<異界>に渡ったリリスは、見も知らぬ異質な混沌の環境で生き延び
た。新たに生んだひとつの卵を護るために襲い来る様々なものと戦い続
ける。日々は時間の概念すら忘れさせ、どれくらい経つのかも時折全く
わからなくなる。
卵はリリスの纏う鎧のような光沢のとても丈夫な黒い殻を持ち、その内
には確かに生命が息衝いていたが、中々孵る様子を見せなかった。
安全が確保されないから出て来ないのだろうかと考え当たったリリスは、
その生き残りの知恵のようなものを我が子が有していることには感心し
たが、このままでは何時までも“子”と顔を合わせることが出来ず、自
分もどれほど独りで保(も)つものか・・と焦燥を抱いていた。
自分が力尽きることがあれば、“卵”から孵らざるを得ないか、または
そのまま“休眠”しつづけるしかないかもしれないと、危惧を覚えた。
その、折に。
リリスはこの混沌の<異界>で“王”と呼べるだろう幾つかの存在のう
ちのひとつ、と出逢った。

 別に何かを特に群れ集いて率いているというわけではないのだが。周
囲の存在が畏れを抱く程際立つそれは、“王”だった。
こちらからも存在することは知っていたが、向こうのほうはもう随分以
前からリリスに気を留めていてずっと様子を見ていたのだという。
“かれ”・・・といっていいのかどうかもわからない“それ”は、リリ
スの有する概念のうちでは、“樹”によく似ていた。
しかしそれは樹のようでありながらリリスの知る動物のように自由に動
き、大きな“力”と優れた“個”としての思考力をも持っていた。
どことなく“ひと”の似姿のようにも見える、胴体とそれから分かれた
腕のような幾本もの枝の手と根の足。
“樹の王”はとても強い“力”を有していたが自ら争いを仕掛けること
は好まず、気に入っている場所に“拠点”を築き、仕掛けてくるものに
は容赦はしなかったが逃げれば必要以上に追わず。それ以外ではごく
“穏当に”過ごしているという“噂”だった。
 王は、思念の波を形にしてリリスに語りかけた。
リリスがこの世界にやってきた時にふと気を惹かれて眺めてから、ずっ
と時折気配を有無や様子を辿っていたのだと。
強く輝くそれはとても“綺麗”だが、独りでは大変そうで最近重さのよ
うなものを帯びているのを感じていて気になっていた。
よかったら自分と一緒にこの拠点に留まらないかと。
そうすれば、その“卵”も出て来られるだろうと、大切に鎧の内側に護
っているものをそっと、枝のような手(?)の先で指し示した。
緑の“葉”のようなものも頭上(?)と枝の一部に有して、緑色の“幹”
のような表皮をしているそれは、本当に“樹”のようだった。
害意無く寄るものを肯定しようとするような、清涼で確かな逞しい鼓動
のようなものが伝わる。その気配は懐かしい“温かみ”のようで。
この拠点の内に留まることを許されている、無害でちいさないきものや
朧で弱い存在がそこかしこから、新たに現れたリリスを覗っている。
それに警戒や拒否は感じられない。この“領域”に宿る静かな“許容”
と同じように。
元々は植物に親しいように創られたものだったリリスにとって、それは
とても好ましいものとして感じられた。
王から向けられるそれは、木々のもつ、多くをそのままに肯定する風情
を有しつつも、リリスという“個”に向けての“特別”な関心も、樹のような
それよりも大分小さな“ひと”の姿を包むように向けられている。
 リリスは警戒していた構えを解き、少々躊躇ってから王に片腕を差し
伸ばした。その指先にそっと、枝先に新たに現れた葉のようなものがご
く優しく触れる。
そうして、リリスは“王の伴侶”となる選択をした。
 王は樹のようなものであり、リリス同様に“単体”で“子”を生み出
すことが可能ないきものだった。小さな特別な“子株”のようなものが
分かれて独立し、長い長い時間を掛けて徐々に育ってゆくのだというそ
のとても気の長い成長を目にして不思議そうにどこか懐かしそうにする
リリスに、王は“微笑む”ような気配を投げ掛ける。
王は、リリス自身だけではなく、リリスの卵にも“気”と“力”を分け
てくれた。
漸く孵ったそれは余りリリスには似ていなかったが、元気そうで、それ
が育って自分に懐いてくれる様子に満足した。

 この<世界>は時間の流れというものが“一定”ではないのだと王に
拠点を案内された折に教えられた。どうやら、元の<世界>とは少々
“時間”という存在や概念そのものも異質であるのかもしれない。
王の拠点は“王にとって心地良い場所”にあり、“時の流れ”は澱むこ
となくごく緩やかに流れている。
過ごすにも子を育てるにも悪くない、王の発する緑の気配が其処此処に
満ちているその“領域”で、リリスは久し振りに安心を感じて過ごし、
次第に落ち着いていった。
勿論、時折の襲撃には王と共に、その助力をしようと小回りの利く体躯
と能力を生かして戦うこともあったが。
自在に大分離れた場所まで根を“空間を越えて”伸ばしたり、独特の
“力の波”を組み上げて様々に働かせたりと、拠点を護るために戦う王
と肩を並べるようにするのは、独りで天界を走った時や、自身と卵のた
めだけに戦い続けていた時とは全く違う感覚だった。
“此処”は今のわたしの“家”で、王と子と共に此処に少しでも長く在
るために、穏やかな遣り取りの時間を護るために戦おうと。


 それからどれほどかわからない時間が経ち、王の力を受けたリリスの
子は無事に成長し、独り立ちを試みて<世界>を巡ってみるのだと旅に
出掛けた。
そして気に入った場所を見つけたと告げに一旦帰ってきてから移り住み、
王やリリスとは良好な関係を保ったまま別の“個”の存在としての位置
を確立している。それにもリリスは満足した。
元々のものとは色々と違うが、きっとこれもわたしが求めていたことな
んだと。
 王はいつも優しく、肩(?)や頭や枝にリリスを乗せては拠点のあちこ
ちをゆっくりと歩きながら、自身のことや知っている様々な事柄を伝え
たり、この<世界>に関する知識を分けてくれたり、時には色々なもの
を見に拠点の遠い外にも連れ立って案内してくれた。
リリスが生んで孵した卵はこれまであのひとつだけだったが、無事に育
て上げたという自負と満足、子は別の場所だけれど無事に過ごしていて、
王が変わらずに共に居てくれることで寂しいとは思わなかった。一族を
築き上げることは出来なかったけれども、わたしはこれで十分だと。
リリスは“幸せ”だった。



 ある日、拠点から繋がる地下深くで、リリスはひとつの空間を見付け
た。それは・・覚えのある気配を有している。
“歪む亀裂”
王を呼び尋ねると、狭くてそこまで入れないので根の先と枝先を器用に
伸ばして“触覚”のように使い、その気配を探って必要な点を指し示し
ながら説明してくれた。
“狭間”とでもいうべきそれは、空間や<世界>の“隙間”に生じる。
限定され不規則なそれは“時間”“空間”“記憶”・・様々なものの断
片を閉じ込め、繋ぎ、映し出す。
“狭間”によって有する要素はある程度違うようだったが、新たに目に
したそれは以前のものと一見の様相は似ていた。
ただ其処にはあの以前見た場所ほどの捩れた不規則感は少なく、上下左
右の方向もきちんと定まっているような安定感があった。
それでも旧(ふる)い記憶を呼び覚まされ少し溜息をついたリリスに、王
が心配そうにするのに、わたしはこういうような場所を通ってやってきたの
というと、頷いた。王がひとつの枝先をリリスの肩に触れ、別の枝先を中
空に差し伸べて“意思”を込めると、何も映っていなかった“画面”が灯る。
そこに映し出されたのは、多少ぼんやりとしてはいたが元の<世界>の
“地上”の風景だった。


 ふたりの“ひと”が駆け回る小さな“子”を気をつけるようにたしな
 めながら別のもっと小さな“毛皮”に覆われた動物と一緒に茶色の草
 原を歩いている。その大きなほうの“ひと”のうちに見覚えのある顔
 があった。
 赤味がかった仄かに輝きを帯びる表皮、白に近い淡い金の髪、甘い黄
 緑の若草の眸。あのときとは大分様子は変わっていたが、それは健康
 そうに成長した<イヴ>の姿だった。
 一緒に居るものは<アダム>だろうか。白い表皮に濃茶色の渦巻く柔
 らかそうな髪。独特の色彩の茶色の眸。イヴよりもやや大きい体躯。
 温かみのある気配に、“かれら”の周囲にある安心のような雰囲気に
 安堵の感情を覚える。
 新しい<アダム>はイヴにとって良いものだった。
 きっと、早めたあれも間違ってはいなかったのだ。
 

満足して王に頷くと枝が肩から離れ、輪郭が滲んだようではあったが色
彩豊かだった風景は、“画面”が光を失うと共に消えた。
感謝を伝えると。王はこの“狭間”やこの<世界>から元の<世界>は
おそらく少々“遠い”から映し出すためには集中と力、そしてそれに関わ
る“媒体”が必要なのだとリリスを指し示した。見たいのであればまた力
を添える、と申し出てくれたがリリスは首を振った。
二度と会えない筈だったものを、もう一度見られた。
幸せそうなのであれば、それでいい。その記憶だけでいい。
リリスは変わらずに、幸せだった。



***



 ところが。
リリスが、新たな“卵”を生んだときから不安が生じた。
身の内に宿っている時にも何かが違うなとは思っていた。
・・・けれども。
実際に、手にしてみると流石に驚愕のようなものを覚えて目を疑った。
ほんの僅かに淡く紫に煙るようなその“透明”の真球の、掌の窪みに収
まるような殻の内に眠っているまだとても小さくごく幼いものは・・・。
自分が“創られた”時と似たようでそれをそのままとても縮小したよう
な“形状”ではあったが。
殻越しに慎重に丁寧にくまなく様子を探ってみると、どうみても。
あの時新しい“箱庭”で目にした<イヴ>と同種の“ひと”だった。
しかも、あの不思議な“稼動前”の構造もそっくりで、目眩(めまい)が
する程の既視感に襲われて。とても可愛らしい子を宿した綺麗な卵を得
たのだという喜びにも気付くのが遅れたくらい暫く呆然とした。
脈動する生命力に満ちてはいるが、脆く儚く優しい、この<異界>では
ひとりで生きることはきっと出来ない存在。
困ったリリスは王に相談したが、リリスのものだけではなく王の“気”
や“力”もその新しい卵は“強化”や“変異”のような“変化”として
受け付けようとはしなかった。ただ育つための“糧”として吸収し、そ
の殻と共に徐々に、手足の長さや背丈や印象を変えたりはせずに。縮
小されていたようなその“大きさだけ”を増して成長してゆく。
・・・それはまるで、話に聞いていた“天使の卵”に似せた内に、新た
な“ひと”を封じ込めたかのような・・“存在しない筈のもの”。
更に、王が巨躯に見合わぬような気も時折しないでもない、そのとても
繊細で器用な感覚で精査してくれた結果、イヴとは違って、その“稼動
前”の仕組みを動かすものらしい“鍵”のようなものすらも内包してい
るという。
まさかこれは・・・。
あの時ほんの少し、一口だけ齧った“実”がまだ何処かに何らかの形で
残っていて、“狭間”で目にした新たなイヴの記憶に誘発されて。
わたしのかつての“想い”を、実際に顕現したとでもいうのだろうか。

 リリスは悩んだ。
一先ずはエネルギーやそれに類するものを、糧としてよく選んで与えれ
ばこの子は“生きて”いることは出来るだろう。・・だけれど。
このまま此処で孵っても、この子は拠点の外に出ることが出来るかどう
かすら危うい。この<世界>への“適性”はあるのだろうか?
余り・・・あるとは思えない。仮に問題が無かったとしても、ひとりで
戦って生き延びることが出来るとは思えなかった。
わたしには王が居るし、十分に成長して後も暫くは護ってあげられるだ
ろうが・・自身の寿命もわからず、王もその“力”の盛期も永遠ではな
く、この<世界>でいつまでこの拠点を維持しし続けられるかはわから
ない。先の子がもしも面倒を引き受けてくれたとしても、王ほど強くは
無いあの子に弱点となり得る“負荷”を預けるのは酷なことだ。
 卵が大きくなってくると、まだ“孵って”はいないというのにその
“子”は殻のうちで時折目を開けるようになった。
殻の色を映したような白っぽい淡い紫を帯びた髪、薄水翠の眸、対比の
ような暗色の褐色の肌。
小さな手を動かして、その瞳が覗き込むリリスや王を捉えている様子で
よく動き、そのうちに見覚えたのか“喜んで”“笑う”ようになった。
時には自分が幼かった頃と同じように、関心を引こうとするように“構
え”と催促するようにほかのものを目にしたいとでもいうように身動き。
柔らかな置き場所の上で透明な球体である殻を向きを変えて動かそうと
するのか、じたじたと手足を動かす。ごくたまには“不機嫌”な様子を
見せることもあった。
それに不思議な感慨のようなものを抱くリリスに、リリスに似たかたち
の小さなそれに“可愛らしい”というような感嘆と喜びのようなものを
投げ掛ける王。こんな状況も悪いものでは無かったが。
殻のうちで育つ“子”が、その姿の印象は変えることなく、丁度リリス
が創られた時分の、両腕の内に抱えるのが安定して丁度良いほどの“大
きさ”になった頃。
まだいまいち何を言おうとしているのかわからないが、リリスの語る言
葉を音にして真似ようとし始めて間も無く、リリスは決心した。
どうにかしてあの<世界>にこの子を送り届けようと。
イヴとこれほど似たようないきものなのだから、きっと少しばかり違う
ところがもしあっても気にされるほどでは無いだろうと思う。
ある程度動けるのに未だに殻を割ろうとしないのは、此処の環境が合わ
ないと、かつての先の子のように本能で周囲を察知しているのだろうか
と。おそらく、あちらの<世界>にゆけば殻から出て来る筈だ。
大半の仕組みと共に沈黙したままの“鍵”もきっとその時に、本来この
子にふさわしいはずのあちらに行けば働いて、その動きを目醒めさせる
だろう。

 王に考えを告げて相談すると、可愛らしい“子”がとても気に入って
いた王はやや残念そうだったが、この子を自分の意志で“自由”に動き
回らせてやりたいのだというリリスの“願い”を理解して、方策を考え
てくれた。
少々遠いあの<世界>へ、リリスという媒体と、“狭間”と王の“空間
を越える”力を使って無事に“子”を送り届ける。
そのために、王は丈夫な蔓(つる)のような特別なものを身体のうちか
ら作り出して“力”を帯びたそれでひとつの球体の“籠”のようなもの
を編み上げた。美しい紋様のようにも見える編目の頑丈なそれには
蓋があり、中には同様に王が作り出した仄かに甘く良い香りのする透
き通る“樹脂”のようなものを詰めた。万一の衝撃や不慮の影響をあ
る程度防げるし、珍しいだろうこれに価値が見出(みいだ)される可能性
もあるだろう。
そうして幾度か試しの何かで練習のように送り、その行方を“画面”で
確認出来ることがわかったところで、実際に試みることとなった。
名残惜しそうに枝に透明な球体を抱いて別れを告げる王のほうに瞳を向
ける子は、何もわかっていないのだろう無邪気な笑みを向けて、きゃき
ゃ、と声を上げて笑ってぺたりと殻の内側から手を伸ばす。殻は大きく
薄くなるにつれて相互に音もちゃんと通して聴こえているようで、子は
呼び掛ける“思念”だけではなく、こちらからの物音やリリスの話し掛
けてみる声にも反応を返してくれていた。
・・・・どれほど覚えていられるかはしらないが、記憶と対応によって
異質感を覚えられる危険性は防いでおかなくては。
・・・・・たった、ひとつだけ。
それでも随分と大変な不自由をさせることになるけれども。
当分の間、“それ”がいつか解けるまでは許してくれないか。
以前、習い覚えた“子守唄”に強く一心に“願い”と“力”を込めて唄
う。
子の瞼がうとうとと閉じかけ、それでもまだ起きていたいというような
ぐずったような様子で表情が歪んで、少し泣きそうになる。それに宥め
るように微笑み掛けると、ふにゃりと笑った。リリスに向かって向けら
れた眼差しが、今度こそ眠気に負けてうとりと完全に閉じる。
“・・さようなら、可愛い子”
王が子に付けられていた名を思念に込めて呼んで、枝の先に繁らせた特
別に柔らかな萌えたての若葉のような黄緑で、透明な表面越しに撫でて
別れを告げる。
“さようなら”とそれに倣って思念と、そして音にした言葉を送って、
籠の樹脂のうちに透明なそれを収める。
我が子の“生きようとする力”を信頼して、蓋を閉じた。
いつかと同じように肩に枝を置いた王が、リリスの腕の中に抱えられた
随分大きくなった卵に添えるように別の枝先を、視界を遮らないように
触れる。
最後にもう一度その眠る幼い顔を眺め、王に頷いて目を閉じた。
祈り、願う。ただひたすらに。
この子が無事に界を渡り。
イヴとアダムのような誰か、優しい手に気付かれるように。
健やかに伸び伸びと手足を動かして過ごせる、良い環境へと。
“ひと”の居る近くに・・・!


  王の集中を込めた“力”とリリスの“願い”で、以前の時よりも鮮
 明に“画面”に映ったものは。
 少し変わった切りたった形をした高い山に程近い麓の、緑深い中にひ
 っそりと隠れるようにあった、小さな集落のようなものだった。
 木々を巧みに利用して囲いのようにしているその外周の直ぐそばに、
 球状の籠はふっ、と現れた。
 僅かに輝いていたそれは草の上で安定し、光を失うとそのまま動か
 なくなる。
 まだ辺りは薄明るく、多分夜が明けて間もないだろう。
 微かに“鳥”のような鳴き声がしている。
 周辺はそれ以外まだ起きているものは無いかのように静かだったが、
 暫くすると低めたような話し声が近付いてきた。
 出入口となっている部分を潜り抜けて出てきたのは二人連れの、白い
 肩に掛かる程の揃えた髪と・・皺の寄った表皮の容貌をした“ひと”
 だった。周囲の森のような深い緑の色合いの、独特の型と紋様を施さ
 れた長衣を纏っている。
 そんな表皮の様子をした天使は知らないし、自分が与えられた自身の
 一族の成長に関する知識にも無かったとリリスは不思議に思ったが。
 独特の活力と共に落ち着いた・・威厳とでもいうのかを湛えた顔に
 “箱庭”の動物のいずれかで見たことがあるような“髭”のあるほう
 と、優しく柔らかに品がよい風なもう片方の小柄な“ひと”の双方に
 良い印象を抱(いだ)いた。
 この集落自体にも落ち着いた清温な雰囲気が漂っていて、隠れるよう
 にしているそれはその空気と内にあるものを守るためのもので、他者
 を排他するためのものではないと思われた。
 木で出来た手提げ部分のついた容器と、肩から掛けた籠のようなもの
 をそれぞれ携えているふたりは何かの用事で出てきたのか、まだ眠っ
 ているものが居るのだろう周囲を気遣うかの様子で穏やかに会話を交
 わしていたが、垣から出て習慣のように何気なく辺りに目を配ってい
 た視線が、見慣れないものだろう球籠にとまる。
 あれは何だろうという風に見交わされて慎重に近付き、もう片方を制
 した髭のあるほうが跪(ひざまづ)いた先にそろりと手を伸ばし、球籠
 の蓋を探り当てて開く。
 驚いたように小さく声を上げて、覗き込んだ背後の小柄な“ひと”と
 囁き交わす。籠の中に手を入れて抱き上げられたものは、どうやら既
 に“殻”を開けていたらしいあの子だった。特に異常は見受けられず、
 僅かに身じろぎするだけでおとなしく眠り込んでいる。
 子は小柄なほうにそっと手渡され、髭のあるほうは球籠の造りの様子
 や中身を、身元の手掛かりを探しているのか丁寧に調べている。
 だが、樹脂と割れた透明な殻の断片しか見つからなかったことで、少
 し困ったように不思議そうに改めて子を眺めた。“明らかに訳あって
 こんなところに居る”のだということは多分悟ってくれたのだろう。
 だが、幼い無邪気な寝顔に仕方ないなという風に溜息をついてふたり
 は互いに了承を交わすように微笑むと、とりあえず連れ帰ることに決
 めたようだった。
 嬉しそうに両腕に大切に抱えた子を覗き込みながら引き返してゆく小
 柄なほうが、元々持っていた肩掛けの籠に加えて木の容器と球籠を引
 き受けた髭のあるほうに何事かしきりに囁くように話しかけていて、
 相手も思案しながらそれに返している。
 出入口を潜ったふたつの姿は、まだ薄らと靄(もや)が立ち込めている
 様子の集落の中の道を奥に進んで、その背は見えなくなった。


 ・・・あのふたりと、あの集落なら、きっと悪いようにはならないだ
ろう。
リリスは安堵し、王に感謝の念を伝えた。
返される優しい波のようなそれと回された枝に身を浸すように委ねて懐
くように、頼り甲斐のある堅いがしなやかでもある表皮に頬を寄せた。
枝の先に表された柔らかな葉が、髪を撫でるようにそっと置かれた。
きっと、これであの子は“自由”に育つ。
広い“地上”で好きなように歩いて、駆けてゆける。
・・あの時見たイヴのように健やかに育って、イヴのアダムやわたしの
樹の王のような、おまえにとっての良き相手と巡り合ってくれと。
“願い”を込めて。
深い呼吸と共に、安心出来る場所で一休みしようと、瞼を下ろした。



***



 その後も、時折王の力を借りて子の成長の過程を目にしていたリリス
だったが。
あの時のふたりは大切によく気をつけながら子を育ててくれ、すくすく
と成長した子はふたりをよく慕い、“視界が封じられている”のをもの
ともせず明るく元気な様子だった。
成長と共に淡く紫がかった灰白の髪を伸ばし、結われたそれがふわりと
揺れる。少し大きいらしい“男の子”(というものらしい)がごくおとな
しい性格の様子ながら懸命に、時折危なっかしいように見えることをす
る子・・“女の子”(というものらしい)である“娘”(というようだ)、
の面倒をみようと後をついて歩いて振り回されたりしている。それを周
囲は皆で微笑ましいように笑って眺めていたり、さり気無く覚えておけ
ば役立つ示唆や手助けをしたりしてくれた。


 リリスは本当に安心し、王もそれと“娘”の元気な様子に嬉しそうだ
った。一緒に過ごせないのは残念だが、本当に良かった。
 ・・・・最近、“衰え”のようなものを感じる。
王には心配を掛けたくないのだが、気遣うような気配を感じるので既に
気付かれているような気もする。
わたしの寿命は恐らく・・・・・もうそれほど長くは無いのだ。
そう思考するとき、後悔は無いがほんの少しの心残りを感じる。
“娘”がわたしと同じくらいの大きさになるまで、目にしていられれば
良かったなと。
だが、本当は存在も生命(いのち)も一度は捨てたつもりで此処に来たこ
とを考えたら、本当に“幸福”な終りかただろうと思う。
王はまだ十分に健在だから、きっとその枝に抱(いだ)かれてわたしは最
後に目を閉じることが出来る。

 “娘”の存在に気付いて、何か特別に天使かほかの何かが様子を見に
来るような様子も無かった。
周囲も、特別に勘がよく“気配”を読むのが得手というのが特色の、あ
くまで普通の“ひと”の子だと思ってくれている様子だし。
きっとまだ当分は大丈夫そうだ。
“視界”の封印が解けるまでにはきっとあちらの<世界>の記憶に埋も
れて、ごく幼い頃の朧なそれなど曖昧になっているだろう。
仮に蘇っても、無闇に口にしないだけの分別はついているだろうし。
 ・・・・<世界の管理人>である筈のエルは、気付いていないのか。
もしも気付いていても見逃してくれているのかもしれない。
どちらにしろ、このまま過ぎるなら、あの時にはけして許せないとしか
思えなかった黒い重い念もこのまま蓋をして小さく小さく忘れていられ
そうだ。
・・・確かに色々、あったけれど。
エルがわたしを時間と手間を掛けて大事に育ててくれたことに変わりは
無いのだ。お互いに数々の掛け間違えのようなものが、あったとはいえ。
エルの特別な“かれ”に覚えた羨望すらも・・此処で時を重ねた今では、
もう遠いような気がする。
わたしは王に出逢って、ふたりの子を一緒に育てた記憶を持ち、“幸福”
になれた。だからもう、こだわるのはよそうと思う。
あの絶望すらも、きっと許せる。
此処に辿り着けたのだから・・・。


これでいい。これで、わたしは満足なのだ。
暖かに切ない想いで、滅多に表すことは無い“涙”が、零れそうになる。
王の優しい枝の先の葉が、慰めるようにそっとわたしの頬に触れた。




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