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「ルゥ」 幼い頃の名残でそう呼びかけると、用事がある時でもそうでなくても、“箱 庭”に来ている時でもそうでない時でも、大概かれは優しく笑って応えてく れる。 小さい頃には、エの音が上手く口に出せなかったので本来は<エル>で あるかれを正確に呼べなかったのだ。 だけど、大きくなってもう支障は無い筈の今でもわたしはかれを『ルゥ』 と呼ぶ。・・・それは、この天界でかれを<エル>と呼ぶのがたったひ とつの声だけだということをもう知っているからだ。 だから、わたしもわたしだけが呼ぶ名前で呼びたい。 ・・・かれの大事な黒い鳥は、今度はいつ戻って来るのだろう。 わたしは、この<世界>の<神>であり<世界の管理人>である唯一 の存在である<エル>にこの世に生み出された、最初の“ひと”。 名前は、かれがそう呼ぶ<アダム>。 “天界”と呼ばれる、エルとかれを助ける“ひと”に似ているけどけし てひとではなく背にとりどりの翼を有する鳥たち・・“天使”の暮らす 世界の中の小さな世界、のそのまた一隅・・・にある、美しい木々と緑 と動物たちの居る特別な“箱庭”の中で暮らしている。 箱庭、といってもそれはそんなに狭いものではない。 広い草原や林に森、湖や海辺、丘や山のような場所。 見上げれば、晴れた日にはどこまでも広く高い空。 それはまだひとりきりの“ひと”であるわたしが暮らすだけなら、十分 過ぎるほどの広さをもつひとつの小さな世界だ。 起伏と変化に富んだそれらは、やがて成長を終えた私が降り立つことに なるのだという“地上”を模して造られているのだという。 といっても、わたしが降りる少し前に送られて整えられる予定だという 植物たちはまだ此処に居るので、本物の地上にはこの風景は現状で存在 しないのだろうけど。 エルがある程度大きくなったわたしに説明し、それからも時期ごとに 何度かわたしの理解度に応じて段階を置き徐々に詳しく話してくれたこ とは、かれが希望(のぞ)んだ“地上”の風景だった。 豊かで色とりどりの緑と水の中に過ごす、美しい動物たち。 穏やかに、ごくごく緩やかに増減し、殆ど争うこともなく。 エルや天使たちに比べたら短いけれど、きっと十分に長いのだろう緩や かな時に生きてそのうちで様々なものを作り出し歴史を紡ぐ。 わたしは“最初”であり唯一“天”で暮らしてから降りてきた始まりの “ひと”として、その地で暮らしてわたしの“一族”を生み出し、教え 導き、育ててゆくのだと。 天界のいきものである“天使”はわたしとは違う。 かれらはかれらの仲間を生み出さない。 それは唯一、かれらに似ているがかれらとは違う存在である<管理人> の<エル>だけがおこなえることなのだそうだ。 “卵”というそれは、もう暫くすれば少し様子は違うのだということだ けど、わたしも造り出すことになるだろう。 わたしの身体の中には“力”や“要素”を凝縮してそれを形作る仕組み があって、成長度がその段階に到達すればエルや天使にもある“臍”と いう部位辺りに普段はぴたりと閉じている“蓋”が開いて外に出すのに 十分になった“卵”が押し出されて来るのだと。 それはまだ成長を終えていないわたしの窪めた掌に載る程の真球状の形 状のもので、それに内在する質のいずれかを表す不透明な色彩で硬質の 丈夫な殻を持ち、生まれ出る日まで“子”を護っている。 その日を過ぎて間もなく卵が孵るに十分な時間が経てば、その子を連れ て天界を去り、エルとも別れて地上でわたしの有する時を終えるまで暮 らす。 <世界>を護るエルのように、“親”として一族の“子”を時間と共に ゆっくりと増やしていって地上をくまなく巡らせる。 わたしを補佐するものを選び、手を携え、やがて新たなものに引継ぎ、 代を変えていつか“此処”から消え行く。 ・・それは、すこしだけ寂しいけれど。 天から降りても全く“会えなくなる”わけではないと、教えてくれたし。 エルがわたしに希望(のぞ)んでくれた“夢”の風景を“現”にしたうち で、天使たちがそうであるようにわたしの役目を十全に果たす。 それは、誇りと満足をわたしに与えるだろうと。 わたしはずっと、信じている。 「アダム」 にこりと。 エルとは少し違うけれど、優しい笑みがわたしに向かって投げ掛けられ る。 外見はエルよりも大きく見えるのだけれど幾らか年下なのだというかれ は、今回もまた、暫く前の時に訪れた時とは違う見覚えのない新しい衣 服を身に纏っていた。 細身のすらりとした肢体をきっちりと覆っている、輪郭はわかるけれど 少し余裕のある草木のような柔らかなくすんだ濃淡差の緑の一揃いに、 肩からふわりと軽い透き通るような薄物を幾重にか重ねるように巻き付 けて半身と背に流している。 その薄布を丁寧に取り外すと、私に近寄って両手に捧げ持つようにして 差し出した。 「これ、綺麗だろう? きっとおまえに似合う」 くすんだ緑とも合っていたそれは、仄かに明るい金を帯びた複雑な白だ った。確かに、エルや天使たちの服同様の白だけれど、少し動きやすい 長衣を身につけているわたしが羽織ってもそれは違和感無く衣装の一部 のように調和するだろう。 そして、明るい金と白の色は、私の好きなエルの色彩に似ている。 細めた瞳が笑いかけるその眼差しは、わたしがそれを身に付けた状態を 想像しているのだろう。親しげな、暖かな気配が揺らめく。 かれは、わたしにいつも優しいし親切だ。 幼い頃はエルほどではないけれど、かれの膝にも乗っては絵を描いたり 覚えたての字を練習したり一緒に歌を歌ったり。そんな他愛もないこと をして合間にかれが笑うのを見るのが好きだった。 金と白のエルとは違う、黒と薄い赤を帯びた茶。 ほかの天使たちとは何だか違う、エルと同じように豊かな、でも似てい て違う表情。 わたしはかれが好き、だった。 ・・・・・その筈なのに。 エルの“特別”が“かれ”だけなのだと。 それに気付いてしまった時から、わたしはかれを疎んじようとする自分 に気が付く。 かれが優しければ優しいほど、幼い頃のわたしに向けたのと変わらずに 明るく親しげに手を差し出してくれる度に。 わたしはそれが“嫌”なのだ。 返事を返さず、やや俯いて曖昧な態度を取ったわたしに、かれは少し 残念そうに溜息を飲み込んだ。 「気に入らなかった、か? ・・私の選別眼はあてにならない」 伏せた瞼の面差しに、冗談のように続けた後半と飲み込んだ溜息の微か に憂う気配もとても“綺麗”、で。 無闇に、怒りのようなものを覚える。 何故、何故、かれはそんなに“綺麗”なのか。 わたしはわたしにエルが選んでくれた色彩とかたちを残念に思ったこと など一度も無いけれど、それでも。 かれを前にしているとその自尊心のようなものが揺らぐ。 なんで、“わたし”は“かれ”のようではないのだろうと。 そして、そして、こんな時にいつも思い返す。 戯れるように楽しそうに触れるエルを押し返すその手を。 エルの、どことなくほんの極僅かだけ残念そうな寂しいような気配を。 ・・・いつか一度きり尋ねたまだ幼かったわたしにエルは、これはルシ がルシだから仕方ないことなんだと、説明に困ったように言っていたけ れど。 もう大きくなったわたしは、わたしがその“位置”にいたら押し返した りしないと、かれらが互いに了承しているそれを理解したくないような、 わかっていてそれすらも羨むような混乱のような強い感情を抱(いだ)く。 わたしの気配が苛立つように変わったことに気付いたのだろう。 もう、見慣れてしまったのか、宥めるように淡く微笑んだかれは薄布を 傍にあった木の枝に掛ける。 「・・・風が吹いたら、きっと綺麗に見える」 その笑顔のまま、ふわりとその姿はわたしの前から消える。 ああ、何故。 時間は成長する喜びと共にこんなものをわたしに与えるのだろう。 エルと別れるのはきっと辛いけど、なるべく早く成長を終えて、地上へ 降りたい。 きっと、もっともっとたまに会うのなら、かれにも懐かしいような気分 で相対出来るんじゃないかと。 そう信じたい。 ・・・わたしが、エルとかれが“可愛”くて“綺麗”だと。 そう言ってくれたもので在り続けるために。 3頁← →1頁 |
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