最下層。
再び起きた揺らぎでプートとはぐれてから暫く経つ。
回復はアイテムを幾つか持たされていたから無理しなければなんとかなっ
たが、補助の有無はかなり違う。
最低限の相手だけして、可能な時はガーレのスピードで中空を掠めて擦り
抜けた。
 念のために、と持たされていた“光の滴”を手にして教えられた通りに
強くイメージする。
神が私のために造り出してくださった造形を。
ルシフェルが最早数えるのも難しいほど何度も纏わせてくれたあの純白を。
ほぼ元通りの姿を現した鎧の姿に、全破損前の補修なら貴方でもこれを使
えば不可能ではない筈です、と万全を期しておいてくれたプートに感謝す
る。
 気合を入れ直して、大きな扉のように見えるそれを見上げた。
辺りは静かだ。耳が痛いほどに。
扉を軽く押すと、ひとりでにそれは開いていく。
暗い通路の向こうに、薄緑色の四角いものが見えた。
・・・。
あれが、硝子の?
駆け出しそうになる足を押さえて慎重に早足で通路を抜ける。
どこからか薄明かりの射す広い白っぽい石造りの部屋の中には、一段高く
なった場所に薄緑色の半透明の箱のようなものがあるだけ。
ほかには誰も、居ない。
角の少し丸まった箱はどの面も同じ大きさで、薄明かりを透かしてぼんやり
と輝いている。
そしてその中・・というか底に、黒っぽい影が見えた。
「・・・ルシフェル!」
思わず警戒や他の事を一瞬全て投げ出して駆け寄る。
ひんやりした表面に掌を押し当てて覗き込むと、そこにはあの影絵の通りに
ルシフェルが仰向けに転がっていた。
「ルシフェル?」
コンコン、と箱の表面を叩いてみるがかれは身動きひとつしない。
透明と不透明がまだらになっている表面を透かしてでは、箱が大きいことも
あってかれの様子がよく見えない。
蓋か扉はあるのかと底になっている以外の全ての面を確認するが、どうやら
これは完全に密閉されているようだ。
と、判断した瞬間に時限という言葉が脳裏に蘇り。方向を見定めてから、双
盾状態で持っていたベイルの右手のほうを一つの端に寄らせて縦に斬るよう
に思い切り上から叩き付けた。一瞬で粉々になった一面分だけが床に積もっ
て半透明の砂の山を作る。
それを踏み越えて床に片膝をついた。
白い。
最初の印象はそれだった。
半身を抱え起こしてみるが、人間で言うなら血の気というものが根こそぎ消え
たような肌は黒い服と薄明かりの中でかつて記憶にないほど白く見えた。
軽く揺すってみる。
「・・・遅くなってすまない。
ルシフェル」
僅かに躊躇ってから頬に手を当ててペチペチと叩いてみる。
すると、ほんの微かに薄く目が開いた。
口元が動いた気がしたが、目はすぐにまた閉じてしまう。
それきり、動かない。
生きては、いるのだろう。
天使(みつかい)は死んだら消えてしまうと神が仰っていたから。
目を開けて何か言おうとしたから、意識もまだきっとあって。
でも。
でも・・・

『愚かな人の子 夢から醒めや』
唐突に響く、あの多重に重なる錆びた声。
今度はプートに防護をかけて貰っていたので耳を傷めることなく聞ける。
『天とその鳥は 繰り返す』
『カナシイことを 生み出す装置』
キリキリキリ、キリキリキリ。
歯車の回る音がする。

「・・・私には、あなたの事情はわからないが
何故、こんなことをする?」
ルシフェルを抱えたままでいいのかどうか思考の隅で考えながら、問い掛
ける。
「いいたい事があるのなら、神とルシフェルに直接告げればいい。
ルシフェルは此処に来ていたし、神も呼びかければきっと聞いて下さる」
パシン、と。
何かが鳴った。
恐らく相手の苛立ちが無形の力となって空気を切った音。
私の頬が熱く感じる。たぶん横向きに大きく切れているだろう。
ただ、この程度であればすぐに治ってくれるのだが。
その消えてゆくだろう傷を見たのか、声は言う。

『人ではない 人の子よ』
『異形は この世で暮らせぬもの』
『心ゆえに 姿は変わる』
『おまえの意志も 黒と変われば』
『近しきものも 刃となろうぞ』

5つの響きが同時に不協和音を奏でたので、流石に聞き取れない。
ただ、相手がずっと忠告をしようと言っているのだけは理解できた。
どういうつもりであるのかはわからないが。
もう一度話しかけてみようとした時。


『もう直(じき)に それは消える』
ざらりとした音に変わった、もう歌わない声。
『おまえの夢も 醒めるだろう』
それはどこまでも冷ややかな嘲笑。


腕の中の姿に目を落とす。
確かに此処に、まだ此処に居るのに。
ふと、気付いた。
“天”と“鳥”を厭う相手。
硝子を砕いて取り戻したのに、相手がそれ以上何もしようとしないこと
を。それは。
急いでルシフェルの気配を探る。
それは微かで、先程よりも弱い。
 ルシフェルは神が誰より愛されている鳥だ。
天と鳥を嫌うものであり、天に座するものに手が届かないならば
鳥を喪わせるのが 何よりも効果的な一撃だと
この声は知っているのだ。

ルシフェルをそっと部屋の入口のほうに置き、プートのくれた護符を
傍らに残して箱のそばに立つ。
・・・・このままここから去らせてくれる筈も無い。
この相手を止めなければ。
きっと・・

『手向かうつもりか “救世主”』
それは、ただの記号だと声は言う。
先程とは比べ物にならないほどの強烈な熱く冷たい怒りと気魄の気配が押し
寄せ、綺麗に修復されていた筈の鎧が殆ど砕け散る。
『それ、が居ないと
おまえの使命に支障があるから必死なのか?』
『全てが無駄に終わるかもしれぬのに』
『操り人形の箱庭遊びで』
声が、ふと遠ざかる。

 
 “イーノック”
 窓辺で笑う、黒い服の姿。
 今とは少し違う服だったけれど。
 笑顔も、声も、姿も。
 変わらないけれど、ほんの少しづつ。
 何かが変わっていって。

 いや、変わったのはきっと私だ。
 その声をずっと、聴いていたかった。



烈風が通り過ぎたのに気付き、私の中で何かの箍が外れる音がした。

「・・そうだな」
ベイルを両手から取り落とし、ジーンズの腰の後ろに畳んで留めてあったア
ーチを引き抜いて、開く。
「そうなのかもしれないが、今はそんなことはどうでもいい」
閉じていた目を開く。
表情は無表情だろう。私は今どんな顔をすればいいのか解らない。
アーチの刃が渦巻くような風の音を生み、青白く輝いていた神の光が白金に
変わる。
パリパリと微かな音を立てながら全身を小さな放電が駆け巡り、髪に纏わり
ついて火花が散った。
 声が、僅かに驚いたような色を浮かべた。
『おまえ・・ それは紙一重だぞ』
可笑しそうに笑う声は、どこか空々しい。

視界が少し変わっている。
“空間”にわだかまる闇が見える。
此処からは少し遠い。
だが、全力で通せば一撃くらいは届くだろう。
アーチに意識を集中する。
最大出力分の力を引き絞り撓めて、ぎりぎりまで集める。
あと、少し。
思考には、躊躇は無い。
ただ、計っているだけ。
そして・・・解き放とうとした時。


「・・・いーの・・っく、やめ・・・ろ」
小さな、声が届いた。
微かな掠れた音。
でも、その声だけは今聞き落とすわけがない。
振り向くと、床の上で顔が傾きほんの少し開いた目がこちらを見ている。
「わた・・しはだいじょ・・・」
振り絞る声が途切れて、力なく咳き込む。
 ・・・・・・。
意識が唐突に元の状態に戻る。
落差に少し頭を振って、急いでかれのもとに駆け寄る。
傍らに置いてあった護符は先程の吹き付けていた烈風に負けたのか粉々に
砕けていた。
一瞬考えてから、また目を閉じてしまった身体を両腕に掬い上げ。
私はその場から遠ざかるべく、残りの気力を奮い起こして全力で駆け出した。




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