<Flag> 「イーノック、座れ」 ここまでの旅のそう短くもない時間の中で耳慣れた感のあるルシフェルの声が、 余り聞かない響きをもって私に向かってぶつけられる。 ・・・別に叱責されているわけではなさそうだが、なんとなく苛立っているよ うな、そんな感触だ。 この旅の発端が神に承認された私の意志によるものであるためか、ルシフェル は任務に関することではこうしろとかああしろとか、指示するような言葉は使 わない。助言や忠告にしても曖昧だったり遠まわしだったりすることが殆どだ。 つまり、これはそれ以外のことなのだろう。 黒紗の袖から伸びる右手の人差し指が、すぐそばにあった低い石囲いの壁面 を示している。そこに寄って座れということか? 此処はこの区域の途中にある、安全圏のひとつだ。 見た目は古びた石畳が低い石柱に囲まれただけのような場所だが、ここ最近の 経験をもってしても害意のあるものはそうそう近寄れない。 外周ぎりぎりで背を向けても滅多なことにはならないだろう。 僅か間を置いてそこまで考えてからルシフェルに頷くと、かれの指示の通りに 壁板に背を預けて座ってみた。石板は私の体格と比べても十分大きいものなの で背を置く位置に困ることもなかった。 見上げる格好になったかれの様子を窺ってみるが、先ほど指差していた右手が 軽く握り締められている以外は動こうとせず、やや俯いた目線はどこを見てい るのかよくわからない。 「・・・ルシフェル?」 声をかけてみると、はたと気がついたかのように瞬きをして視線がこちらに向 いた。目が合うと、薄い赤を刷いた柔らかな茶色の眸が見返してきたが、すぐ にそれは眇められて表情が怒っている時のものに近くなる。 そのまま、つかつかと数歩の距離を歩いて詰めたかれは次の瞬間予想外のこと をした。 「!」 普段、大概のことでは余裕のある動きを崩さないかれが、至極無造作に見える 仕草で身体を投げ出したのだ。 ただ、それは無造作に見えても無作為ではなく、とすっ、と落ちた先は座り込 んでいた私の膝上だ。 背丈はさして変わらないが、細身で人間ではないかれは見た目よりも大分軽い ため、その気でぶつかってこなければ大した衝撃にはならない。 私は鎧を着たままだから普通にぶつかったら痛いかもしれないが、ルシフェル が付与した装備は付与者自身にはおそらく影響しないだろう。 「・・・椅子にしたかったのか?」 落ちかけた背をとっさに左腕で支えると、横座りの体勢で細長い足をはみださ せているルシフェルは、やっぱり苛立だしげな様子で軽く首を振る。 「寒い」 「・・・え?」 そのまま、少し身体を縮こませるようにして私の胸に凭れたかれは、腕を組む ようにして自分の上腕を掴んでいる。人間であれば確かに寒いときにする仕草 だ。 でも、胸元にある黒髪を見た私は旅の最初の辺りにしたやり取りを思い出した。 以前に比べて格段に薄着になっていたルシフェルに向かって寒くないかと聞い たときに、人間ではないからと答えて至極普通そうにしていたのだ。 かといって、いつでもどこでも大丈夫だと聞いたわけでもないし、天界でそれなり に過ごしたからといって天使の生態に詳しいわけでもないのだが。 現在の外気温は、人間の私の体感からするとどちらかというと暖かめだ。 「具合が悪いのか?」 これまでルシフェルの体調が悪いところなど見たことが無かったので、心配にな って空いている右手を伸ばして額にあててみたが、体温は触れた記憶にある限り の通り人間にしたら大分低い温度でひんやりしていた。 手計りではわからないか。 「・・・寒いだけだ」 不機嫌そうないつもより低い声と共に閉じられていた瞼が上がり、顔が上向いて 至近距離で告げられる。 「・・・寒かったら言え、と言ったのはおまえだろう・・・?」 あの時、軽く引き寄せたついでに髪を撫でてみただけで結構怒られたので、もう すっかりありえないものだと思って忘れていたのだ。・・・そういえば、あれは多分 子供扱いされたと思って怒ったんだろう。 「・・・・すまん。 役に立てるかわからないが」 少しでも熱が伝わるよう、慎重に両腕で抱え込んでみる。 ・・・本当に具合は悪くないのだろうか。 薄い上衣越しに、緩やかに呼吸している背と、ほんの微かに震えている腕の感触 が伝わる。また丸まるように姿勢を戻して目を伏せたルシフェルは、ふ、と一つ 溜息をついた。 私の顔の真下に白い首筋とそれから続く肩があって、黒紗に織られた模様を透 かした背が見える。 見慣れてしまうと余り気にしてはいなかったが、寒いと言われればやっぱり寒そうだ。 ただ。今ルシフェルが震えているこれは、何か羽織ったり火にあたったりすれば解 決する類の寒さではないということだけは、なんとなくわかった。 いつもならなにより心強い鎧が、直接触れる面積を狭めている気がして微妙に もどかしい。 せめて、もう少しだけ触れて。 もう少しだけ、熱を分けて。 でも、直裁に言ったら今の状態も大分普段からしたらありえないルシフェルがい つもの調子を思い出したら離れてしまうかもしれない。 ・・折角頼ってくれているのに。 ・・・ふと、思い出す。 これで通じるだろうか。 「・・・。ルシフェル、この状態だと難しいな。 “貴方の翼を見せてくれないか?”」 一旦きょとんとしたようにこちらを見遣った顔が、間を置いてぱちり、と開け 閉めされた瞳に理解を浮かべた。 「・・・・・。 仕方ない、な」 微苦笑を浮かべた口元が、先程とは別の溜息をつくと同時に。 翼を模した純白の鎧はきらきらとした輝きを残して消え、ルシフェルの背にふわ りと夜明け前の色をした暗色の翼が現れる。 「“とりあえず一対だけな”」 聞き覚えのある台詞を口にしたルシフェルが可笑しそうに小さくくすりと笑った。 隔てていた鎧がなくなったので、一瞬躊躇してから背の翼ごとルシフェルを抱 き締める。 「・・・ろっと」 少しだけ驚いたらしいルシフェルが身じろぎしたが、私の腕に篭る“離さない” という意志を感じ取ったのかやれやれというように軽く肩を竦めると、力を抜い て呟いた。 「・・・これも邪魔だな」 さっきまで確かに実体だった背の翼の感触が消えたので、僅かに空いた分の翼 の隙間を埋めるように腕の輪を調節する。 ふっへへ、というあの独特の笑い方をしてもそもそと収まり直したかれは目を閉 じた。 暫く様子を見ていたが、どうやら本当に眠ってしまったようだ。 かれが寝入るところというのもこれまで見た記憶がない。 眠っているらしいところなら見たことはあるのだけれど。 寝顔が可愛いとか言ったら、子供の癖に生意気なとまた怒られた挙句、こちら が寝ている間に顔に未来の筆記用具だという独特の香りがするとても落ちにくい もので落描きして笑っていたので、そっちのほうがよっぽど子供だと思う。 こんなふうにおとなしく私の腕の中に収まって眠っている状態なんて想像した事 もなかったが、悪くないな。 ・・でも、やっぱり貴方は元気なほうがいい。 「・・おやすみ、ルシフェル」 そっと黒髪に口接けて眠りの平安を祈ると、眠そうな声が返った。 「・・・おやすみ、イーノッ・・・」 語尾は溶けて消えて、あとは音のない寝息に代わる。 おやすみ、ともう一度心で告げて。 天使の眠りを護るべく、私は両手に祈りを込めた。 END. [次頁注意:同場面ルシフェル視点・捏造設定MAX&大分思考がカオス] |
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