しかし。
一時(いっとき)の平穏な感じは、その朝までだった。

 “塔”と“帳”は既に消えて、リリスと王の対処で<異界>の大気の
流入も止まっていたが。
“地上”を、この星をひたひたと沈めようとしていた“歪み”と、ネフィリム
を生み出すこと以外でもそれにとっては異質であるこの場所で手を貸
す形となっていた<異界>の影響から、再び本来の状態に急速に戻ろ
うとする力は。
まだ浸み込むように残り点在していた多くの偏りや変異の均衡を崩し、
“地上”は“塔”の異変とはまた異なった混沌の様相を帯びていた。
そしてそれを映すように、呼応でもするかのように。
各地のネフィリムが“何か”に惹かれているかのように、一箇所に向か
って集まり始めた。
大小を問わず。
まだただのネフィリムだったものも、“火”に変異したものも。
そして、かれらは通りすがりに目に付くものを手にし、呑み込み。
大方で地面の上には“何も残らない”ような状況と化しながら、目的地
らしき場所を目指して。
そして辿り着いた終着点では、地面の上にあるものだけではなく“地面
の起伏”すら掘り取って口にし続け。
それすらも無くなった周囲が殆ど遮るものすらない“地平線”が見える
ような広大な“平野”となると。ネフィリム同士ですら、大きなものが
小さなものを呑み込み。段々と、数を減らしていった。

 そして、それは現れた。
“塔”で初めて目にした“火”のネフィリムとは違う。
“黒”いネフィリム。
黒墨を流したような表面の色に、“火”の時には頭頂にありどこか別の
いきもののようであった尖った歯のある丸い口が、“正面”に戻っている。
だが、それは三角形に近いように大きく開き鋭い歯を並べていた。
瞳のほうは“火”と似たように横並びに幾つもついていたが。区分けが無
く一色(ひといろ)だった元のものの面影が残るそれと変わり、どこか人の
ものに近いように白目の内に黒目があるものになっていたが。瞼のない
円状のそれが無表情に方向を変えるさまは脅威や恐怖しか見出せない。
口の横から伸びる触手のうちのひとつか元はふたつだったのかは、円を
描くように・・まるで太陽に向かっていた時の手の仕草の記憶のように、
頭頂の上で繋がり、神や天使などを表す時に人間が描(えが)く“光背”の
擬似のようだった。
完全に焼け焦げたかのような表面の内側には限界寸前かとでもいうかの
ように亀裂が生じていて、時折何の色ともつかない感じに明滅している。
長く蠢く幾本かの触手は、異質な液を垂れ、それは燃えるものの無い場
所に消えない炎を生んだ。
見渡す限りの地平に、燃え盛る常ならぬ不定の黒炎。
 天に向かって聳えていた“塔”を思わせる“異容”を誇るそれらは。
全部で・・・九体。



***



 自らも大気を伝わる異常を感知し神からも現状の連絡を受けたルシフ
ェルとウリエルに導かれた私たちは、ネフィリムたちが集まっていると
いう平野の遠周。削り取られていない部分が残っている境目の、やや高
台のような、小さな崖のようにも見える場所に降り立った。
起伏に富んでいた丘陵地の筈だったというその“平野”の何も無さと、
緩く低くゆらりゆらと蠢くように揺れる不定の黒い炎に遠くそのうちを
炎を広げまわるようにぐらりゆらりとしながらばらばらに歩き回る巨大
な“黒”いネフィリムの姿に、私やナンナだけではなく、ルシフェルや
ウリエルも息を呑んだ。
ナンナのネフィリムは異変が起きた際にも普通のネフィリムのように引
き摺られて行ってしまう様子はその時も今も無かったが、怖がっている
のかナンナの後ろに隠れるようにして、両手で彼女に掴まっている。
天上の力の及ぶ限りに調べられたことによれば、もう“ごくふつう”の
ネフィリムは、ナンナの傍に居るかれ、ただひとり。
それ以外は全て、今平野の上にいる“かれら”に統合されてしまったの
だ。
そして、動き回っていたかれらは用を終えたかのように、順次平野の中
央へとやってくる。
何故か。
整然と、規則的に、等間隔をもって。
九つのネフィリムたちは、平野の中央に円を描くように中心を向いて。
巨大な円陣を組んだ。
 暗雲立ち込め薄暗い空の下で、距離を置いて、ぐるりと円を描くよう
に互いを見詰めるように並んだかれら。
先ほどまでの続きで何かの作業の手順なのか。
・・それとも、かれら同士でも喰い合おうというのか。
まさか、とはいえない。
かれらがまだ“喰べる”もので在り続けているのであれば。
おそらく、此処へ集うまでの過程と此処で。
呑み込み喰べ続け、重なり続けて重くなったそれが。
一旦かれらの動きを鈍らせ、擬似的な“満腹”を錯覚させているのだろ
うか。・・・しかし、それもきっと大して保(も)ちはしない。
 どうしたらいいのか・・
あの九体が喰い合って更にひとつになったら、それはもうなにものの手
にもどうしようもない、妨げること不可能なものとなるのかもしれない。
足場である筈の大地と大空すらも喰い。
星の海、そして天へとその手を伸ばし、神をも呑み込む。
それこそが、神の視た“予見”の真の最後の光景となるのか。
 そう思った時。
奇妙な体感がすることに気がついた。
上空に向かうような、曳くような。
それは、動かないネフィリムたちの頭上辺りからだった。
暗い空がぶ厚い硝子板があるかのような印象に変わり、それがほんの少
しづつ薄くなる。しかし、一番薄いらしいかれらの真上でほんの狭く円
状に、その向こうに薄(うっす)らと朧気に見えるものは本来あるだろう
“夜空”ではなかった。
ぐにゃり、と歪む、“黒”い色の乱舞。
それは何となく以前“極北光(オーロラ)”というものなんだと“視せて”
貰った空に躍る炎に似ていたが。炎ではなく背景のほうが常時様々な色
を帯び。炎のようなそれ自体はゆらとその身を蟲か何かのようにくねら
せて縦横無尽に動いていた。
・・・あの向こうは、リリスや王の居た場所とはまた別の<異界>なの
か?
また、大気が、<世界>の構造が引っ張られるような、じりとした気配
がする。ネフィリムたちは、既に“世界の枠”を食べて始めていたのか。


 空気が、異質の気配を混じらせている。
薄くなったそれを通してなんらかの影響が及んでいるのだろうか。
大気から力を得ている天使は人間よりも更に居心地が良くない・・とい
うか存続そのものにも関わるかもしれない。
ウリエルが少し下がった位置に隠行の仕様で組まれた透き通る球状の結
界を作り出して浮かばせ、ナンナとネフィリムを招いた。
ウリエルと一緒に二人が入ったのを見届けて、先程から沈黙して何事か
考え込んでいるルシフェルの傍に歩み寄った。
「・・ルシフェル?」
傍(そば)に立った私に、かれは顔だけで視線を向けた。
静かで落ち着いているようではあるが、解り難い、その表情と気配。
かれは、顔の位置を戻しほんの少し瞼を下ろすと。
「・・私に、ひとつ出来るだろうことを思いついた」
と口にした。
「!
何か、方策があるのか?」
「・・・まあな。
だが、おまえはそれでも構わないのか?」
・・私も関わらなければいけない筈だ。
これはそういう旅だからだ。
だから、仮に私が主体で無いようなこれまでと違う方式だとしても、何
か出来るような対処を思いついてくれたのであれば。私は私に出来るだ
けのことを試みればいいのではないかと思い、了承の印に頷いてかれの
言葉を待った。
だけれど、かれは再び無言で端に寄るように数歩歩み出て。
私のほうに向き直ると目を閉じ、ひとつ深呼吸した。
その背に、次々と翼が一対づつかたちをとって現れてゆく。
全部で六対あるのだということは旅の途中で聞いていたが、一対以上を、
当然ながら全てを目にしたのは初めてだ。
二度ばかり一対づつ現したのを目にした時には、背丈に届く程の大きさ
のものだったが。今のそれは一肢がおおよそ腕ほど長さのものだった。
一時(いちどき)にその細身の背に並べる都合だろうか。
しかしそれは小振りだからといって、その存在感や美しさを減じること
はなかった。
暗い背景を背に、広げられて半ば透き通る黒翼を背負う黒尽くめの装束
のかれが。目を閉じたまま、佇んでいる。
ゆらと吹く熱の無い黒炎の気配を含む風が、黒紗の上衣の前と裾とを揺
らす。それを遮るかのように。
ふと淡く淡く、光が灯るようにその翼と。
それだけではなくかれの身体の輪郭ごとを、仄かな白いような光が覆っ
てゆく。
・・いつか神がかれの翼について語られていた星の光なのだ、と思う。
かれを包む空気が、しんと静かな果てないように遠く広がる、しかしけ
してそれだけではない星の海の存在を、それを生み出したのだという遠
い根源のものなのだろう気配を微かに宿している。
閉じた瞼のまま、光を帯びて仄白く透き通るように見える面(おもて)に、
ほんのすこしだけ中空に浮かんでいる見慣れてはいる筈の姿に。
私は、ただ、何かもう一時(いっとき)全部忘れたように見蕩れた。
短い黒髪の影を額に僅かに落として、かれが、目を開けて真っ直ぐに私
を見た。薄い赤を刷いた茶色が、帯びた光を抜きにしても何時もより白
いような顔が。
・・・やっぱり掴み難い風に微笑んで。
かれは何かを思い切るように目を閉じると、そのまま。
もっと高いところへ舞い上がる。
「・・・ルシフェル?」
どうして、何も言わないのだろうと。
まだ、跳躍すれば届かないこともないようなその位置に視線を向けて、
問い掛けを届けようとする。けれど。
目を開けたけど、こちらに背を向けて。
かれの姿はほんの軽い一羽ばたきの動きを見せただけで、随分遠く。
何かの円柱状の建築物でもあるかのように陣を描いている、“黒”のネ
フィリムたちの頭上よりも更に随分高い真上に到達した。
何かするつもりがあるのだろう、ということはわかる。
・・・でも何故。何も言わずに?
元々“何時も解りやすく説明”しようとするような性格ではないが。
必要があるものは遠回しにでも手掛かり(ヒント)を与えてくれることがある。
どうすればいいんだろう。待っていればいいのか?
少々困惑する私の背後で、三つの視線もかれを追っているのがわかった
が。特に何を言われるわけでも無いので意図不明なのはおそらく同じだ。
 そして。
相変わらず動きを停止しているような黒い柱の上空で、ルシフェルが動
いた。


 こちらに伝わってくる、それは思念と意思の強い“波”だ。
大気と<世界>に在る“存在する力”を伝わって、それは私の元まで届
く。
『私を 七度(ななたび)沈めてみせろ』
『それは 私であって私ではない』
『おまえは おまえの成すべきことを忘れるな』
凛と響いたようなそれは・・・
ルシフェルは。
私に自分と戦えと、そう言っているのか?
ネフィリムたちではなく?
どうしてだ、という疑問を込めて小さく見えるかれを見詰めたが。
答えは返らず。かれは、再び目を閉じたようで。
そして、“歌い”始めた。
 ・・・私には、“天使の歌”はわからない。
だけれど、かれの声であるそれを、変わらずに届き続ける“波”を介し
て聴き取ろうと務めていると、天界に居る間だろうと旅の今までだろう
と、一度も聞いたことなど無い・・というよりも。私の知る限りの“常
識”からするとありえないほどの長さで“歌”は続いてゆく。
人間にとっては及ばぬ“歌”の意味は取れないが、ただ、聞いているう
ちにかれがひとつの“それ”を途中で何度も繰り返していることがわか
った。
かれにあると聞いている“戦闘仕様”にはこのような手間は掛からない
筈だ。
あの時、片手をくるりと返してみせたよりも速く。
必要があれば一瞬以下で切り替わると、もっと後で聞いた。
だから、かれが今しようとしていることはそうではないのだ。
切り替え・・・いやこれは。
幾つもの、何かの“手順”を踏んでいるのか?
 そして、突然のように長い長い“歌”は止み。
かれは足元を見下ろすようにして、右掌を下に向けるとたった一言。
最後の“歌”を発した。

 端(はた)から見れば一休みでもしているかのように静止したまま、明
滅する互いを見ていただけだった“黒”のネフィリムたちが。突如びくり
とするように身じろいだ。
そして、かれらの身の内から。何かが抜けて、吸い込まれるようにルシ
フェルの伸ばしている掌のほうへと流れてゆく。
視界にそれの全体を収められていれば、かれが何をしようとしているの
かは解った。かれは・・ネフィリムたちが変化の過程で呑み込み攪拌し
同化し、変異の原因になっている“何か”を自分の身に引き受けようと
しているのだ。
先ほどつまり“外して”いたようだったのは、もしかしたらかれを護る
ための幾つもの、任意で扱える“安全装置”のうちだったんだろうか。
「・・・ルシフェル!!」
力の限りに呼ぶと、こちらを見てくれる様子は無かったけれども。
かれがほんの少しだけ小さく笑ったような気がした。
そして、かれらの黒色が全てかれの元に集まり。
しかしかれらのように表皮を黒く染めたりはしないようだったルシフェ
ルが。唐突に、“ブレた”ように見えた。
 いや、錯覚ではない。
かれの足元で本来の黄色い姿に戻っている巨大なネフィリムたちは、何
時の間にか、見覚えのある“時を止めた”薄い暗がりのような状態で立
方体のような形状の空間のうちに封じ込められている。
そして、その立方体の上に。
一番最初の宣言の通りに。
九体のネフィリムたちの円陣を、少々略して真似たかのように。
“七”のルシフェルの姿が向かい合うように浮かんでいた。
それからふ、と七つの姿は消え。
元居た中央に再び、ひとつだけのルシフェルの姿が現れた。
だがそれは遠目にも何だか色合いが薄く、背にあった翼は無い。
そして、そのルシフェルは、こちらを向くと左腕を“来い”というよう
に私に向かって差し伸べた。
・・・・・。
一度だけ、背後のナンナたちを振り返って目顔で行って来る、と告げて。
私は、一瞬躊躇してから、かれに向かってそのまま中空に踏み出した。
別にこの高さなら降りられないことはない、という理由もあったが。
心配するまでも無く私の足は、中空で普通に地面を踏みしめたのと大し
て変わらない感触で支えられていた。
そのまま駆けて、かれの前まで辿り着く。
近付いてみれば、それは遠目にも薄かったように。
昨日目にしたばかりの神の“影”に似ているかのように、少しぼんやり
と白光を帯びて背後がやや透ける立体映像のような風で。
「ルシフェル」
もうさっきから名前しか呼んでいない気がするが。
それでも、名を呼んで差し出されている手を取ろうとすると、かれは笑
った。




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