・・・・・・。
何故。
なぜ、わたしは今、このようなものを目にしているのだろう?
何故。
なにゆえ・・なのか。
 気遣うように支えてくれる王の枝を、やや遠いように感じる程。
わたしは呆然としていた。



 最初は只、もう少しだけ“先”を見られたらという我儘で、王に少し
だけ無理を承知で数年分“先”の時間に照準を絞って貰ったのだ。

 彼らがひっそりと暮らしている山里とは全く違う様子の、開けた場所
の多い土地にある大きな“集落”に、“娘”は保護者の片方である“隠
れ里”の“長老”(というらしい。年配の責任者のことだ)の“男性”と、
いつも面倒を見てくれている“少年”と一緒に別の土地の様子を見に来
ている様子だった。
大分幼さが薄れてきて背丈も手足も伸びた“少女”となっているものの、
相変わらず元気に、おとなしい少年を時折遠慮無く振り回している様子
の“娘”は見知らぬ場所で流石に気疲れしたのか、並んで少し座って休
んでいた。
そのふたりが腰を下ろしている向こうに、妙なものが遠くちらりと見え
たので“視点”を動かして貰ったところ・・・“塔”があった。
“時”が遠いためかぼんやりと霞む“画面”の端には、“異容”を誇る
ように聳え立つ“塔”が存在している。その頂から空を覆い尽くすよう
に全方向にくまなく伸びている奇妙な“幕”のようなもの。
・・・明らかにその周囲と、幕に覆われた範囲を徐々に変容させ、歪
(ひず)ませるもの。
なんだこれは、という強い危機感を覚える。
この混沌の強い<異界>であればまだしも、これまで目にしている限り
のあの<世界>の“地上”に、これは・・・・“不似合い”だ。
王を急かすように頼んで、更にもう少し“先”の時に照準を変えてもら
う。更なる無理のためか歪みの影響か、先刻よりももっと霞掛かったよ
うな風景となったそれは、前のものよりも更に“異質”な風景となって
いた。周囲の歪みも変容も進行し、大気の様子も見渡す限りの<世界>
の様子もおかしい。
・・・一体、何が起きたというのか。
 ふと、エルのことを強く思い出す。
エル。エルは<管理者>の筈だ。・・かれに何かあったというのか?
数々の旧(ふる)い記憶が引き出されるように蘇り、それに重ねて“娘”
が暮らしているあの<世界>の事情を知りたいという強烈な欲求が沸
き起こる。
肩に乗せられている王の枝を無意識に掴み、わたしの“力”と“願い”
を振り絞るように“乗せて”、“エル”に照準を向けた。
無断で強引なことをしたにも関わらずに王はわたしのそれを妨げようと
はせず、補助するように方向を合わせてくれる。
今見たばかりのものよりも少しだけ“前”だと思い、手繰る。
そして、それは予想もしていなかったものを映し出した。


  「・・・・・・待って、く・・
 お待ち下さい!」
 低く、掠れるように消えかけた語尾が。
 突然、上向いて強く、その円形の広い部屋に響き渡った。
 けして荒立てられた声ではない。
 だが抑えられた印象で尚、明瞭にそれは音というかたちとして届く。
 さわり、と騒めきのように席についている面々の身動きを辺りの空気
 が伝えるのも構わないかのように、声の主(ぬし)は、真っ直ぐに向け
 たその声と眼差しを、彼の座していた席の更に中央に向ける。
 円形の特殊な集会場らしき場は、外周に近い部分が椀の内側状の緩い
 斜面となっていて、落ち着いた茶の色彩の木造のように見える沢山の
 席が設けられている。周囲から降りてゆける何本かの通路の先、中央
 には同様な材質の平らな円状の床があり、中心にある少し高くなった
 円台の上のひとつの席と、それを取り巻く幾つかの席と卓がある。
 中央部の補佐席だろうひとつについていた白いやや波打った長い髪と
 黒い肌に、一塊のように見える白銀の眼と紋様の目立つ天使が、そち
 らに目を遣る。
 「・・イーノック」
 ほんの少しの間を置いて、たしなめるかのように掛けられた冷静な色
 味の声音に、記録者の席なのだろう紙と筆記用具が置かれた卓を前に
 していた青年は、そちらに目を遣り微かに目礼のような仕草を見せて
 から立ち上がる。
 この席にいる間は殆どの間ずっと手にしていなければならないだろう
 筆記具である羽ペンは、既に先程から半ば取り落とされるようにして
 机上に平坦に置かれたままだった。
 片目に付けていた円状の金属の縁のついた、透明なものが嵌められた
 器具を外して卓上に置いたその顔は、席から外れて床に立った身体と
 共に、真央(しんおう)の主座に向けられていた。
 其処に座す姿が、徐(おもむろ)に口を開く。
 「発言は“手を挙げて”からだよ、<イーノック>。
 まあ、いいや。
 続きを、どうぞ?」
 普段は、いつも明るく朗らかな様子を見せているだろうかれには見慣
 れない風に、半ば瞼を下ろして、卓の無い大きな椅子だけの席で肘掛
 に片肘で頬杖をつくようにして顔を傾け、淡々と口にする。
 その姿を取り巻き、眼差しに宿る“憂い”。
 細身で快活な若々しい青年の筈の容姿が、その静謐さと身に宿る重み
 のようなものを帯びて、至極年経ているような年齢不詳の雰囲気を醸
 し出している。
 「・・・先程の、議決は。
 本当に“決定”事項なのですか?
 他に、取り得る方策は・・・・・別の手段は、無いのですか?」
 真っ直ぐに、主座のかれの顔に目を遣り。
 よく聞くとほんの微かに震えを抑えているのだろう声が問い掛ける。
  どちらも衣服は大して変わらない。
 造りや型は違うが、白の範囲の差である色合いの以前見慣れた風な長
 衣。
 覗く足元は素足が見える、底部分と、留める丈夫そうな茶色い幅のあ
 る平紐で組まれた簡素な靴。その色合いも多少明暗が違うといえば違
 うが。
 不規則に跳ねた、明るい金の光を宿す短めの髪と。
 肩をやや越える長さに伸ばされた白金の、作業時に俯くと落ちてきて
 邪魔になるのだろう部分をやや無造作に後頭部で括っている髪。
 細身の白い肌の体躯と、かれよりも上背があるだろう褐色の肌と鍛え
 られている厚みと輪郭。
 瞳にある色彩は、沈む黄金と、明るく澄んだ水の緑。
 それが、かれの視線が上げられたことで確かに交差する。
 「・・“君”なら、堕天使とひとの間に“このようなもの”が生まれ
 出るというそれが。
 どれほどの“異常事態”かは、理解できるだろう?
  それに、もう“ネフィリム”の数はかなり多く、大きくなったもの
 が各地で彷徨い周辺にある様々なものを目に入る片端から食べ始めて
 いる。
 生まれたときはとても小さく、一定以上大きくなるまではごくおとな
 しい上に“存在が薄い”こともあって、かれらの動きを全て把握する
 のはとても難しいんだ。
 ・・・かれらは普通の動物がものを口にするように、動くために、身
 体の必要や何らかの一定の充足のために“食べて”いるんじゃない。
 かれらのそれは、“満腹”というものを知らないんだ」
 無限の空腹、永遠の空虚。
 満たされないそれは、かれらを苛む。
 しかしかれらは、それが“かなしい”こともよくわからない。
 忘れっぽく感情は薄く、ひとつごとの保持が難しい。
 自らにもしかしたら親がつけてくれたかもしれない名すら、かれらは
 記憶に留めておくことが出来ない。
 “愛”はかれらの手と身体から、擦り抜けてゆく。
 さびしい。さびしい。
 自らが何を本当に求めているのかも忘れて、かれらは彷徨い、食べ続
 ける。かれら同士で寄り集まってさえも、それは満たされない。
 先程資料としてなのだろう、中空の“画面”に映し出されていた風景
 が、一見かわいらしいとすらいえるかれらの有する悲運と末にもたら
 す災厄を指し示していた。
 「しかし・・!
 それであれば、それを“地上”に伝え。
 降りた“堕天使”と、かれらを回収して隔離するなり・・そういうこ
 とでは、いけないのですか?」
 どれほど数があっても、<神>がその気になれば不可能ではないだろ
 う。天使(みつかい)は数多く、そのうちには戦闘を得手とするものも
 あり、心得のあるものも少なくは無い。向こうの抵抗があろうと、取
 り押さえようと思えば造作は無いだろう。
 そう、周囲に居並ぶ天使の同族ではなく、何故か唯一“ひと”である
 らしい彼は思って言い足し、述べたようなのだが。
 記憶にある天界との違いにわたしは心中で軽く首を傾げたが、つまり、
 わたしがかつて暴れたことで、天は戦闘に関する一定の備えというも
 のの必要性を悟ったのだろうか。勿論、別の要因(こと)かもしれないが。
 「・・・イーノック。
 君はまだ“ここ数年”の情報まで記録作業が辿り着いて居ないから多
 分、実際のところをよくわかっていないのだと思うが。
 現在、ほんの短期間で既に“堕天使”の影響で“地上”はかなりの広
 範囲で大分変容してしまっているんだ。こんな大規模な異常は、過去
 一度も無かった。
 ・・・それに」
 一度切って、ほんの少し俯いた視線が深い溜息を伴って、考えたく無
 いかのような躊躇いが覗いた。
 「・・・・。
 ネフィリムが食べるのは、“何でも”なんだ。
 成長過程の小さめのものならまだいい。
 でも、かなり大きなもので、何かの弾みで“区別”を忘れたものは。
 手に届くものを・・・
 地にある木々や岩や何か、ひとの作る建物、動物・・・・かれらを生
 み出した筈の“堕天使”も“ひと”も・・
  そして、近付けば当然、“天使”も例外ではない」
 「・・・天使(みつかい)を?!
 “食べる”・・というのですか・・・?」
 天使は、<神>の助力者であり、<世界>を動かすその力のうちから
 生まれ出て神とはどこかで繋がっている。かれらが“食べられ”て失わ
 れるということは、神の一部がもぎ取られるにも等しい。
 そのことはわたしも理解できる。
 やっとその事態に想像が追いついたのか、彼の顔が無表情に近いよう
 に変わり強張った。恐怖、を覚えたのかもしれない。
 此処に席が在るということは、天上に暮らし、天使たちの間でかれら
 を目にして過ごしているのだろう青年にはある程度具体的に思い描く
 ことが可能なのだろう。
 「・・・・」
 絶句した様子の彼に、主座のかれは微かに微笑んで続けた。
 「・・・それに。
 この“異常”のそもそもの発端である、“集団降下”は君も覚えてい
 るだろう?
 ・・これ以上、私は“力を削がれる”わけにはいかないんだ」
 通常は稀に個で行われるのが普通である“堕天”が、纏まった数で大
 規模に発生したのはほんの“数年”前のことなのだという。
 思い返させるように言葉は続いて、沈んだように終わる。
 やや俯いて何事かひたすら考えているようだった“ひと”の青年が、
 顔を上げた。
 「・・・・では、何故。
 全てをそれ以前に・・
 ルシフェル、の力で“巻き戻す”選択肢は・・
 考慮の内に、入らないのですか?」
 今度こそ、ざわり、とはっきりとした騒めきが、どうやら話し合いに
 使われるための場であるらしい室内を漣のように渡ってゆく。
 その名で呼ばれる最上級天使と、この“ひと”の青年が親しくしてい
 ること自体は天界ではどうやら周知の事実のようだったが。
 その特別な天使だけが持つ力の具体的な点については、全てが全容を
 承知しているわけではないようだ。ざわざわと、知っているのだろう
 ものと知らなかったのだろうものが混ざり合って空気を埋める。
 「・・・ルシが、君に教えたの?
 自分がそれを“出来る”って」
 半眼よりも低く瞼を伏せた主座のかれが青年に問い掛ける。
 曖昧な表情は、それをどう思っているのかの感情が掴み難い。
 青年は、生真面目な緊張した面持ちで頷いた。
 「・・・・“影響”のことなど色々あって、大きな事態には逆に簡単
 には“選択”しにくいのだと。
 一度きり、土産に関する雑談の何かの折だったと思うのですが・・そ
 う、説明していただきました。
 だから私も、“かれが時を渡って移動出来る”という以上のことは、
 よく知りません。
 ・・・ですが」
 一度切った言葉を、もう一度開いた口で継ぐ。
 「“集団降下”が起きる前に戻し、対策措置を行えば・・
 解決、するには至らなくても緩和、というわけには・・・いかないの
 ですか?」
 それなりに顔見知りだった天使も居なくなった“集団降下”の記憶は
 自分もはっきりと覚えているのだと、独白のように彼は呟いてから改
 めて主座を見遣った。
 「・・・勿論、単に“前”に戻したところで。
 “降下”に関わる要因はそれぞれで、もっともっと長く以前に渡るこ
 とだとしたら、かれらの心の内自体は解決しないでしょう。
 ですが、その前に話を聞いたり、別の手段を提案したりすることは」
 出来ないのですか?と、僅かに苦しいかのように胸を片手で押さえた
 青年は<神>である主(あるじ)に語り掛ける。
 真摯に、静かな切望を込めて。
 その眼差しに、瞳を上げた青年の姿の神は同様に真っ直ぐに視線を返
 した。
 「・・・・。
 うん。
 そう出来たら、もしかしたら良かったんだけど。
 ・・・ダメなんだ。
 私の“予見”は、それを“選ぶ”ことをよしとしなかった」
 再び、場内が騒めく。
 これは知る知らないではなく、その内容の“予見”の存在に関するも
 ののようだ。
 書記を務めるひとの青年は、わたしは聞いたことが無かった“予見”
 というもの自体のことはある程度正確に知っているらしかった。
 尋ね返すことはせず、そうなのですか、と俯いて。
 沈んだ面持ちで溜息をついた。
 そして、暫し、目を閉じて黙考している風だった。
 それから、瞼が上がり、間を置いて顔が上げられる。
 数呼吸の後、彼の口からはこんな嘆願が零れ出た。
 「では・・・・
 お願いです。
 私に、何か直接それに関わる、出来ることをさせて下さいませんか?
 何もしないままで、このまま“地上”の全てが失われるのを情報とし
 て目にすることになるのは、とても耐えられそうにありません」
 ざわざわざわ、と議場の静まりかけていたざわめきが大きくなる。
 それに初めて片手を挙げることで騒めきを抑え、主座のかれが尋ね返
 す。
 「・・・君に、何か、出来ることがあると思うかい?
 <神>と天使が、手をこまねいて“洪水”という“再始動(リスタート)”
 を選んだことについて」
 青年は、目を伏せて言う。
 「・・・・・わかりません。
 出来ることなど、何も無いのかもしれません。
 ただ、ただ・・・。
 そうなってしまうことを考えると、いてもたっても居られない気持ち
 なのです」
 抑えた表情の内で、痛みを感じているような瞳の色が揺らぐ。
 今にも涙が零れそうな気もする豊かな水の彩りをしているのに、頬は
 濡れることはなく乾いたままで、口元まで張り詰めていた。
 「・・・君は、“天の書記”だよ。
 その仕事は、どうするの」
 優しいような口調で尋ねたそれに、
 「・・・・。
 私のやっていることは、“私”でなくとも可能なことだと思うのです。
 いえ、不満だとかこの仕事では嫌だとか、そんなことはけしてありま
 せん。天上(ここ)へ喚(よ)んでいただいてから、これまでずっと務め
 ていることに、自分なりの自負もあります。
 ・・・・けれど、私ひとりに出来ることは、かれのように“必須”な
 ものとは違う、のではないかと」
 ラジエルとは、と補佐席の白い髪の天使のほうを見遣る。
 それにその天使は溜息のようなものだけを返した。
 「・・・。
 それは、“我儘”だとは思わないか?
 イーノック」
 無感情に聞こえる声が、主座から彼に届く。
 青年は、俯いたまま。
 「・・・・・わかって、います。
 <神>と天の決定に“異を唱える”など。
 ・・・直轄とはいえ、星ひとつに傾注して、万に一つも<世界>と、
 それを守る貴方(かみ)の身に真の奇禍を招くようなことも。
 ・・あってはならないと。
 わかって、います。
 
 ただ、ただ・・・・私はっ
 あの“場所(こきょう)”の風景を、記憶を・・
 思い、切れないのです」
 涙が、零れる。
 堪(こら)えきれずに吐き出すような小さな叫びと共に、溢れた水の欠
 片が床に落ちて微かに煌きを散らし、跡形も無く消えた。
 「・・・こんなことを、口にしてしまって、許されるものでは無いと
 思います。
 ですが・・・・。
 私は、今、自分が何故“此処(てん)”に居るのか。
 わからないような、そんな気分、なのです・・」
 瞳が、暗く、翳る。
 水の緑の色彩は瞼の内に閉ざされ。
 騒めきが何時の間にか途絶え、しんと静まり返った場内。
 十か二十も呼吸する間だったろうか。
 暫く後、主座のかれが立ち上がって、書記官席の脇で微かに肩を震わ
 せ涙を零し続けている青年のもとに歩み寄った。
 「・・・・
 <イーノック>」
 ほんの二歩ほど置くだけの間近で静かに呼ばれた声に、弾(はじ)かれ
 たように顔が上がり。天の主(あるじ)の顔を見詰めた。
 涙に濡れた頬で、瞳がそれを払うように瞬く。
 「・・・・・。
 “我儘”だなんて、“冗談”だよ」
 柔らかに、優しく、黄金の眸が和むように微笑んだ。
 暖かな気配が、青年を包み込むように広がるのがわかる。
 「・・・君が、思い切れないのなんて、当たり前だ。
 だって君は、“地上(あのばしょ)”で育って、あの場所から君が選ん
 だんで無く“此処(てん)”に来たんだもの」
 右手が伸びて、白い指先がそっと頬を拭った。
 そして、先程とは少し別の、強さをみせる笑みが浮かぶ。
 「・・・・では。
 私の“我儘”をきいて貰おうか、イーノック。
 
 ・・君に、<神>の名に於いて
          『七名の堕天使の魂の回収』を命じる」
 驚いたように瞠られた緑の眸に、沈む黄金の彩(いろ)が細められて、
 何処か“猫”のように不思議な気配を湛えて笑んだ。
 「・・・私、が?」
 想像もしていなかった言葉だったのか零れていた涙を止めて、彼は目
 の前の、自分よりも頭ひとつ分近い程低い背の顔を眺めた。
 「・・・・君に、“猶予”を与えるよ。
 “洪水”を“実際に選択”する前に、“地上”の“状況”に私や天使
 の・・・“天の意思”によるものでは無い“変化”を起こしてくれ。
 ・・それによって、何かが変わるかもしれない」
 とりあえず、“七人”をどうにかするのが最低条件だよ、と続けられ
 る。
 「・・・だけど、どうにもならないかもしれない。
 見知っているかもしれない者に、刃を向け。
 君は、遠い此処(てん)からではなく、その場で“水に沈む故郷”を目
 の当たりにしなければならないかも知れない。
 ・・・・・・それでも、行くかい?」
 息を呑んだようだった表情が、決意に変わり、こくり、と頷かれた。
 だが、直後に改めて途方に暮れたような表情になる。
 「・・・あの、行きたいのですが。
 しかし、私に“元天使”のかたと戦うような力は・・全く・・・」
 行ってもそもそも意味がないのでは、と本気で困惑したような様子に、
 明金の短い髪を揺らした青年の姿が可笑しそうに吹き出した。
 「・・いーの・・っく・・・ってば。
 君、“人間に可能な動き”の条件付で手加減されている“規定(ルール)”
 つきの“試合(フェアプレイ)”とはいえ、仮にも中天使と一応まとも
 に格好のついた“対戦”が出来る“ひと”が何を言っているんだ」
 ぷははは、とその上腕をぱしぱしと片手が叩く。
 え、と理解していなさそうな表情で青年はきょとんとしてかれを見返
 す。それにまたひとしきり笑った天主(かみ)は漸くそれを収め、彼の
 腕に手を触れたまま、場内をぐるりと見渡す。
 「どうだろう。
 ・・・良いかな?
 イーノックはずっと、“ひと”でありながら千年にも近いほどの間、
 この天界の私の元で“書記”として勤めてくれていた。
 私も出来れば、折角此処まで育てた筈だった“直轄地”を跡形も無く
 “リセット”してやり直したいというわけじゃない。
 彼を、助け手と共に“地上”に送り、もう少し様子を見る。
 その“猶予”を・・・再決議しても良いだろうか?」
 ざわざわと、再び場内はざわめいたが。
 今度は先程までの戸惑いや哀しむようなものや疑問よりも、明らかに
 賛成を示す色合いのものが空気を染めて広がってゆく。
 「・・・・同意が取れたようだな」
 背後から、補佐役の言葉がごく低く響く。
 それに、ふふん、と少しだけ得意そうに悪戯めいた笑みを、沈む色の
 黄金の瞳と口元にほんの少しの間だけ微かに浮かべて返した天主(か
 み)は。
 まだ事態がいまいち完全に飲み込めていないような“ひと”の青年の
 肩に片手を掛けて引き寄せると、その耳元に囁く。
 「・・ルシと四天使にもついていかせるから、どうして“地上”に降
 りようかとか、まず何からとか、長くなるだろう向こうでどう休むか
 とか、あれこれ細かいことは心配いらないよ。
 君は、自分のやるべき事と“地上(こきょう)”のことを心配すればい
 い」
 え?と再び瞠られた瞳がぱちぱちと瞬きをする。
 ルシフェル・・が?、と。
 呟くようにしたその瞳には、不思議そうなような、嬉しいような、何
 だか突然でどう思っていいのかわからないかのような、混ざり合った
 ものが浮かんでいた。
 それからふと、大きく溜息をついたその身体がぐらついて膝が崩れ掛
 かる。おっと、と隣のかれが腕を掴んで支えようとしたが。
 ほぼ同時に正面に、彼よりは細めだが上背のある白い髪の天使が立つ。
 「一時(いちどき)に負荷が掛かり過ぎだ。
 休ませたほうが良い」
 腕を取って様子を覗き込むそれに主(あるじ)は頷き、
 「・・・こんなに喋ったの、ごく最近じゃ本当に久し振りじゃないの
 かな。
 ・・慌てなくても大丈夫だからね。
 君の準備が出来てから、出発すればいいんだ」
 優しい手つきで額に落ち掛けている髪を撫で上げて、ぽんぽんと背を
 叩いた。それから補佐役の天使の支える手に託す。
 「頼む」
 頷きだけを返して、青年の背を片腕で支えたかれはその場から共にか
 き消えた。
 再びざわざわと、今度はそれぞれ近くのものと雑談を始めたらしい天
 使たちに明金の髪の姿は再び向き直り。
 「さて、これに関してはそこまでだが。
 関連したほかの協議を進めようか」
  補佐官と書記官をその場から欠いてはいたが。
 特に支障は無いかのように再び、“天の会議”は進行を始めた。
 

 懐かしい、エル。
再び目にするなど思ってもみなかった姿に、胸の奥の失った核が痛むよ
うな古びた“愛しさ”だろう感覚を覚えるが。
直ぐに、今目にした光景と様々なものに、疑問と不審を感じた。
あの、“ラジエル”という天使との遣り取りは、何だ?
“イーノック”という青年は、どういう経緯で天に居るのだ。
何かが“あらかじめ決められていること”であるかのような妙な感触が
拭えない。
・・・・・。
エルは一体、何を言っていた?
そして、あの“ひと”の青年が口にした事。
ルシフェルが“時を巻き戻す”ことが出来る?
どういう、ことだ。
 ・・・・それなら、何故。
“わたしは今、此処に居る”?
あれは、誤謬では無いと、そういうことか?
あれ程のことが起きても、それは“大したこと”ではないと。
そう、言うのか。
それとも、それもあの時わたしに示したように“許容範囲内”・・・
・・・・・いや、まさか。
“予想範囲内”だとでも、いうのか?

 旧(ふる)い記憶と今見た“場面”の断片が、軋みを上げて混沌のよう
に思考のうちで散乱し始めた。
王が、落ち着かせようとするように清涼な気配を伝えてくれていること
は認識の範囲にあるのだが、常に心地良い筈のそれはまるであの“蔽布
(おおいぬの)”に遮られているかのように、鈍く、遅く、隔てて感じら
れた。・・・まるで、世界が遠ざかったあの時のようだと、思う。
声を出して確かめる代わりに、その枝の先を探って握り締めた。
王は此処に、傍(そば)に居てくれる。
わたしは、“此処まで辿り着いた筈だ”。
そうだ、間違ってなんかいないのは当たり前だ。
だから、これで、いいんだ。
かれらがどういうつもりだろうと、関係ない。

・・・・だが、“娘”は。
あの子はもう、あそこには置いておけない。
心配で、仕方が無いのだ。
王にそれを訴えると、それなら一緒に、一先ず“此処に帰す”算段をし
ようと伝えて寄越し、落ち着かせるように数本の枝にいつもよりも沢山
繁らせた葉で、わたしの身体を包み込むように抱え上げてくれた。
あの樹脂が漂わせていたような、仄かに甘く優しい幾重にも重なるよう
な不思議な香りが王の身体から発せられる。
・・・・。
少しだけ、幼い“娘”が透明な殻の内から笑いかけてくれていた時のこ
とを思い出して気持ちが安定するような気がする。
王は、いつもわたしに優しい。
樹に似ているからだろうか。それともそういう“個”だからだろうか。
いや、わたしをそれほど気に入ってくれているのだろうか。
 抱えられたまま“狭間”から歪む亀裂を抜けて今のわたしの<世界>
に戻った。わたしの数倍の丈がある王が出入りできるように造られてい
た通路をそのまま遠ざかり後にする。このまま此処に居たらわたしが落
ち着くことは出来ないと判断したのだろう。
少しだけ眠りたいと伝えて、了承を受け取って意識を沈める。

 ・・・・ああ、平穏というものは、いつも突然に。
思いもかけない形で、破られるものなのだろうか。




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