ネフィリムたちの<世界>を“食べる”行動は、最後に残った九体の かれらからその身を染めていた“黒”が消えたことで一旦止まってい たが、このままでは遠からず何らかの形で再び動き出すだろう。 黄色くても、このまま置いておいたらまた空虚を埋めるために食べ始め る。手近に目立つものが無い現状では、かれら同士か。 または、それ以外のものを求めて歩み出すか。 上空の異変は引っ張られるのが止んだせいか今はもう殆ど薄れてわから ないが、一時的にでも境が“窓”となるほど近付いたことは確かだろう し。あれをまた進めるようなことが起こるとも限らない。 ・・・かれらに、滅ぼそうという悪意があるわけではないのに。 そのように生まれつき、自分の意志ではその先を選べないゆえに。 崖のようになっている高台の上で、ナンナとネフィリムは寄り添うよ うに座って互いに腕を回して。 今はもう黒炎も跡形も無いその広大な平野のうちに遠目に聳える巨大 な黄色いネフィリムたちが、まるで何かのひとつの建造物のように円陣 を形作り、かれらの範囲に対するルシフェルの時間停止が解けた今でも、 互いを見詰めたまま位置を変えずに立ち並ぶ光景を眺めている。 少しだけ間を開けて、ルシフェルを片腕に抱えて膝をついている私も、 それを視界に捉えていた。 ついてきてくれて、私たちが対峙している間ずっとナンナたちの安全 を確保していてくれたウリエルには一旦ほかの三天使が護っている“方 舟”に現状を伝えに向かって貰っていた。 現在、<世界>の均衡が狂っている状態で普段はかれらの間であたりま えに近く使える“伝心”や、位置を移動する“跳躍”が働かないのだと いう。大気もどこかおかしく、自然回復や“力”の引き出しが困難な様 子らしい。天使(みつかい)には大分不安な状況だ。 熱血漢のかれはその状況でも自らについて不安な様子を見せたりはせず、 ルシフェル様が倒れているのに大丈夫かと一先ず私たちに少し自分の内 にあるエネルギーを分けてくれてこの場を離れがたい様子だったが。 ルシフェルは疲労で眠っているだけの様子だとわかり、今どうするか思 案しているから直ぐには動かないし大きなネフィリムたちに何かもし変 化が現れたとしても遠目のこちらに反応するには少々かかるだろうと言 ったのは納得してくれたので。 私たちが全員入るのに十分な大きさの護陣を高台の上に念入りに描 (えが)き上げると、依頼を果たしに行ってくれた。 姿を現したまま、内側から炎のような揺らぐ暖かくあったり熱くもあっ たりする光を時折帯びる赤い翼の影から、何度も何度も振り返った姿 がやがて遠く見えなくなる。 “黒”のネフィリムたちが存在していた間に立ち込めていた夜だけの ものではない暗がりも晴れ、見渡す向こうに遮るものの無い地平から、 ほんのりと射し始めた黄味を帯びる明るい光。 ・・・もうすぐ夜明けだ。 大きくなったネフィリムたちは小さいものほど身軽く動けないが、太陽 が昇るのに反応したのか、殆ど身動きもしていなかった皆の顔がそちら のほうを向く。 かつて昇る陽に向かって、何かの合図か挨拶でもするかのように手を輪 にしていたように。 徐々に明るくなる空の下(もと)で、太陽の光を浴びて。 ただ、立っていた。 それを眺めているナンナたちの光に照らされた横顔を眺めてから。 その上半身を抱えている左腕の中で、同じように曙光に照らされている ルシフェルの顔を見る。 まだ目を醒ます様子はなくて、かれは静かだ。 気を失うように眠り込んだそれは、いつか天上で一度きりか見たように 微睡(まどろ)むようにただ休んでいるのとも、寒いのだと訴えた後に安 堵した幸せそうな様子を見せてくれていたあの時のものとも、限界を超 えた痛みで意識を手放していた時のものとも何となく違うけれど。 目を閉じて眠っているその貌は、やっぱりどこか幼い。 ほんのすこし、紕(まど)った後。 ルシフェルを抱えたまま、そろとナンナたちに背を向ける方向に位置を 変えた。 ・・・・・。私の“我儘”は赦されないものかもしれない。 だけれど、このまま離れようとするのは、身を切られるよりも辛いと。 心臓が訴えてきかない。かれに触れている腕がこの重みを感じていたい と全身に伝えようとするのだ。 ・・・。 自分が“選んだ”行動を考えると緊張と自責のようなもので頬が強張る ような思いもするけれど、もう一度だけよく記憶というかたちにしてみ ようと、腕の中に目をやる。 ・・・ルシフェル。 心のうちだけで、呼んで。 瞼を伏せ、そっと口接ける。 ずっと自分を助けてくれた声を届けてくれる、唇に。 もう一度、平穏な窓辺の貴方のそばで、いつかのように聞きたかった。 それが時という重い枷を生むものだとしても。 その声で、貴方が気に掛けてくれるだけで・・私は。 ナンナとネフィリムに声を掛けてその傍らに、足場にしている高台の 岩肌が薄い上衣越しのルシフェルの表皮にあたったりしないようにと、 慎重に横たえた。疲れて眠っているだけならそのうち起きると思うが、 かれの様子を時々見てくれないかと託す。 どこに行くの?、と。 私の気配から悟ったのか、少し強く。訊ねるような眼差しと声。 それと、実際にはその手は膝の脇で握り締められているだけだったが。 どこか袖を引かれたように感じる気配がはっきりと寄せられた。 横でネフィリムが首を傾けている。 ・・・・・・。 それでも。 その小さな手や覗う様子の案じてくれる気持ちを振り切ってでも。 私は、私に出来ると思った精一杯を試みたい。 かれが先に、その持てる力を使って私を助けながら対峙したように。 “選択”することの勇気を。 ・・だから。 <世界>のためとか、誰のためとかそういうものではなく。 私は、私が信じる希望(のぞみ)のために、これを自身で選ぶ。 出来ると、信じる。 あの時のように。 もう、ただそれだけだ。 「すまない」 とだけ一言残して、それなりの高さの小さな崖のような高台から飛び降 り、なにもない地の上に立つネフィリムたちのほうへと駆けて行く。 一番近いほうから柔らかな黄色の巨躯へと跳んで駆け上がり、その手に 触れて。 “浄化”を使ううちと、“分解”を覚えたことで更にその先として、朧 気に体得しえたものを目的とする前段階の為に。ネフィリムのかたちを 無くして、“融合”してゆくように全て自分のうちに取り込んでいく。 その次へと走る過程のうちに、自身の枠として定められたものを解除し、 ひととしての決まった大きさを保っていた姿を変え、“私のかたち”で あるものはみるみるうちに大きくなっていく。 とても大きなネフィリムたちを越え、数を重ねれば、遥か高みの天空(て ん)を衝く程に。 ・・・それでも。 その身の断片を分かたれた色に浸したかれがそうであったように。 私が“私”であるという、認識を失くしたりはしない。 けして、しない。 *** ネフィリムたちが様々なものを取り込んでそのまま身に同化させてし まうのと似たような違うものなのか、イーノックは見慣れた黒青のジー ンズと革のサンダルも大きさに合わせて纏い続けている。 まるでそのまま、ひとである彼が何らかの技で大きさだけを変えてしま ったかのように。 しかし、立っている姿勢のその身の丈の頂は遥か遠く。 地上からでは漂う雲に隠れた顔の辺りを窺い知ることはもう、難しい。 「・・・イーノック?」 ナンナが目を瞠って巨人となったイーノックを呼ぶ。 その横からそれを眺めたネフィリムが、彼女のほうに向き直るとナンナ の手を、その手の先で触った。 「・・ネフィリム?」 『なんな。ぼく いく。 ありがと。 ・・ばいばい』 とっさに止めようとした少女の手を擦り抜けて、ネフィリムも崖ほどの 高さをものともせずに高所から一気に飛び降りて。柔らかに不定な身体 はその気になれば衝撃には割と強い。 何だか非現実的な状況に不似合いなのか、妙に合っているのか。 可愛らしい風でもある様子で、とことこと走っていく。 丁度全ての大きなネフィリムたちを統合したところだったイーノックは、 もう足元の付近しか見えなかったが。 『いーのっく ぼくも あくしゅして』 最後のネフィリムが“声”をかけると、それはちゃんと届いているよう で少し屈むような姿勢に変わり、褐色の大きな手がそっと降りてきた。 その指先に触れると、ひとほどの大きさのネフィリムはゆらとかたちを 失くして溶け込む。 屈んでいた巨人は、僅かに間を置いて再びすくりと立ち上がった。 しばし、朝の太陽の光を浴びて。 その光源に向かうように佇む巨大なひとの姿は白金色を帯びて、その大 きさのように悠大に穏やかに、ネフィリムたちの“挨拶”を思わせるか のように輝いていたが。 ふわっ、と。陽光のような黄金の光の粒子の煌きと変じて大気に消えた。 その後にはもう、見渡す限り平らである地平、だけ。 「・・・・・。 イーノック? ネフィリム?」 どこにいっちゃったの?と。 高台の端で届かなかった手をついたままのナンナの顔が、歪む。 堪えきれずにその瞳から頬に涙が伝い落ちる。 その微かな物音と気配に気付いたのか、少しだけ離れた背後に横たわっ ていたままだったルシフェルの身体が、身じろいだ。 「・・どうした、ナンナ?」 掠れた小さな声が聞こえた。 少女がぼやける視線を向けた先で、目醒めたかれの顔がこちらを向いて いる。涙が零れて通った瞳に映ったのは、心配そうに差し出すように少 し持ち上げられていた片手と、もう実物を見覚えて来始めている、薄赤 を刷いた柔らかな茶色の眼差し。 「・・・るし、ふぇる」 しゃくりあげたナンナは、細い喉から声を絞り出す。 「ふたりが、きえちゃっ・・た」 「な・・」 なんだって?と聞こうとしたルシフェルの胸元に縋るようにしがみつい て。ナンナはもう言葉を続ける気力も無く、本当に小さな子供のように 泣き出した。 その背を片腕で抱え、ふらつきながらももう片方の腕で何とか半身を起 こしたルシフェルは、遠目に平野の只中に円状に並んでいた筈のネフィ リムたちの姿がひとつもないのに気付いて驚いた。 そして、大地に残る巨大な窪み。 細長く、左右不均等の一対。 ・・・まるで、平底の靴を履いた、ひとの足跡のような。 「・・・・・・・・。 いーの・・っく?」 何時も少女の傍に居た筈の柔らかな黄色いいきものの姿も、幾ら辺りを 見回しても何処にも見えない。 泣き続けるナンナを宥めようと、護るように両腕に抱えながら。 ルシフェルはただ、見たことも無い光景に呆然とするしかなかった。 12頁← 10頁→ |
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