ナンナは、とうとう泣き疲れて眠ってしまった。 その大した重さでもないまだ子供のうちにある、伸びやかで逞しいけれ ど華奢で脆くもあるものを、腕に抱えたまま。 どうしようかと思案しようと思うけれど、自分自身がまだ事態を把握で きていない。 ・・・・・というよりも。 余り、具体的に考えたくは無い。 これは、逃避なんだろうか。 でも。考えたくなんか無いんだ。 少女と一緒に道連れであった、黄色い柔らかな“個”であるいきものが。 それと・・ あの時からずっと、天界で訪ねれば目にすることが出来た姿が。 この旅の間ずっと、ずっと傍(そば)に在ったものが。 “地上”の、殻有るいきものである筈の二人が。 なにひとつ残さずに消え失せてしまったかもしれない、だなんて。 半身を起こした位置から動くことも出来ずに、眠る人の子供独特のもの だと彼に教えられたその温かみを感じながらぼんやりしていると。 ・・・唐突に。 高台の上、数歩分離れた位置に。 きらきらと、“何か”が集まり始めた。 それは待つまでもなくかたちとなり、<神>の過去の時の影のように見 える金色の、人ほどの大きさの色彩が現れる。 縦長の丸く朧な、まるで繭のようなかたちをしたもの。 「・・・?」 エルだったら“わかる”が、この影は・・ 判断できない間に金影ははっきりした人の姿を取り始め、見る間に白っ ぽい金の髪を緩く風になびかせた見覚えのある褐色の容姿が現れる。 黒青いジーンズと革サンダルだけを身につけた格好も変わっていない。 「イーノック・・?」 半信半疑で口にすると、閉じていた目が開き、見慣れた色彩がこちらを 見る。 明るい色の緑、水の色。 同じ場所に立っている、記憶と変わらないもの。 確かな気配と、その実体。 「・・・・。 ルシフェル、ただいま」 「・・・・」 おかえり、と応えたかった。 どうしたのか、尋きたかった。 でも、今はそれよりも。 「・・ナンナ! ナンナ!」 急いで揺り起こすと驚いたように顔を上げる。 疲れた様子だった顔が、彼を認めてぱっと明るい表情を浮かべた。 それでもまだ、暗褐色の片手は不安を抑えるように私のシャツの胸元辺 りを軽く掴んでいる。 「・・イーノック! 戻ってきたの? あ・・ ねえ、ネフィリムは?」 その言葉を聞くと、イーノックは少し俯いて答えた。 「かれらは色々な<世界>の構成要素を取り込んで大きくなっていたか ら、それらと一緒に、元が形作られる前に“還した”んだ。 ・・・・またいつか、別の形で生まれて来ると思う」 「・・・。 そう・・」 ナンナは少し寂しそうに俯いたが、もしかしたらこの世の誰よりもかれ らに近しくあった少女は、それでも笑う。 あのままであっても、かれらは此処では普通に暮らすことができなかっ たのだから、そのほうがきっといいのだと。 「ありがとう。みんなを助けてくれて」 イーノックは笑ったナンナに少し安堵したように小さく微笑んでから、 自分の右肩の上に手を伸ばした。その褐色の指の上にいつのまにか檸檬 色の丸っこく愛らしい小鳥がちんまりととまっている。 「それと・・ “かれ”は私の中に、一緒に残っていたから。 新しい姿を造ってみた。これなら差し支えないだろう」 小鳥はチチ、と小さな声で囀るとナンナの肩に飛び移った。 明るい青い水の色の眸が少女の顔を覗き込む。 「・・・ネフィリム!」 花が咲いたように嬉しそうな笑顔になった少女の周りで輪を描(えが)く ように羽ばたく小鳥と、立ち上がって私から離れ、くるくると回ってそ れと遊ぶようにする元気を取り戻した様子に安堵して。 やっと、イーノックに向かって改めて口を開く。 「・・何があったんだ」 楽しそうなナンナたちを見られる位置に少し離れて、地面に腰を下ろ したイーノックの隣に自分も座る。抑えていたが、まだ完全に平静を装 う力は戻っていず多少ふらついていた。 それに気付いたのか背を支えて、こちらに凭れていればいいと促すよう に肩を貸してくれようとする彼を遮った。座っていることくらい出来る。 それに、事情がはっきりするまでは気軽にその腕に頼る気にはなれなか った。 ・・・信用出来なくなったとかじゃない。 ただ、ただ・・。 まだ私が状況を把握出来ていないから、先程までの途方に暮れたような 気持ちを落ち着かせるまでは、安易に彼に甘えて気を緩めて、疲労でう っかりまた眠ってしまうわけにはいかない。 その腕も胸も、たとえこれまでと何かが変わっていようと。 見た目も伝わる気配も記憶にあるものと同じであるように、温かくて優 しいことは“わかって”いるから。 だからこそ。 こっそりと、胸の内で溜息をつくようにしてから。 彼に、私が意識を失ってから現在までの経緯を話すよう促した。 「貴方が眠っていた間に、ネフィリムたちを全て私の中に“融合”させ て、最後に私自身を“還元”したんだ」 ・・・。 淡々と言っているが、それは普通、仮にも人間の範疇に居る者が出来る ことではない。 「あの足跡があるということは、殻もほかのものも全て取り込んで“還 した”のか」 「ああ。どこまで大きくなるのか心配だったが、幸い“九体分”では大 気を越えるほどではなかったみたいだ」 ・・・・・。 何程でもないかのことのように、口にする。 当人が、そうでないことは一番よく解っているだろうに。 「・・無茶をする・・・」 「・・・。 貴方に、あんな無茶をさせたんだ。 私も、出来るだけのことをしたかった」 「・・・! おまえのそれは、私のそれとは問題が・・・っ」 黒色を取り込んだときに揺すぶられた感情の名残なのか、あの時は暴走 しないように完全に加減を統御できていたが今頃少しだけ不安定だ。 無い筈の心臓が酷く痛んだような、胸の奥に感じるものをどうにか押さ え込んで、続きを促した。 「ナンナは、おまえとネフィリムが消えたと言っていた。 その後はどうしたんだ?」 「その後は、気付いたらどこかわからない場所に居て <上神>にお会いした」 「・・! ということは」 「ああ、<引継ぎ>は完了だそうだ。 私は、出来得る限り“元に近く”なるようにと願ったから。 もう暫くすれば、<世界>は本来に程近い姿を取り戻す筈だ」 ふと、周りを見ると岩とからからに乾いた土しかなかった場所にうっす らと緑の植物の色が現れ始めている。 だだっぴろい平野となっていたネフィリムたちが居た場所も、元々あっ たようななだらかな隆起や色が徐々に戻ってきているようだ。 この星の“地上”だけではなく星の海を伝わって、神の本体に程近しい “中核”の一部でもある此処から、異常は波及していた筈だ。 ・・それもきっと、石を投げ込んだ水面がやがて静かになるように収ま ってゆくだろう。 「・・・ただ、修復のために、<エル>が残されていた力と私の中に蓄積 していたもの、それとネフィリムたちが人よりも大きくなっていた器分の 力も使わせてもらったから、今の私には殆ど当面の維持以上の余剰な 力はない。 先程ナンナのネフィリムの為の器を造ったのが、今任意に使える分で、 あれきりだな」 一つ、溜息をついて片手で頭をわしゃっとかく。 イーノックが、ずっと“神”とだけ呼んでいたかれを<エル>と個名で 呼んだことにふと、彼とかれが“同じ立場”にいるのだということを認 識する。その名を呼ぶ響きからは元々あった深い敬意が失われたという わけではなく、“同じもの”としての近さを彼が得たからだろう。 変わりないものと共に、独特の親しみのようなものが仄見える。 「長く時間が経てば、多少は戻る力もあるだろうが・・・ 出来れば非常用に置いておきたいからな。 ・・見ていることしか出来ない<神>に、意味はあるだろうか?」 ゆっくりと確かめるように珍しく少々長めに言葉を繋いだ後。 ふと呟かれた自信のなさそうな声に、つい横から顔を覗き込んだ。 大丈夫だ問題ない、が決まり文句のこいつにしては非常に珍しい気弱な 台詞と声音だったから。 少し考えてから、答えを返す。 「・・・エルの造ったシステムがなくなるわけじゃないんだろう?」 <神>の引継ぎが行われても、ほかの天使たちや天界の存在は後任が刷 新しない限りはそのまま残る筈だと以前エルが言っていた。引き継ぐものは “この<世界>”から生まれたものだからだ。 イーノックが“なるべく元の通りに”と願ったのなら、他も大方その通 りだろう。 「ああ」 「・・・なら、問題ないんじゃないかな? どうしても必要なものがあったら、また考えればいい」 多少の力だったら、大天使たちから集めればいいんだと続ける。 エネルギーはあくまでエネルギーで、“創造”や、<世界>の方向を決 定付ける“選択”の操作が出来るのが神だけだ、という話だ。 「まあ、私も今回は大分消費したからな。 自然回復に頼ってでは・・・<世界>そのものが十二分に回復して、こ ちらに常時余剰を分けてくれるまでに戻るには、まだ随分とかかるだろ うから。・・・遠そうだな」 あてには出来ないぞ?と言うと、そんな無理を言うつもりはない、と真 面目に返された。 「当分は・・時の旅もお預けだ。 新米な神のおまえに小言でもいいながら、暫く怠けて一休みするかな」 冗談交じりに口にすると、イーノックの目が何かを思い出すように細め られた。 「・・・貴方の綺麗な翼を、・・損なってしまった」 すまない、と落ち込んだような声が聞こえる。 ・・。それは仕方がなかったことだ。おまえのせいじゃない。 私は自分の翼の色が気に入ってはいるが、普通の天使ほど翼自体に頓着 はしていないんだ。早急に必要になる事態などが起きなければ、然程問 題は無いだろう。 ・・・ただ。 この翼は、おまえが“綺麗”だと言って。何だかすごく純粋な憧憬を込 めたように気に入ってくれていたから。 こんな状況ですら中々私の口からは出て来ない、よくやったと言葉で賞 賛する代わりに。何時も通りのそれを広げてその肩を包んでやれないの は、残念だと思う。 今なら六対全部を現して、もふもふしてやっても全く構わない気分だ。 「翼もエネルギーで出来ているのだと、前に言っただろう? 力が戻れば、それにつれてまた変わらない状態に戻るから。 時間が掛かるという、それだけだ。・・安心しろ」 笑いかけると、上がった顔がつられたように微笑んだ。 「元通りになったら、今度はもうちょっと長く見せてやるから。 ・・・最初に見せたとき、本当はちゃんと見て、出来れば触ってみたか ったんだろう?」 何度か見せた時にはほんの短時間しか出していなかったけど、彼は私の 翼が本当に気に入っているようだった。ナンナに説明しているときも、 嬉しそうにとても綺麗なのだと言っていて、その時はまだ目が見えなか ったナンナには背に現しても外見としては把握出来ないから直接の“絵” で視せてみたのだけれど。 確かにとても綺麗だけど、あなたが自分でそう思うよりもイーノックの 記憶にあるほうがきっともっと“綺麗”なんじゃないの?と。くすくす と笑われた。・・・脳内補正というやつだろうか? 人間の記憶は、時間の経過で美化されるとかいうしな。 まあでも・・、今回は目にしてからそれ程経っても居ないしそんなこと も無いだろう。 イーノックは私の言ったことに驚いたようだった。 「・・いいのか? 貴方は余り、翼を出すのが好きではないようだったから・・」 首を振って肩を竦める。 「邪魔だから、というだけだ。 たまには陽に当てないとな」 今度は冗談だということが通じたようだ。 普通に笑って、そうだな、と返った。 14頁← 12頁→ |
<Second>目次/落書目次/筐庭の蓋へ |