だった。
殻を開けようとしなかったあの子が特に敏感なのか、それともごく普通
の新しい“ひと”には余り影響が無いのかはわからないが、連れ帰って
暫くの間だけならそう慌てることも無いのだろうとリリスは少し安堵す
る。ならば連れ帰るのが先決で、あの子への対策は後でどうにかなるだ
ろう。



 ・・しかし、“ひと”のほうの影響はそんな様子だったが、“天使”
は違った。
 封印を無事に破り、何かの時の対処のためにこちらの周囲の様子も確
認しておこうかと、二番煎じでは通じないかもしれないが新しい“箱庭”
を覗いた時のような“ぼやかし”を破損部分に掛けておいて、その隙間
から気付かれる前に抜け出てみると。
そこは広大な“地下洞穴”のような雰囲気の場所だった。
覚えのある“天界”の気配とは違うが、“地上”ともまた違う。
“箱庭”のような天界内の異空間のひとつなのだろうか?
封印のある場所はその奥まったようなひとつの行き止まりの小さな広場
らしく。
亀裂のある“樹”を封じている透明な密度の高い立方体のような凝縮さ
れた“空間”のほうにも抉じ開けた僅かな隙をぬって岩盤に降り立てば、
この突き当たりの場所自体が更に結界で囲まれているのがわかる。
流石に厳重だな。
・・・と言っても、私が別に裂け目をもうひとつ開けてしまっている現
状からすれば、至極間抜けにしか見えないのだが。

 警報なり巡回なりの何らかの形で破損に気付いたのか、“天使”が二
羽の一組、やや遠目に急に現れて、はさりと背の翼をはためかせて中
空から地に足をつけたのが見えたので急いで気配を完全に潜めた。
それぞれが、“画面”で目にした事がある“地上”の“鳥”でいうと大き
めの捕食型の鳥のような感じの大きな茶と黒の翼と、鈍く柔らかな黄
緑の・・・背にある大きさはそれなりだが何となく小鳥のような華奢な
印象の翼をしている。
かれらは背格好自体は同じくらいのまだうら若い風の青年だった。王を
見慣れているわたしから見ては然程の“力”は感じないので中天使あた
りか。
 軽装のうちではあるが、天界のものなのだろうか。
背後の封印の空間が時折揺らいで投げ掛ける青い光のようなもの以外は、
やや光量の低い周囲のうちで、独特の仄白く淡い光を帯びて浮き上がっ
て見えるような素材の防具のようなものを、肩辺りから首回りにかけて
と胸部、腰辺りの要所と篭手代わりなのか肘から先にも身につけ、きち
んと周囲を警戒する様子も見せている。
といってもそれほど“武張った”様子はないし、哨戒しているごく一般
の“門衛”・・のような印象だ。
天使はわたしの構造のように今の地上の“ひと”とは違うので、地上人
(ちじょうびと)の身体の内にある様々な“内臓”とやらいうものは殆ど
無いのだが。
彼らとよく似た姿をしていて衝撃も感じるので。ひとに似た基本の姿
を現している時にはかろうじて内臓らしきものがある首から胸元と、攻
撃を受けると全身の動作が遅れるだろう腰部とを護っているのだろう。
明らかに“真面目に”それなりの心備えをしているようだ、と、妙に可
笑しいような気分になる。この区域がどのようなものかは知らないが、
以前目にしたそれとは明らかに差があるようだ。
・・だがまあ、わたしは今回かれらと戦いにきたわけではないし、遊ん
でいる場合ではない。
今では大きく成長した立派な大樹を封じている大きさの立方体の放つ
光から少々離れて、多少見え難そうな岩壁に目眩ましを試みて寄る。
単に様子を見に来ただけであれば、封印のほうを確認して引き返しては
くれないだろうか。・・・かれらが全く詳しくなくて応援を呼ぶとかいう判断
をしなければいいんだが。
そうなれば気付かれずに戻るのは少々面倒だ。
そんなことを身を隠している暇の間に思案していたが、天使たちは結界
の外で二言三言言葉を交わし、どうやら片方が様子見に入ってみて、も
う片方は周囲の警戒を維持するということに決めたようだった。
気をつけろよ、等と言ったのだろう風に口元を動かして見遣った猛禽の
翼のほうが外に残り、小鳥の翼のほうは軽く手を振って応えると、結界
に掌を触れて目を閉じて念じるようにし、ついていた掌から先にその隔
壁を損じることも、具体的に出入口を開くこともなく擦り抜ける。
・・わたしの存在は今のところ感知されていないようだ。
ふ、と小さく息をついたようにしたかれが、立方体の様子を見ようと慎
重に歩み出した時だった。急に、その動きが止まり、胸を片手で押さえ
る。
どうしたんだ?というように背後から疑問が掛かるが、結界の内のかれ
のほうは、かたかたと小刻みに肩を震えるようにすると、胸元を押さえ
たまま、よろと踵を返す。そのまま、ようやっとという様子で再び結界
の境を越えると、不審そうにかつ心配そうに見守っていたもう一羽が支
えるように差し出した腕の中に倒れこんで大きく肩で息をした。
苦しそうなかれともう片方が遣り取りするのが切れ切れに聞こえるのを
継ぎ合わせると、どうやら、とても気分が悪くなって呼吸が出来なくな
ったということらしい。
そのまま息が十分に出来ないかのようにぐったりとしてしまったかれを
近くの壁に凭せかけ、茶の翼のほうは僅かに思案の後に、目を閉じて暫
く沈黙している。
すると、先程のかれらがやって来た時とは違い、茶の翼の面前の足元に
光の陣のようなものが浮かび、それが消えると同時にひとりの青年がそ
こに立っていた。どうやら目を閉じている間に“かれ”に呼びかけていたよ
うだ。
透けるような濃青の真っ直ぐな髪を腰ほどまで伸ばして背の半ばで緩く
編んで束ね、丈の長い少し変わった型の立襟の上衣と揃いの下衣を身に
つけている。背には翼は現していないが、かれも天使だろう。
特にこれといって目立つような“力”は感じないがけして弱いとは感じ
ず、少々変わった雰囲気のようなものもある。・・・注意したほうが良
いだろう。
悟られたりしないように周囲の気配に殆ど意識を埋もれさせるようにし
ながらぼんやりと辺りの様子を見るとも無く認識を続ける。
後から来た青年は茶の翼のほうに手早く経緯を尋ねると、倒れてしまっ
ているままのほうの様子を確かめる。それから改めて茶翼のほうと簡単
な相談のような遣り取りをした。青い髪の青年は見え難い位置にいたが、
茶翼のほうの表情が見て取れたので後で思い返そうとその口の動きを正
確にただそのものとして記憶に留める。
大した間も掛けずに、了解したように頷いた茶のほうは翼を収めると小鳥
の翼のかれを背負ってその場から去り。
青い髪の青年は少々留(とど)まって、服の隠しから取り出したらしい髪色
に似た青の艶々した長方形の折り畳んだものを縦に広げると何事か操作
しようとしたが、上手くゆかなかったのか諦めたような溜息をついてそれを
再びしまい込む。そして、何ごとか決意したような表情に変わると別の
小さなものを取り出してもう一度光陣を光らせると、その場から消え去
った。

 近くに誰も居なくなったので、隠行(おんぎょう)は解かずにとりあえ
ず伏せていた意識を起こす。
すると、あれ、と何かを感じた。
・・・・肩に纏ったまま忘れていた、王の“力”の切れ端から“遮断”
するような“霧”のようなものがわたしの周囲に、それを悟らせにくい
ほんの微細な、とても繊細な波で送り出されていた。
それは元々帯びていた弱い遮るものではない。確かな波動。
・・・。王が、わたしを助けようとしてくれているのか。
もしかすると、先程青い髪の天使が何かしようとしていたのを妨げたの
もこれなのか。肩から取り外したそれを眺めて、溜息をついた。
独りで飛び出してやっているようなつもりになっていたが、何時の間に
か助けられていたとは。・・・少々情けないような申し訳ないような気
分にはなるが。それを肩に付けた時に思った通りになったような気がし
て、何となく苦笑する。王はやっぱり、きっと最後まで優しいのだろう。
それから、先程保留にしていた記憶を思い返した。
視界が少々遠かったので全てでもないが。
“天使にはこの大気はよくないというのですか”
“ルシフェル様にもご連絡を?”
というようなくだりだけは把握出来た。
・・・?
青い髪の青年は、もしかしてルシフェルに連絡でもしようとしていたの
だろうか? あの見慣れないものは、かれがまたどこか別の時から持ち
帰った品物なのか。
そして、もしかすると青い髪のかれがルシフェルを呼びに行ったのでは
ないかということに思い当たる。実際に、来るかはわからないが・・。
・・・・・・・。
旧(ふる)い記憶を強めるその名に、ちりちりと、“力”と共に眠ってい
た結晶が捩れ、その硬度と密度を増してゆく。
・・・無駄でもいい。
エルには一切影響を与えることなど無く、あの時かれに触れることは出
来なかった“一撃”を。
“やり直し”てみようかと。
皮肉な思いが思考を過(よ)ぎる。・・遊んでいる場合では無い、のだが。
過去の“許せない”、という強く刻まれた思いのようなものが身を染め
直すように蘇って来ているのか、全面的に逆らうことは難しかった。
何かを計算し出した思考の片隅が思いつく。
・・・・そうだ。
先程の情報があったなと。
“天使”は“ひと”と違って<異界>の大気が合わない様子だった。
個体差はあるかもしれないが、濃縮させてその中に叩き込めば多少は効
果があったりしないだろうかと。
・・・そして、わたしにはこれがある、と。
失った核の代わりかのように結晶しずっと封じてきた、この狂気にも等
しい“憎悪”が。
両方があれば、多少の“痛み”程度は与えることが出来るだろう。
・・・まあ、駄目で元々だ。

 そしてふと、“これ”を使わせて貰おうと思い付く。
ルシフェルの動きを多少なりと妨げることが出来れば、役に立つとも言
えなくもない。言い訳だと別の意識が囁いているが、その声は完全に制
止出来る程強くは無かった。
あの“塔”から伸びる“遮断幕”のようなものを思い浮かべた。
王がわたしを護るために編んで送り付与してくれた“力”の波を、片手
に握るようにしたそれに“願い”を込めて状態を変化させる。
・・・・・“霧”よりも薄く。
“靄(もや)”のように。広く、この区域をくまなく覆う程に。
それは、そのように変えても“変わらず”に、わたしを護ろうとする条件
付けを揺るがせはしなかった。王の誠意と堅実さのように。
ゆらゆらと揺れる炎のような感情の端が、それを嬉しいと感じる。
暫くはこれで、エルやこの“領域”に居る天使たちに、わたしの動きを
気付かれる可能性を大分低くすることが出来るだろう。


 最後の“我儘”を片付けて、あの子を迎えにゆくのだと。
 リリスは計画であるかのように思ったが。
 もう既に静かにずれ始めていたそれは、程無く、深々(しんしん)と。
 それを表す音ひとつも、立てないままに。
 更なる狂いを招いていった。




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