「やあ」

いつのまにか、窓辺から差し込む光に柔らかな影が落ち。
もう耳に慣れた、でも久し振りの声が静かな部屋に響く。

「・・やあ ルシフェル」

忘れるわけもない名前なのに、口を開いて音にするのに思考と行動の時間差
を感じる。ちゃんと笑ったつもりだが、表情は大丈夫だろうか。

時間を操る能力を持つというかれはいつも唐突に現れるので、最初のうちは
結構慌てる羽目にもなった。
どういう風に見えているのかはわからないが、私の所に来るときは<私>を
目標にしておおまかな時間の目安で跳んで来ているらしい。たまに言動の時
系列が前後している。
本当はきっちりと日時や場所などを指定して行き来することも出来るそうな
のだが、膨大な“時間”を飛び回るかれは必須事項でなければ余り規定的な
事は考えたくないらしい。

しかし、今日はとても良い頃合だった。
昼食も済んで覚書を読み直していたところだったのだ。
迷うことも無く紙束を机の端に置いて、お気に入りらしい窓辺に座るルシフ
ェルに向き直る。

時々、別の時間からの土産を持ち帰るかれは、今日はまたどこからともなく
一冊の本を取り出すと私に向かって笑ってみせた。
別の時代では、「共通語」と「天使語」しかない今と違って“国”や地域や人々
の集団ごとにとても様々な言葉や文字があるのだそうだ。
時間を渡って見聞する仕事の為にルシフェルには神がどの時代の言語も使い
こなせる能力を授けているそうでかれは困ったことはないそうだが、私のほ
うはそうはいかない。
だが、様々な言語や文字は断片的に聞いたり見たりするのでも面白いのだ。
私が興味をもっていることはわかっているので、たまにこういう文字や絵の
かかれたものを持ってきてくれる。
手渡されたものは、おそらく絵を主体にした絵本と呼ばれるもので、つやや
かな装丁に美しい色合いの絵に添えて、ルシフェルが時々口にする“ニホン”
という国の文字がほんの少しづつ並んでいる。
この国の文字は3種類の表記が組み合わさっているため、簡単な表記でも覚
えていないと判読が難しい。
どうやらこれは絵本は絵本でも詩の本で、子供向けな簡単なものではないよ
うだ。絵を見ていればなんとなくわかるものもあるのだが、“カンジ”とい
うらしい表記の単語の一つが、どういう意味で添えられているのか気になっ
た。
ルシフェルに尋ねてみようとした・・が。
昨今また口を開く機会が順調に減少しているせいか、どのように切り出して
尋ねようかというところで引っかかってしまう。
かれは気さくでこちらの言葉遣い(出会った当初に言い渡された敬語・丁寧語
禁止!という以外では)には余り頓着しないから、思いついたことから喋って
もさして気にはしないだろうという事はわかっているのだが。
普段している書き物と違って、型にはまりにくい会話は普段からしていないと
なんというか・・・コツを忘れる。
少し逡巡してから、文字を指差して一番簡単に尋ねた。
「・・・これの 意味は?」
一瞬後。
もう何度目かはわからない表情がルシフェルの白皙の面に現れて、柳眉が微か
にしかめられるのを見た。


「イーノック・・、」

呼びかけた声が止められて、かれが音のない溜息を流すように視線を外したの
が分かった。
・・・また、やってしまった。
かれは普段適当そうに見える風情とは違って、こういうことには意外と聡い。
私が喋ることに引っかかって、更に一番楽な手段を取ったことは、もう“理解”
しているのだ。
最初の頃のような会話を思い出そうとしてみるが、喋った内容は思い出せなく
はないのに、それは遠く遠く、現実感のない光景で。
いつものように、本当に済まなく思って謝意を込めて笑ってみせたつもりだが、
どういう表情になっているのだろうか。

かれは一度、これは自分の我侭だと言ったことがある。
だからおまえは言うことをきけと。

白い肌に細身の肢体。短い黒髪と薄く赤を帯びる茶の眸。
天使(みつかい)のうちでも特別な、時を操る永遠の渡り鳥。
最初に会ったあの時の記憶のままのかれと、今似たような位置で居る私の姿も
見た目だけは特に変わったような気はしないというのに。

“人間(ひと)”というものは、
降り積もる時の重さにどこまで耐えられるのか・・・。






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