ルシに何か異変が起こったわけではないことがわかって私は一先ず安
心したが。
“全ての取り返しがつかない”という事実と、自分の能力が肝心のとこ
ろで“役に立たなかった”ということが不安定になっていたルシに与え
た落ち込みようは、酷かった。
その辺で、床や窓辺に座って微かに俯いていた頃はまだ良かった。
そのうち、探し出して話し掛けたり触れようとする私から逃げ出そうと
するようになってしまったのだ。
時を渡ろうとはしないので何処に居るのか探すことは難しくないのだが、
高い木の梢の葉影だの、誰も滅多に来ない一隅など。
天界からも離れようとはしないのに、点々と場所を移しながら独りきり
で膝を抱えてどこか遠くを見ていたり、俯いて膝に伏せているかれの背
を見付けるのは、余り嬉しいことではない。
というか、ぶっちゃけそろそろ耐えられない。
 “嫌われた”んじゃないことはかれの見せる態度でわかる。
かれがそうしているのは、おそらく“自責の念”と“私のため”なのだ
ろう。そう、推測は出来るが。
正直なところ、繰り返されると微妙に理不尽な怒りが湧いてくる。
 ・・・リリスを叱責したりなど、出来るわけが無いじゃないか。
私は本来はこんなとき我儘で、大事な君(ルシ)の気持ちより、自分の気
持ちのほうが大事かもしれない。
じゃれて構うのを押し返すなんて、“仕様”でなくてもこれ以上は拒否
と言う君の意志だとしても幾らでもやってくれたって構わない。
・・・でも、君が“此処”に居るのに姿を隠し続けたり、ずっとこちら
を向いてくれないなんて。ちゃんとその顔が見られないなんて。
声が聞けず、話をしてくれないなんて。
そんなのは、嫌だ。
・・・嫌なんだ。
何度か夜が来て、日が昇った後。
とうとう、私は耐えることと待つことを放棄した。


 <ルシフェル>というかれを示す“響き”。
いつかラジエルを呼び出したのと同じようだが、少し違う“歌”を加え
て更に強引に喚び寄せた。
執務椅子に腰を下ろしていた私の真上の空中に、膝を軽く抱えていた姿
勢で突然現れたかれは予想もしていなかったのか、えっ?という微かな
声と共に体勢を崩して落下する。
その背を片腕で捉えてふわりと支え、机の上から脚を下ろして腰掛ける
ように載せてしまう。
「ルシ」
低めた声で呼び掛けると、漸く事態を把握したらしいかれが慌てて移動
ようとするのを制止する。
「・・・いい加減にしないと。
怒るぞ、ルシフェル」
まともに顔を見るのは何日振りだろう。
「・・・・・すまない」
仕事もしないで、とぼそぼそと呟きのようにかれは口にする。
ルシは、度々遊びの要素を入れたがる私と違って、仕事に関しては基本
的にとても真面目だ。
普段からすればかれだけの意向の完全な仕事放棄は至極珍しいことだが、
ルシにしか出来ない時渡りは現時点で必須ではないし。今、問題なのは
そこじゃない。
斜めにかれのほうを向いた椅子の位置から机に近い腕で、空いているほう
の側(がわ)で机上に頬杖をつき、あえてはっきりと不興気な様子を見せる。
「独りだけで、何をやっているんだ」
伏せがちだった瞼が更に落ちる。
・・・。
どうしても逃げ続けるのなら、と普段と違う態度をとってみようと思っ
たけれど。ここで叱ったところで逆効果か。
何時もの声の調子に戻して、でもやや真面目に。
とても心配していることと、何故こんな時なのに隣に居てくれないのか
を尋ねると、かれはまだ俯き気味ながらも漸く途切れ途切れに理由を話
してくれた。
 自分が“役に立つ”のか不安になったこと。
 この背の翼が“歪み”のような黒に変わることはないのかと、私を
 もしも“嫌い”になったらアダムのように変わってしまうのかと怖か
 ったこと。
深々と溜息をついて、ルシを真似て軽くぱちん!と指を鳴らす。
ルシが惑うような瞳を彷徨わせた。
「・・・・?
あ」
ルシがその掌に握り締め続けていた硝子のような塊を、鳴らした指先に
摘(つま)む私に気付いて、取り戻そうとそれを掴んでいた筈だった手が
差し伸ばされる。
その前に、自分の掌に握りこんで・・・分解した。
きらきらと仄かな光の砕片を空中に零したきり、黒い鱗は何も残さずに
消え去る。呆然とした表情を見返した。
「・・・エル! それは・・アダムの」
巻き戻せなかったこともあって、かえって別れ際に手にしたそれを形見
のように感じていたのだろう。哀しそうに瞳が揺らぐ。
でも、ダメだよ。
「君にアレはよくないんだ。
ほかの天使も大概同じだろうし、持っていてはだめなんだよ」
元々意志も気力も強いルシが多少沈むことはあっても、何日間もずっと
その状態を引き摺り続けるばかりか悪化し、心配の“原因”とはいえ私
を遠ざけ続けるとか明らかに極端だ。
落ち着かせるような口調で根気よく説明して宥めていると、ふと、痛々
しいほどに緊張し続けていた雰囲気がふわ、と解けた。
暗示のような呪縛が・・薄れたのか?
「・・・・。
エル?」
改めて、私が居ることに気がついたように、瞬きをする。
疲れたような溜息をついて、先程の俯きの代わりに伏せるのとはまた違
う風にゆらりと落ちかけた瞼に、小さな欠伸。
「・・ルシ、眠いのか?」
こくりと。
頷いた仕草は子供っぽい。
椅子から立ってごく近い位置で両腕を差し出すと、丁度届く高さにあっ
た私の首に遠慮がちにかれの両腕が回った。
「・・・・・。
何だか、ずっと“離れて”いたような、変な気がするんだ」
呟くような、声。
その腕と背を引き寄せて耳元に、聴き取りやすいようにゆっくりと伝え
る。
「ルシが僕を支えてくれるように。
君が疲れた時は僕が支えられる」
僕は、君が居ないと困るんだ。
だから、遠慮なんてしないでいいんだ。
心配を独りで抱え込んだりしないで、相談しよう。
僕が此処に在る間、ずっとこの<世界>に在ってくれ。
「・・・・。
わかった」
告げた言葉を全て聴き終ると。
ふへ、と零すような息だけで笑った私の大事な“相方”は目を閉じてそ
のまま私に凭れ掛かる。“甘え”の仕様はかれ自身に対しても有効だ。
ルシはかなり疲労しているだろう。
眠り掛けたかれをそのまま半分肩に担ぐように抱き上げて、私室に引き
上げることにする。今日の残りの仕事は、かれをちゃんと休ませること
だ。



***



 「・・・・」
ぱちりと目が開いて。
床の上の、ふわふわとした特別な白い敷物の上。
きょとんとしたような表情が、ひとりぶんほどの間を置いて同じ高さに
転がっている私の顔を見詰める。
・・・・滅多に眠らない上に、もう大きな私たちにとっては珍しい風景、
だよな。
「おはよう、ルシ」
笑い掛けると、ぱちぱちと瞬きした後に暫し思い出すように視線を巡ら
せて。
「・・・・。
おはよう、エル」
面倒を掛けた、と。
済まなそうに、かれは少しだけ素直に照れた気配で微笑んだ。
沈んでいた間の負荷の程度によっては記憶が飛ぶ可能性も考えたが、大
体覚えているようだ。
ほっとして、もう普通の顔色に見えるその頬に指先を触れる。
今度は、不自然な不安とたじろぎは返らなかった。
瞳が、私を見遣って安心したように笑う。
それに笑みを返し、手を離して半身を起こすと伸びをする。
「んー。
久々になんか、ちゃんと“眠った”気がするな」
先程、一足先に目を醒ますまで。まだ疲れが完全に引いてはいなかった
私もルシと一緒に眠っていた。
・・私だって、そう簡単に色々割り切れるほど達観出来るわけじゃない。
今回のことで露見した問題点も色々あることだし。
色々なことが山積みになっている。
・・・だけど。
今は、君の顔をちゃんと見られて、遣り取りが出来る。
君が私の前で笑ってくれる。
それが幸せでとても貴重であることを、忘れないように。
 「・・ルシ」
まだ寝転がったまま、ふわふわの白いものが気になるのか少し不思議そ
うに何度も撫でたり頬をつけて感触を確かめていたかれが、ん?と見上
げる。
天界では必要頻度の関係で、私室に“固定寝台”を置いていることは少
ない。大雑把な私は敷物の上で適当に転がっていることが多いしな。
これは、今回かれのために思いつきで創ってみた寝具だから、気に入っ
てくれたなら嬉しい。
「それ、気に入ったか?」
敷物は大型の絨毯のようにかなり大きい。
私にとって狭過ぎも広過ぎもしない部屋の中央寄りを、床面積でいうと
半分近いほども占拠しているそれの余裕分を楽しそうに引っ張り寄せて
抱え込みながらルシは言う。
「・・・・“昼寝”でもしに来るかな」
此処に置いておけということのようだ。
白いふわふわに埋もれたかれが、目を細めて笑う。
黒髪に手を伸ばしてくしゃくしゃにしてみると、手が伸びて押し遣られ
る代わりにぼふっ、と抱えていたふわふわを押し付けて遮られた。
「こっちのほうが触って楽しいじゃないか。
エルも心置きなくもふもふすべきだ」
その柔らかな白に隠れて、軽くたしなめるような口調が笑っている。

 ・・・やれやれと、肩を竦めて。
やっと日常の気配がほんのりと差し始めたことに、安堵の溜息をついた。



・・その筈、だった。






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