ずっと“弟”のように可愛がって育てていたアダムが、限界に来てと
うとう倒れてしまったから。
エルは自責の念で滅多に無い程に酷く疲れきっていた。
・・・余剰にじゃれるのを押し返すのが元気の目安だなんて、普段は時
折少し残念そうにしてみせることもあるエルに悪い気も、少し寂しい気
がすることもあるけれど。
今だけは、“許容”出来ることでわかりやすいことに感謝する。
そのうちに回復したことも、きっとわかるから。
手加減の目一杯まで力を込めて私を掴み寄せた手に余り余裕は無かった。
エルはいつも、大概明るく笑っている。
急がしいとか疲れたとか面倒くさいとか愚痴っていても、ずっとその表
情で居ることはない。自身と、周りのために。
けど、この<世界>では唯独りきりの<神の代理人>は“同じ”ものが
居ない。
私やラジエルだって、少々特殊な例外ではあるが“天使”という区分が
あり同族が居る。でも、エルは“一属一種一神”なのだ。
 かれはきっと、“卵”を生み出す“最初のひとり”であるアダムに、
自分によく似たものを投影し、異なる形の美しい夢を描いた。
その、翼を持たない新たな“鳥”の背に。
かれは・・希望(のぞみ)を抱(いだ)いていたのだろう。
 かれにも<引継ぎ>はありえるが後継者を選ぶことは出来ない。
だから、自分の意志で託す相手を選べる“自由”を。
“完全な失敗”か“挫折”などでしか逃れることが許されない<世界>
の長(おさ)の座の、恒久とも思える責務ではなく。
大きなことをするのにも親しいものたちと記憶を共に重ねるのにも短過
ぎくもなく、多分長過ぎるほどでも無い三千年程の時間。豊かな穏やか
な風景の内で、そう多くも少なくもない“同じ”ものたちと手を携えて
暮らして引き継いでゆく歴史を。
かれの代わりに、かれと似たところのある可愛い子供と、その成長した
後に生み出される子供たちがまた継いで、いつかまた最初の子供によく
似た面影に出逢える幸運があるような。
・・・そんな、優しい夢を。
 だから、アダムの絶叫は、かれの声の無い悲嘆を深く深くした。
自分の“我儘”な夢で、あの子に自分とはまた違う“選べない道”を押
し付けていたのに、“幸せ”だった頃の記憶に囚われてありえたかもし
れない種々の方策を講じなかった。
そして・・最初から、間違っていたのだと。

 今は、一度目を醒ました後にもう一度(ひとたび)、私の畳んだ片膝に
載せた厚手の敷物を“枕”代わりにして、未だ疲れた影を白い貌に纏い
つかせたまま静かに眠っている。
天使よりも眠らないエルにとって、これは珍しい状態だ。
本当に・・・参っている感じで。胸が、痛い。
そっと、目元に落ちかかる金の髪の一跳ねを起こさないように指先で
う。あちこちに向かって不規則に跳ねている髪は、天界に射す陽を紡い
だ極上の糸のように光を内包して明るい金の色をしている。けれど。
瞼に隠されている眸の沈む黄金が、いつものちらつく水面の木漏れ日の
ような光を殆ど消していたのが時折思い出されると気に掛かって仕方が
無い。
・・・時の初めから一緒に居て親しく長く過ごすゆえに、癒着や依存を
防ぐというのはわからなくもないけれど。
こんなに弱っている時くらい自分から腕を差し出したいのに、大概エル
が元気にじゃれて私が押し返す構図を繰り返し過ぎたのか、すっかり自
分から手を伸ばしたり触れ返すことに不得手になってしまった感がある。
一番の助力者の筈なのに、君はこれで良いのだと言うけれど。
こんな時、自分の不器用さとこの“仕様”が恨めしい。
こっそりと、溜息をついて。
もう一度その髪を撫でてみようかと、そろりと手を伸ばした時。
その手の下で、ぱちり、とエルが目を開いた。
「!」
起こしてしまったのか?と思う間もなく、半身が勢い良く跳ね起きる。
慌てて邪魔にならないよう手を引いた。
「エル?」
まだ十分休んだようにはとても見えないのだが。
見開いた目を虚空に据えたままのかれにどうしたのかと尋ねると、予想
外の台詞が返って来た。
「“箱庭”の扉が開いた、とラジエルが」
ラジエルは天界の大半の情報も把握しているが、“箱庭”は割と最近に
なって出来たことと、天界のうちに更に区切られた特別な異空間のよう
なものなのでその内はラジエルの管轄外だ。扉が開いた、はその通りの
意味だろう。
“箱庭”は普段は殆どエルが管理している。
つい数時間程の前、倒れたアダムの回復の為にエルが巨木の中に部屋を
造り運び込んで、完全に回復するまで目覚めないように保護容器で眠ら
せてからは、辺りの気配を騒がしたりしないために当分は誰もその扉の
内には立ち入らない筈だ。
エルは疲れ過ぎていたため、眠っていた間は負荷と不用意な覚醒を防ぐ
ために最低限以外の情報を遠ざけていた。それを戻して読み込んでいく
かれの真剣な表情が僅かに曇ったのを見て、私は漸く気付いた。
・・・・そうだ。
この天界で、エルに無断で“箱庭”の扉、を開けられるものがあるとす
れば。それは、アダムに他ならないのではないかと。
 異常事態を理解した私の顔から色が引いたのだろう。
エルがこちらに目を遣って頷く。
様子を見て来てくれということだろう。
「・・・一寸、見てくる」
とだけ言い置いて、特に制止も他の言も聞こえなかったのでそのまま
“箱庭”のある区域まで“跳ぶ”。



 ・・・・・。
なんだ、これは。
 最初に目に入ったのは、“箱庭”の入口となっている囲い、の付近に
ある白い石のような素材が敷き詰められている通路の上にある・・・何
かの足跡、らしきものと罅割れ。足跡以外の場所でも、所々で白い素材
が砕けている。
 天界で、こんな光景を普段目にすることは無い。
風化の原因は殆どないし、何らかの原因で壊れたにしろ放置するような
事などは珍しいからだ。
「・・・何が・・」
きょろ、と辺りを見回すと“なにか”が少し離れた場所の低木の茂みか
らはみ出しているのが見えた。・・・落ち着いた色合いのそう大きくも
ない桃色の翼の端、のように見える。
気配を探るが、極近い周辺に、警戒すべきものや注意すべきものは動い
ていない。
扉が開いてしまっているから、もしかして中の動物のどれかが逃げ出し
て、見慣れない場所で混乱して石畳を壊して茂みに突っ込んだとか?
・・・・。
この天界で、悪い事態(こと)は考えたくない。
それを振り払って、一旦ある程度の高さの中空に飛び上がって留まり、
辺りを見渡す。
・・・・・・・。
眼下の敷石を砕きながら進んだそれは、周辺へ散っていく痕跡を残して。
様々な大きさの“何か”が通って行ったらしい、それ。
遠くのほうで、聞き慣れないけたたましい甲高いような“鳥”らしき鳴
き声が、別のほうでまた全く別の何かの喧騒と咆哮が。
まだ夕方には間がある晴れ渡っている空に響き渡る。
「・・・・アダム、まさか」
思い当たる核当者が、一人しか居ない。
そんなことをしそうな天使は、今のところ存在しない筈だ。
 先程の桃色の翼のほうへ急いで降りる。
多分、これは・・・。
茂みの中に落ち込んで気絶していたのは、予想通り一羽のごく幼い姿の
小天使だった。怪我は・・なさそうだ。
よく見ると、通路から茂みの側(そば)に掛けて光を結晶した小さな粒が
幾つか落ちて転がっている。此処には普段でも余り用も無く通り掛かる
者は少ないから、静かな場所でこれを造る練習をしていたのかもしれな
い。
エネルギーを分けてみると、直ぐに気が付く。
「あ・・ルシフェル様!!
有難う御座います!
あの・・・あのあの、なんか、“箱庭”の動物みたいだけど、何だか全
然違うものが沢山通って行って・・急にぽーん、って・・・」
感情の至極簡潔な小天使には珍しい“混乱”したような様子だった。
多分当て嵌まる、怖い、という感情がよくわからないのだろう。
跳ね飛ばされただけで何事もなさそうだったので、気配に気をつけて迂
回して安全そうな場所へ行くように、と指示して見送る。
“箱庭”にも帰巣本能的に戻ってこないとも限らないしな。
 改めて背後を振り返ると、白い石畳の道の途切れる先。
ごく低い、敷地を区別するだけの石囲いの向こう。
それなりの広さに囲まれた草地の上に、白い真円を描く大きな石盤。
その上に僅かに宙に浮いて、ひとつの大きな両開きの緑色の木製の“扉”
だけが開けっ放しの状態で存在している。
普段この扉は、出入りの時以外には此処に現れていないというのに。
一応エルが既に情報的には確認済みだと思うから、何も言ってこないと
いうことは中に特に注意しなくても平気だとは思うが・・。
入口から数歩、歩み入る。
・・・・。
妙に静かだ。全てが息を潜めているように。
簡単に広く浅く探ってみると、ごく小さな動物や静物の気配はするが、
それなりの大きさの動物たちの気配がしない。
皆、出て行ってしまったのか?
“箱庭”内の各場所を“跳んで”みると、馴染みの草地に見覚えのある
木製の水盆が幾つか転がっているのを見付けた。引っ繰り返っていた
り、滑らかに磨かれている筈の表面が傷ついたり割れているものもある。
それらは全て空っぽで、草地の上に零れているものは無い。
知っている、誘うような甘い香りと一緒に、知らない“気配”がほんの
微かに辺りに残り香のように漂っていた。
それは・・冷たい、“悪意”。



 アダムの気配を探して、騒ぎが起きていると思しき辺りを回る。
天界の、施設の多い辺りは混乱していた。
あきらかな異質と化した動物たちが狂気を滲ませてあちこち破壊して回
り、直接攻撃されたのでなくても巻き込まれたり事態がよくわからずど
うすればいいのかと取り扱いに困っている隙をつかれて大きく消耗する
羽目になった天使もあった。
平穏でこんな騒動など起きたことのない此処で、即時対処に回れるもの
は少なかったのだ。
大天使たちは“現在”の広範囲に点在しているものも多く、短時間に起
こったこれで混乱している状況では呼び戻すことを思いつく者も中々居
ない、というよりもその必要性を判断するべきなのかがわからなかった
のだろうか。
どうしたものかと僅かに思案していると、ラジエルの全体伝達が天界の
構造に巡らされている“連絡回路”を伝わって、必要分のみの端的な様
子で響く。
それによってか、少しだけ時間が経ったからか、恐慌状態を呈していた
箇所でも漸く統制が取れてきた様子で、戦闘に向かない天使は連絡や手
当てや補修と、これ以上勝手に移動して回らないように動物ごとに動き
を止めて結界を張ろうとし始めた。
一応戦闘能力のある中天使たちが、以前気紛れのようにエルが創り出し
て各所に何気なしに収納配備されていた3種類の“武器”、“剣”の一
種である“アーチ”・“盾”型の“ベイル”・“飛道具”の“ガーレ”
を手にして、結界を打ち壊そうと暴れているおそらく・・元は“象”か
何かだった文字通り小山のように巨大な大型獣を、相応の大きな結界の
うちに入った数名で何とか取り押さえようとしていた。
・・・何となく、危なっかしい。
それに『無理せず気をつけて出て、上から重ね掛けしたら封印して保留
しろ』とだけ指示して再びアダムを捜す。
・・・。
私の“跳ぶ”は大まかにだが個体を目標にすることも出来るのに。
アダムの反応が、無い。
ラジエルからも連絡が無いということは、同様に個対象探査では見付け
られていないのか?
・・・何処に行ってしまったんだ?
ラジエルはおそらく、こんな時でも放置は出来ない通常の作業と、現状
の天界の情報収集と統制とで忙しいだろうから重ねて尋ねて煩わすわけ
にもいかない。
そういえば・・エル、は。
・・・・・。
“エル”?



***



 アダムが、エルを目指すことは十分にありえることだった。
本来なら私が直接“かれ”を目標に“跳ぶ”ことは造作も無いのだが、
どうやらエルは現在そういう“自身”への“遠隔跳躍”の類を対象を問
わず天界内全てに於いて遮断しているようだった。この権限はラジエル
にもあるが、おそらくエルの判断だろう。・・・各種作業中の安全を考えて
も、仕方が無い。
気配そのものも少々遠く感じるが、“異常”は感じない。
少し安堵しながらも、引き続き探索を兼ねて絞り込んだ幾つかの場所を
あたる。
 そして、三箇所目。
「・・・・・」
私は、目の前の光景が・・現実でなければと。
それは、先程目にした混乱など児戯に等しく、問題のうちではない。
   “悪夢”  だった。
まだ十分に射している日差しの中の柔らかな色合いの白石で出来た
通廊。
その床に、透き通りかけた“翼”が落ちている。
片翼だけが、広げられかけたばかりのように横向きに持ち上がって。
・・・いや、落ちているのではなく、その下に薄れて消えかけた“天使”
の身体が横たわっている。
駆け寄って触れようとすると、青年の姿をしたそれはかたちを失って霧
散する。
「・・・・な、んで」
信じられない。信じたくない。
これまで寿命で“世界に還った”以外の天使の“死”を見たことなど無
かった。使命を全うしたそれは、それほどの衝撃も強い悲哀も呼び起こ
すことは無いのに。
微かに震える手をそのままに、目を上げる。
白い建物の間の十分な余裕のある、点在する緑の木々と落ち着いた
黄緑の緑地を抜けて長く伸びてゆく通廊には点々と大分離れ て
             ・・つばさ   ・・が・・・・・
ふらふらと、それに目を遣りながら抜けてゆく。
それらは皆、中級の天使たちだった。
少年の面影のある“青年”から十分な“成人”の容姿のものまで特に目
立って共通する所はなく、殆ど色を失ったものも、まだ色を残すものも
あったが。
透明に透けているそれらはもう、亡骸のような名残に過ぎない。
いずれの場所にも、剣の軌跡のような強い力の歪む気配と“箱庭”にあ
った残り香と同じ“悪意”が薄らと空間に残っている。
 ふと、息を呑んで駆け出す。
アダムは・・・まさかエルを?
嫌だ、それだけは。
それだけはあってはならない。
アダム、アダム。
・・・お願いだから、止めてくれ。
 エルがアダムに能力で負けることは、ありえない。
でも、あの暗い眸が思考を過(よ)ぎる。
アダムにだって、かれを“殺す”ことは“不可能”じゃないんだ。
<神>の“絶望”は、エルを殺してしまう。

 通廊の先の廊下に飛び込んで先を辿ると、まだきちんと形と色が残っ
ているやや幼い風情の少年の姿の天使がひとりだけ倒れていた。
翼は出ていない。
 ・・透明な名残の姿を幾つも見て思ったが。
本来の形ではなく、突然に力尽きかけて僅かな時間の余裕と間があると、
天使は周囲から力を得ようと、風を受ける“帆”のように本能で翼を背
に表すのだろうか。
かれにはまだ、魂の気配が・・ある。いきている。
急いでエネルギーを注ぎ込むと、かれはぼんやりと目を開けた。
顔が動いて、視線がゆらと私の目の辺りを彷徨う。
「・・・・・・。
・・・るしふぇる、さま?
あのくろい、いきものは、なんですか?」
ぼんやりとした口調で、たどたどしくかれが尋ねる。
・・・アダムのこと、なのか?
まだ具合の悪そうなかれを念のため物陰に隠し、座標をラジエルに呼び
掛けて伝えて、おとなしくしているように告げると足早に離れる。
・・・強い気配が、こちらに向かって来ていた。


 「・・・・・。
アダム?」
少し先に進んだ廊下の途中の円状の場所で。
漸く、探し続けていた“アダム”と対峙した。
アダムの面影は十分にあるけれど、色彩も様子も随分と変わっていた。
私を見ると眉を顰め、片手に呼び出した白い光剣を握る。
この辺りは情報管理の建物が集まっている。
戦闘能力は特にないものたちだろうとはいえ、何者かと訝って止めよ
うとしたのだろう中天使を累々と、両手の指の数に届こうかという程
も打ち倒しながら進める力があるのだ。
私に元から備わっていることは“知って”いる“戦闘仕様”に切り替
えて相手をすべきなのか?、と慎重に様子を窺いながら。
まずは、もう一度話し掛けてみることを選択する。
これがアダムなら、幾ら殺傷沙汰を起こしたとはいっても、エルに無
断で斬りつけていいのかどうか疑問だったのだ。
最悪、“斬り捨てる”結果になったとして。
・・・・私を目にする度に、そのことを折節に思い出させるなどと。
エルに、更に負荷をかけるようなことはしたくない。
出来れば刺激を最小限に抑えるべく、平静な風に務めて言葉を試しに
選び。声音として発する。
「・・・おまえ、まさか。
エルに喧嘩を売りに行ったのか」
問い掛けに顰めていた眉が再度動き。聞き覚えの無いよく通る透明な
声が硬い響きで届いた。
「行ったが。
<神>は、“ひと”など相手にしてはくれないな」
投げやりにも聞こえる口調だ。
だが、どうやら諦めてくれたんだろうとほっとする。
未だにやや遠く感じるエルの気配にも、相変わらず異常は無い。
・・・・。
先刻見た少年天使が生きていたのは、“子供”の様子だったから手加
減してくれたのだと、思いたい。
 改めて“アダム”の様子を眺めた。
・・・・・。
黒い“鎧”はなんとなく目を遣り続けづらい気配がするから無いほう
が良いのかもしれないけど。
でも、元とは全然違うが、なんだかこのアダムも・・・“綺麗”だな。
こんな理由でなければ、エルも喜んだかもしれないのに。
とても残念なような、純粋に惜しむような気持ちになる。
 何となく私の気配が変わったことを察知したのだろう。
一切遠慮の無い態度で、透明な氷緑のような一塊の眼と表情がこちら
を睨む。・・・それが帯びるものは“殺気”だろう。
けれど、何だか開き直ったようなその気配は今となってはかえって私
には大分ましだった。
「・・・・おまえは、私が嫌いなのに。
幼い頃の記憶を諦めきれずに、無理に仲良くなろうとして・・悪かっ
たよ」
今更謝ったところで意味がないのかもしれないが。
ただ、言っておきたかった。余計怒りを招くだろうとは思った。
けれども。
返ったのは・・・冷ややかな“蔑視”だった。
「幻から持ち帰られたまやかしに、“夢”が違えないものだと信じて
しまったわたしが、愚かだった」
きん、と込められた強さで響いた硬質な声。
そして一呼吸の後。
反射的に、余裕のある長めの上衣の隠しに畳んで収めていたアーチを
引き抜いて構えていなければ、“通常仕様”では直撃が来ていたかも
しれない。
白刃を握っていた筈の黒鎧の手には、真っ黒な硬質のアーチによく似
た何かが握られている。・・・いや、これはアーチだったもの、だろ
う。歪んで、いる。
黒と白の円弧。
本体だけではなく歪みを刃にしたような不定色の混ざり合う黒炎と、
エルがこの武器に付与した“浄化”の属性を持つ青炎の刃がぶつかり
合い、私は力一杯押し返して遠ざけるために斬り払うと、アダムから
飛び離れた。
あの黒刃に触れたら、ただでは済まない。
けれど、私に次を具体的に思案する暇(いとま)を与えず、大きく飛び
離れたアダムはそのまま無言で、素早く身を翻して駆け去った。
硬質な鎧の立てる足音が数呼吸の間に廊下を遠ざかり、消える。

 その背を見送って、刃に込められた強烈な拒絶を掌と腕に残る感触
で思い返す。
刃越しに一瞬だけ見交わした眼には、もう何の感情も窺えなかった。
 ・・・・私は。
自分のことしか、考えていなかったのか?
エルを助けているつもりで。
かれを・・・
 つい先程。アダムがエルのもとへ向かったのではと思った時に。
アダムに向けて思考したことが全て、私に跳ね返る。
鏡のように。
アーチを持った手を下げ、もう近くで倒れている者は居ないだろうか、
と。ぼんやりとした意識で辺りを見回した私の目に、黒いものが映る。
アダムが去った方向に落ちていたそれに近付き、片膝をついて指先を
伸ばす。
冷やりと。
滑らかな硝子のような感触のそれは、アダムが纏っていた黒い鎧の一
部だった。斬り払った時に何処かに当たったのかもしれない。
半分に罅割れた少し厚みのある指先二節分程の小さな鱗は、滴のよう
にも卵のようにも見える形をしていた。
端の辺りだけが僅かに透明で、その少し先からじわりと黒い染料が水
の中に注ぎ込まれて揺らぐように不透明に塗り潰されていく。
その揺らぎ続ける黒を見詰めていると、不安が増すような気がして。
 本当は、色の無い透明な鎧。
歪む黒に染めたのは、“私”なのか。


  ふと、自分の背にある筈の、エルがくれた六対の翼を思う。
 “星の海”にも似た、“原初の闇”の力を宿す特別な黒。
 私は<世界>の始めの記憶を留める、この色が好きだ。
 エルはこの色をとても綺麗だと言う。
 だけれど。
 これまで思ったことも無い懸念が湧き上がる。
 この美しい筈の透明も、この鎧のように。
 不安を誘う不透明の黒に変わってしまうことも、ありえるのだろう
 か。
  それなら、エル。
 君を“嫌い”になることを許されている私は。
 ・・・・君の傍(そば)に居ても、いいのだろうか?


 微かに震える掌でそれを握り込んだ片手が。腕が。
・・・・全身が、ひんやりと。
ほんの少しづつ、冷えてゆく。




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