「・・・アダム」
平静に聴こえるかどうか、少し心配だ。
深い嘆きを、自分の誤りを、目の前の唯一の“ひと”への愛惜を。
悟らせたくないわけではないけれど、今、<管理者>である私があから
さまな動揺を見せるわけにはいかない。全てを抑えて、話し掛ける。
 壁と天井沿いに射す複雑な白い光源に照らされた、白色の広い空間。
“玉座の間”の奥に立つ私と。
白い床の一段だけ低い位置に立つ、アダム。
アダムの姿は、容貌や輪郭に面影はあるものの元とは全く変わってしま
っていた。
私や、ルシを初めとする大概の天使たちのものともそれに似せた“ひと”
のものとも違う一塊の透き通る眼が、氷雪に覆われた地のいずれかで氷
が宿すものに似た緑に澄んで、こちらを見詰めている。
表皮は黄金のようだった淡く光を帯びた黄褐から大分色味が失せたよう
なそれでも微かに光を纏う、何処(いずこ)かの月の色のような白黄に。
“地上”の夕暮れの明るく燃え立つ色だった豊かに柔らかな長い髪は、
黒に近い夜空の藍。首から上と掌より上の指先だけを残して全身を覆う、
滑らかに硬そうな“鎧”のような外殻。その不透明な時折揺らいでいる
ような感じのする黒は目を当て続けているとなんとなく不安になる。隆
起や突起のような部分がありながら大方でぴったりとしているそれから
窺える身体の線も少し変化している。
表情の窺いにくい眼だったが、薄い口元や細い眉の描くもの、漂う気配
は違え様も無い。
・・・私の選んだ姿と立場を捨て去ろうとしたほど、私はアダムを絶望
させたのだ。
アダムの望んだ変化がもたらしたそれは、元々のものとはまた違っても
“美しい”と思えたが、私がそれを“肯定”するわけにはいかないのだ。
アダムがその身と堅く握り締めた掌の中に、私への“殺意”を抱いてい
る限り。
 呼んだきり佇む私に、アダムが口を開く。
その声も、変わっている。
丸みのあった柔らかなものから、その眼のように硬質に透き通る音へ。
「・・・・。
エル。わたしはもう、疲れた。
終りに、したい」
ルゥ、ではなくエルと。はっきりと声音にして“呼ばれた”のは二度目
だ。
アダムは子供であった思い出とも決別しようとしているのだと、眼前
に突きつけられる。
私の“夢”を共に抱(いだ)いて、その道を望んでくれた。
それなのに私は数々の選択を誤って、君に自分の手で掴んだ“幸福”
を得る機会をあげられなかった。
・・・<アダム>。
君を私に似た生み出すものとして、“弟”として希望(のぞ)んだ私は
きっと最初から間違っていたのかもしれない。
君は<管理者>でも“私”でもない。“ひと”であるのだから。
透明な緑を見返すと、その口元が再び動いた。
「・・・。
わたしはもう、<アダム>じゃない。
その名は、わたしのものじゃない」
上げた面(おもて)が、呼び慣れた名を拒絶する。
「・・・・では、何と呼べばいい?」
尋ね返すと、少しだけ俯いて思案するような間があった。
それから、強い眼差しと共に答えが返る。
「・・・・。
<リリス>」
端的に、簡潔に。その名の音だけが唇にのぼる。

 ・・・では、私も選択せねばならない。
最初から別の道の可能性を示しておかずに、君にひとつの身には余る
程の重さを与えて結局、長い努力をふいにしてしまったことの罪過は。
君のその“刃”はせめて甘んじて、受けよう。
希望(のぞ)むかたちには、ならないのだろうけど。
私に出来ることは、今これだけだ。
 滅多に無い程の重い精神負荷に苛まれ、ルシの膝に甘えて眠ってい
たのをラジエルの緊急を告げる通達に飛び起きて。
私を心配するルシに“箱庭”の扉が開いたのだと教えると、蒼白にな
って状態を把握しようと跳んで行った。
・・・君の眠りはまだ当分醒めない筈だったのに。
もう変異は完全に始まっていたのだろうか。
目が醒めたら独りで、怒っただろうか。寂しかっただろうか。
それとも、諦めてしまったのか。
 それでも。
私にはルシが居て。
<世界の管理人>ゆえに、君が望むようには君の手はけして取れない。
普段誰も居ない、適当に広いだけの“玉座の間”に来たのは何となく
だが。おそらくもう私はこの状況をどこかで予測していたのだろう。
君が完全に変わってしまうことも。
君が私を捜して、来たこともない此処に辿り着くことも。
「<リリス>」
綺麗な音の並びだと思ったが、それは口には出来ない。
ただ呼んで、目の前の姿を記憶に焼き付ける。
けっして忘れては、いけない。
 落ち着いて見える私の様子に、“リリス”は苛立ったようだった。
「あなたは・・・
わたしをいつまで小さな子供だと思っているんだ?!」
これは癇癪を起こしているんじゃないんだ、と片腕が大きく広げられる。
艶があって光を弾いている真黒い鎧は何処か硝子のようでもある見た目
と違って、角が丸いものだとはいえきしきしと軋る音はさせない。
時を渡るルシが纏う自身のエネルギーを分けて覆った衣服のように、一
種の表皮の一部だとすれば必要に応じて変形も可能なのかもしれない。
「・・・そうじゃない。
けれど、君が私を“見限った”のはわかっている。
・・自分の力でこの場まで来た君のしたいように、すればいい」
私の返事に、リリスは一瞬聞いた意味がわからなかったような顔をした。
それから、その表情が、歪む。
「・・・・・・・。
あなたにとってわたしは、その行動を“叱責”するにも値しないという
のか?」
ぉん、という低い唸りのような音と共に、鈍く白く輝く光で出来た長い
“剣(つるぎ)”が黒鎧の右手に握られる。
「慈悲深いのも、優しいのも。
使い方を間違えれば、この“刃”よりも危険なものだ」
あなたが“育てた”のは“ひと”ではないものだった、と。
どこか自嘲するように微笑んでリリスが床を蹴って跳躍し、十歩以上離
れていた間を一気に詰める。
翳された白刃がその勢いのままに斜めに斬り下ろされた。

 「・・・な?」
驚愕に小さく開く口の形から、声が零れた。
リリスの操る光剣は確かに私の纏う白い長衣の胸元から腹部に掛けてを
大きく切り裂いた・・・筈だった。だが。
「・・・・リリス。
肝心なことを、忘れてしまったのか?
“私”は、<神>だよ」
刃の力をそのまま留める様に、光を放つ剣の軌跡が白布と表皮とを深く
抉っている。この身を流れる朱金の“気”が、溢れるように一瞬刃と衣
服に煌いて散って中空に溶けてゆく。
しかし、それに私は表情を変えることなく。
直後、光剣だけをそのまま取り残し。
時を逆に巻き戻すかのように、内側からその光の傷跡は消えてゆき、表
皮も服も何事も無かったかのように元に戻った。
取り落とされた光剣が、床に落ちて輝きを失い霧散する。
・・・リリスの力が私を攻撃するに足りないというわけじゃない。
これをごく普通の中天使が受けたらそれなりの深手を負う。
今のものは純粋に“力”だけだったが、“悪意”を流し込まれたら耐性
の無い天使は動けなくなってしまうかもしれない。
リリスが纏っている“闘気”は、此処にやってきた時から戦いの気配の
尾を引いていた。
・・・・おそらく、此処に来るまでにも。
「<世界の管理人>である私が消えることは、即ちその<世界>の
“滅び”を決定付ける。
・・・だから、私の“情報”は常に“複写”され続けているんだ。
直ぐに、“再生”出来るように」
代わりの利かない“私”の個的な情報だけだがな、と内心で呟いて、呆
然と膝をついたリリスを見下ろす。
「・・・・そう、だったな。
あなたは、<神>だ。“ひと”ではない」
は、と力無い笑いと共に顔が深く俯いた。
「わたしが、愚かだったのだ。
“違う”ものに想いを寄せても、勘違いするほどに似て見えても。
あなたと、わたしは“違う”のだ」
いきものとしても、立場も、色々なことが。
冷厳として見えるよう、無表情に瞳を下ろしてその姿をただ、見ている。

 ルシが見ていた“地上”の<分岐>に異変がなかったのは、ある意味
当たり前だ。<アダム>が存在し降りる、という前提でしか進行してい
ないその場所に、それ以外の方向は未だ無かった。
アダムが降りなければそこにはまだ“何”も無い。未決の状態と区別が
つかないだろう。
 そして、<神>・・私の未だ存在しない“先”の時間の天界を、ルシ
は訪れることが出来ない。私の存在と連動するそれは、“未だ”そこに
存在しないからだ。
・・・よって、天界が内包する異空間という場所に居るアダムの未来も、
目にすることは叶わない。
更に。他の選択肢を長らく知らず、求めず。妥協を選ぼうとしなかった
アダムには、天上でのその道を分かつ<分岐>は無かった。
そしていま、その道は此処に通じていた。
「・・・。エル。
あなたは、この状況ですらわたしに手を下そうとしないのだな」
立ち上がったリリスが、私を睨む。
曖昧に微笑みを返すと、向かう表情が完全に怒りに変わる。
「その望みを叶えられないから。
受けても問題ないから刃を止めようともせず。
・・・あなたはそうして、わたしをただ見ているのか」
神の慈悲と博愛など、欲しくはなかったんだ、と。
「わたしは・・・
ルゥと呼ぶと笑ってくれる“あなた”が」
好きだったのに、という言葉と表情を、苦しそうに飲み込んで。
そのまま踵を返して、硬質な足音が駆け去ってゆく。


   「・・・・・」
  見送って、唯独り。
  誰も居ない“玉座の間”に私(かみ)の溜息が落ちる。
  ひとり。
  ひとりきり。
  今は、誰も私に気付かない。
  ラジエルも注意が完全に別のほうに行っているだろう。
   ふ、と。
  小さく小さく、囁きにもならない音で呟く。
  「“僕”を“殺せる”のはルシだけなんだよ、リリス」

  かれは特別で、誰にもその位置は替えられない。
  優しい手と心で、時の初めから僕と共に在ってくれる。
  そしてかれに“嫌われ”たくないゆえに。
  僕に向けられる笑顔と、様々な表情を失わないために。
   優しくて暖かな明るく、そして迷っても諦めずに。
   “より良い”選択を探し続ける。
  ・・・そんなもので在りたいという“願い”と小さな“約束”をけ
  して忘れない想いを抱(いだ)いて。
  僕は、かれ以外を選ばない。

  右手で半面を覆う。
  泣けたら、よかったのに。
  でもそれもきっと、リリスに見せてはいけないものだ。
  <神>は“ひと”ではないのだから。


 私は、それから暫く間を置いて。
小さな硝子の黒鱗を掌に握り締めたルシが、気色(きしょく)が引き過ぎ
て白いような顔でふらと現れるまで。
目元を覆ったまま、俯いていた。




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