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暫く振りに、最近少し途絶えていた襲撃があり。 王は以前よりも格段に弱っているわたしのために、強い“結界”を常よ りも細心に、わたしと自身以外は立ち入らせない中心部に張り巡らせた 上で拠点の外に出ていた。 このうちにいれば、わたし自身に差し迫った心配は無い。 ただ。 まだ“娘”を取り戻すための具体的な方策は立てられていなかった。 送り出すことは出来たが、同様の逆で“回収”することは難しいのだ。 わたしは、王の身のことも少し案じながらも。 強い王のことよりも、このままでは“歪む異境”となる場に身を置くこ とになるあの子のことが気に掛かってしまう。 あの時は、これが良いと思ったのに。 良いものたちに拾われて、選択の結果と幸運を喜んだのに。 ・・・どうして。 王はわたしを置いて出る前に、自分が居ない時に“狭間”に行っては いけないと、これまでわたしに特に、忠告ではなく何かを“禁じ”たり などしたことがないのに宥めるように“制止”をした。 わたしの様子が不安定なのを、よくわかってくれているのだろう。 心配してくれている。気遣っていてくれる。 でもそれが、旧(ふる)い記憶の底を、引っ掻くように。 鈍く、緩く、ささくれ立つように。 ・・・・自分がおかしいのは、わかっている。 でも、ああ、こうしてじっと耐えていることが出来ないんだ。 他のことを気晴らしにする気にもなれない。 ・・本当に済まなく思う、気持ちを振り切るように。 寝床にしている、わたしの表皮に心地良い柔らかなものが敷き詰められ 王が自身から折り取ってくれた枝と葉が周囲を囲んだ安らげる筈の場所 から降りて、私室を後にした。 “狭間”は、静かだった。 そして、休んでいたので“鎧”は簡略化しごく縮小していたわたしの裸 足の足先が、ふわりとした空間を踏む。 “画面”は全て沈黙していた。 よく眺めると、辺りに薄(うっす)らと王の“力”が漂っている。 残り香のようなものとは違う。 どうやら、王は懸念で、薄布のような遮る“力”をかたちにしたものを 掛けて行ったようだ。 ・・・苦笑のような思いで溜息をつく。 まあ、わたしが来そうなことなど十分に予想が付くか。 “力”に手を伸ばして触れてみると、残る気配の優しい手触りと何時も どおりの清涼な気配に、ささくれ掛けていたものが少し治まる。 王は“見るな”と伝えたわけではなく、“一緒に”と心配してくれてい るのだ。方策を考えるにも独りでは大したことも思いつかないだろうし。 もう一度、今度は王のことを考えて溜息をつく。 こんなところに居ないで、出迎えくらいはすべきだろう。 もう少しもすれば帰ってくるのではないだろうか。 踵を返そうとした。 ・・・ぴしり、と。 音が、した。 何の音か? と振り返る。 周囲に特に新たなものは、無い。 気のせい、か?と思った直後、また。 ぴしり、ぴし・・ぴし・・・・ 何かが“罅割れる”ような音は、“画面”のひとつから発せられていた。 つい先日、あの映像をみたばかりの記憶のある、浅い凹みのある球面 のようにも見える“画面”が。罅が入り、欠け割れ。 砕けて落ちた筈のそれは空間に溶けるように全て消え失せ。 向こう側に落ち込むようにぽっかりと、空虚な円形を晒している。 その更に向こう側には、“空間”の気配が続いていた。 こんな状態は見たことがなく、ある程度“狭間”に関する知識を持って いる王からも聞いたことは無い。 もしかして、“無理”に連続で操作を重ねたのが負荷となったのだろう か。本来は何らかの条件に応じて勝手に映し出したりするだけのものの ようだし。任意であれこれとこの<世界>のうちの離れた場所のものご とを映し出すことのために造られている“鏡”や“目”のようなものでは無 いのだ。 しかし、異変は気になる。 戻ろうとしていたが、一応此処も拠点に繋がっている場所だ。 調べておいたほうがいいのだろうか? 言い訳のような気もするし、王を待ったほうが良いような気もしたが。 わたしは放置して去る気にはなれずに、その向こうを探ってみることに した。 念のために、簡略化していた鎧に“意志”を込め、きちんと全身を覆 い直す。 空間に残されている王の“力”のかたちの端をほんの一寸だけ貰い、肩 布のように肩に纏わせた。こうすれば、枝が置かれているような気にな れるかもしれない。 ひとつ呼吸し、跳躍して円の“縁”に乗った。 ・・・・? 妙な、既視感を感じた。 ・・・・・・。 “上”から見ているので少々違って見えるが。 この、感じ。この、配置はもしかしたら・・・。 思い切って、飛び降りる。 柔らかに受け止められる空間の感触。 方向の規則性がおかしい、“画面”の散らばるそれ。 そして片方に極々薄いものだったが、あの<世界>の気配。 逆方向のような向きには、この<世界>への出口。 ・・・此処は、あの“狭間”だ。 別に、元々此処とあそこが繋がっていたわけではないだろう。 “狭間”同士が余り近くに隣接することは通常無いと聞いている。 多分、わたしに願われた王が決まった“画面”にあの<世界>の接点 を引き寄せ続けたから、その何らかの影響で此処をも引き寄せた。 そういう、気がする。 あの<世界>の側の出口であった筈の場所には幾重もの封印の気配 があり、その外から微かに伝わるものは“天界”とは違う感触がする。 安全のために出入口を遠ざけたのだろうか。それとも“箱庭”のように 更に外側に別の小さな異空間を重ねて作って閉じたのだろうか。 “狭間”自体を消滅させることは意外と面倒であることは王も言ってい た。エルにも難しいことなのかもしれない。 ・・・・ふと。 此処は、拠点の“狭間”よりももっと元の<世界>に近いことに気が付 く。そして此処には出入口があることも。 此処から、“穴を開ける”ことは出来ないのだろうかと考える。 いやしかし、こんな場所に穴を開けたら直ぐに気付かれて目的を達成出 来ないのではないだろうか? でも、そうだ、と思い出す。 以前、“引っ張った”ことで別の“時”への裂け目が開いたことを。 あの要領で、別の場所にもうひとつ“穴”を開けられないだろうか。 “封印”のある場所のほうにも慎重に薄めてから穴を開けて、わざと目 立たせる。気を取られているうちにもう一方からあちらに行って、“娘” を連れて戻るのだ。 そうだ、それならどうにかなるかもしれない。 何となく安堵した気分で、王が戻ったらきちんとこの案を相談しようと 吐息をつく。 そして、先日久方ぶりに目にしたエルの姿を思い出す。 明るい金の髪、白い肌、若々しい快活な容姿。 ・・・かれは、変わらない。 そしてふと、あの場には見えなかった黒い鳥の姿と。 わたしの知らない様子の“天界”に在る“ひと”である<イーノック>とい う青年のことを思い返す。 かれはもう十分に“成人(おとな)”の様子であり、天界で養育されてい る何らかの“ひと”の“子供”では無いだろう。 重要度は兎も角、一応“仕事”も任されている様子だったし。 また全く別の、何かの試みなのだろうか? ・・・・・それは、記憶を曳き起こす思行(しこう)だったのだろうか。 いつか、のように。・・・いや、いつかのようではないように突然に。 “画面”は点灯した。 それは、灰色の石囲いと円状の石畳。 その向こうに透かし見える、何とも付かない色合いの暗い背景。 それだけの、独特の雰囲気はあったものの、硬く古びて磨り減り寂れ、 些(いささ)か殺風景な風景の筈だった。 しかしその石囲いの一柱に凭れて、色彩が在った。 白金と、褐色に、黒青。 華やかではないが目を引くその組み合わせは、脚の輪郭に添った実用 的な黒青の色合いの下衣だけを纏い、足元の靴は長衣の時と変わらな い、壮健そうな青年の姿をしていた。 その双腕の内に大切に守られているような、彼よりも細身の姿。 黒と、白に近い印象のある肌色に、黒。 青年と似たような型のきっちりとした黒い下衣に、薄(うっす)らとそ のうちの輪郭が透けて見える長袖の黒紗の上衣に、黒い靴。 何となく無彩色の地味な組み合わせにも見えそうな様子なのに、それ はもうひとりに遜色なく目を惹いて。 かれは、自分を抱える青年の膝の上に横向きに座って身を寄せる格好 で半身を胸に凭れて、眠っている。 肩を越えて掛かるほどの長さの白金の髪の先が、時折少し俯いて覗う ようにすると胸元の短い黒髪に触れる。それも気に掛かるかのように 首の仕草だけでそっと避け、眠りの深さに変化がなさそうなのを見て 取ってほっとした表情をする。 独りで起きていたら退屈するかもしれないだろう沈黙の時間を、しか し青年は一向に苦にする様子も無かった。 時折自身もつられて眠気を誘われるのか、うとうとと瞼を落とし掛け ることもあるが、かくりと頭が落ちそうになるその度に慌てて、しか し大きく身動きしないように頭を起こしてまた、かれを見守る。 ・・その、繰り返し。 腕の中でたまに少しみじろぎするかれは、居心地は悪くないのか目覚 める気配は無く、暖かなのか鼓動でも聞こえるのか時折その胸に擦り 寄るような仕草を見せる。そして・・幸せそうに、稚(いとけな)いか のように笑んでいて。 その様子を目にしている青年の表情は、微笑ましいものを目にしてい る時の和むような優しい色合いと、その眠りを守り通そうとする使命 感のような生真面目さを漂わせていた。 「・・・・ルシフェル」 静かな中に落ちる、小さな小さな囁き。 大事なものを呼ぶその名に込められる、響き。 眠っていても何となく呼ばれる気配はわかるのか、腕の中のかれがま たもそと動いて、微妙に位置を変える。 それが面白いのか見た目に似合わず可愛らしいとでも思っているのか、 ふ、と満足そうに目を細めた青年は、今度こそ本当に眠気に負けたの か目を閉じて動かなくなる。 ・・・・それから暫くして。 「・・・!! いっ・・・た・・・・・・」 「・・・・!? すっ・・すまな・・・・!」 眠りこけてしまって、腕の輪が緩んで体勢が崩れたところで青年は再 び目を覚ましたが。 かれの背を支えていたほうの片腕は、反射的に落とさないようにと抱 えて肩を引き寄せたものの、急な落差の動きに驚いたかれが身を起こ そうとした弾みで青年の額とかれの頭が衝突したのだ。 先程までおとなしく眠っていた天使は、ご機嫌斜めの様子で。 「・・・・なんでおまえはこうなんだ?」 石頭、とか、間抜けだ、ちょっと本気で見直してやろうと思ったのに ・・とぶつぶつと拗ねたような呟きが続く。 それを見遣って済まなそうに少々情けなさそうに、ぽりと頭を片手の 指先でかいた青年はふと、表情を改めてかれに呼び掛ける。 「ルシフェル」 「・・なんだ」 ぼやくのを止めたかれが向き直る。 「もう、寒くないか?」 「・・・・。 ああ」 自分の感覚を確かめるような仕草をしてから、頷きが返る。 「もう、平気そうだ」 「そうか・・」 良かった、と真っ直ぐに笑ったその嬉しそうな表情に。 「・・・・・・。 助かった」 一言だけ。そっぽを向いて。 しかしその耳先がほんのりと紅色を覗かせていたので。 青年は、それでも心底嬉しそうに。 「・・良かった」 ともう一度口にして、明るく笑った。 平和な、光景だった。 優しく暖かな、思い遣りと親しいものへの感情。 素直になりきれないような照れと、それでも滲む好意と感謝。 その空気の及ぶ風景が、柔らかな色彩を帯びるような。 だが。 わたしは何か、信じられないものを目にしたような気がして。硬直した。 ルシフェル、が。 エルではないもの、と。 ・・・こんなに親しく近しい位置に在れる、というのか? 眉を顰めて、以前に覚えがあるように“繰り返す”その風景を見直し た。 ・・・・。見間違い、などではない。思い込み、でもきっとない。 何、なんだ。この状況は。 エルは、これを了承しているというのだろうか? あの、どこか寂しそうな気配が記憶を掠めて、次に以前“画面”で目に した幸せそうな眠る前の顔を思い出した。 ・・・・・・・。 わたしは、<エル>が好きなのが<ルシフェル>だったからこそ諦めた というのに。 <ルシフェル>は、何故、今になって。 よりによって“ひと”を選んでこんなに親しくしているのだろうか。 ・・・・・・何か、妙に腹が立つ。 理不尽であることは承知しているのだが。 “好き”であるかどうかや、どのようにそれを示すかなど、わたしが自 身を制御出来なかったように、理屈だの都合だの何だのでどうにかなる ようなものではないというのに。 大きく首を振って振り払おうとする。 ・・・もう止めよう! これに囚われるのはうんざりなんだ。 もう、“過去”のことの筈なのに。 “画面”に背を向ける。 “繰り返し”続けるだろうそれに、用は無い。 が。 向き直った先の“画面”が黒白のざらつきに覆われる。 音声だけが、そこから零れ出た。 抑えたような声音の、遣り取り。 聴き覚えのある、声。 間違えようも無い、ふたつの、声。 「・・・・・。 それでも、あの子が進むというなら ・・ついていってくれるか?」 「・・・。 私が、君の本気の頼みを断れないことは わかりきっていることだろう?」 ぷつりと。 繰り返さず。それは、途切れた。 だが。 わたしには、それが全ての答えのように、聞こえた。 エル。 やはりあの議会の風景は。 “わかっていた”上で進められた“遣り取り”だったのか? 生真面目そうな、哀れな“ひと”の子。 掌の上で踊らされて。 “地上”は、イヴとアダムの子供たちが暮らす場所だというのに。 また、ダメだったからと。 あなたはやり直すのか。 わたしを“いなくなったもの”だとイヴに語ったように。 形骸として、ただ過ぎ去ったものとして打ち捨てて。 そしてまた、“地上”という“箱庭”すら。 多くの存在を同じように、そうするというのか。 ルシフェル。 どうして、エルを止めないのだ。 選択をよりよく導くために、傍らに在るのではないのか? そのために、時を渡り、操ることすら出来るのではないのか。 どうして。 何故、繰り返す? 先を、以前を見ることが出来るのに。 また別の形で、絶望を・・ 続く“ひと”の子たちにも与えようとするのか。 何度でも、繰り返すとでもいうのか。 まさか。 そして、イーノック。 愚かな“ひと”の子。 おまえが信じている<神>というものの行うそれが。 子供の遊びのようなものだと、わからないのか。 おまえが大切に想っている黒い鳥が、幻とまやかしを手にしたものだと いうことに、気が付かないのか。 足跡が、そこにあるのだ。 それは行きだけで、戻ることはない。 断崖から堕ちる前に、目を醒ますがいい。 ・・・“狭間”が何故あんなものをわたしに見せたのかと。 <異界>の、卵を得るまでの孤独の時間に悩んだこともあった。 知らなくても破綻は免れなかったろうけど、もう少し別の形もあったの ではないかという、一縷の希望のようなものを捨て切れなかったからだ。 だが。 今は、“狭間”は“真実”を差し出していただけなのだと思う。 色々なものを、勘違いして過ごしていたわたしに。 そして。 今もまた、知りたいと思ったものを示してくれる。 ・・・・・。 もう、形振(なりふ)り構ってはいられない。 あの<世界>。 もう時を経て、イヴもアダムも居ないだろう場所から。 あの子を取り返さなければ、間に合わなくなってしまう! わたしの今あるものを、残り少ない全てを使ってでも。 ・・・王、済まない。 わたしを綺麗だと伝えて、枝を伸べて、ずっと優しくしてくれたのに。 きっと予定されている期限よりも早く、わたしはあなたを置いて消える。 嘆かれるとわかっているのに、薄情なことだ。 わたしこそが、きっとなにより酷いのかもしれない。 清涼な聖域をこの混沌のうちに創り出す稀なる王を、そのささやかな、 “少しでも長く”という願いを袖にするなど。 我儘だとわかってはいるが、無事に連れ帰れたら。 あの子をどうか、護ってやってほしい。 ・・・あの子は今でも、この<世界>の大気か何かに適性が無いのだ ろうか。 それが、今とても心配、だ。 ・・・・。 王がずっと、わたしごと包んできっとそれと知らずに・・ いや、此処に来た時からみていたなら知っていたのかもしれないけれど。 ずっと、わたしの手に添えて抑えていてくれた“蓋”を、開けよう。 わたしが、出来得ることならイヴに褒めてもらった自分を、息絶えるま でこれ以上変えないようにしようと。 王が“綺麗”だと伝えてくれたのはきっと、“ひと”のように視覚に多くを 頼ってものをみていないいきものにとっては、それ以外のことも多いの だからと。 変えたくない、変わりたくないと。 このままで居たいという思いで、保ち続けた。 だけど。 “力”の一端と共に封じていた“あの結晶”を、解き放とう。 きっと、程なくわたしは変わってしまうけれど。 王がわたしの王であることと、あの子のことだけは・・・ 絶対に忘れない。 “救けよう”。 そして、王の手に届けることが出来るまで、わたしは倒れたりしない。 “封印”であってくれたあなたたちを、愛している。 *** 戻ってきた王が、リリスの気配を探して“狭間”に降りたときには。 もう罅割れ壊れていた筈の“画面”は再生しぴたりと閉じていた。 その向こうに途絶えた微かな痕跡と、もう“遠く”に感じる大切なもの の変容が。 そしてそれでもなお、見失うことはない“個”の強い意志の気配に。 王は、諦めようとはしなかった。 “力”が大きく、この<世界>の“存在”の大きな要素の一角である王 は、そう簡単に<異界>への干渉は出来ない。 それでも。 まだ、何か助けになれはしないかと。 きっとあの子のために向かったのだと。 長く感じ続けた、あの剛(つよ)く、また薄く柔らかなものが重なってい るような、とても複雑な“心”という名で呼ぶらしいものを。 それを身に宿すもののために。 王は、出来得ることを模索する。 6頁← →4頁 |
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