この山は、元々が天然の“護陣”のようなものだ、と。
実際に目にした私は体感のようなもので、噂に伝え聞いていただけの聖
峰アララトの“場”を理解した。
それに加えて。
神の力を受けた四天使が四方に位置を取り、山をすっぽりと納める広大
な、しかしけして目立たせない強力な隠行も兼ねた護陣を重ねた。
 かれらはそれぞれ象徴的なものを冠して創られているが、それとは別
に自然の大きな要素を備えている。
神の有する“光”、護り巻くミカエルは“水”、治し育むラファエルは
“地”、伝え巡るガブリエルは“風”、燃し閃くウリエルは“火”。
ルシフェルがかれらの同行を説明する時に、かれらがけして“地上”と
離れている天界との“繋ぎ”なわけではないと云い、“五大要素”と言って
おまえにわかるだろうかと少しだけ悪戯っぽく微笑まれた。
これでもそれなり長く情報を“総括”するラジエルの元にただいるわけで
はないのだと、神を中心に相互するその要素に思うところをごく簡単に示
してみると、成程と満足そうにくすと笑っていたのでまあ問題は無かっ
たのだろう。
 巨大な陣を描(えが)き終えたかれらは間を置かずに、アララトに寄っ
ていた人々全体に呼び掛けつつ長老等の指導者格にも話を通して、主に
山腹や幾つかある天然の洞穴などにいた彼らを一旦護陣のうちである
裾野に集め、一気に内部の構造を造り替えた。
山の見た目や頑強さ、元々ある“場”の力の蓄積や流れは一切支障を出
さずに、これまで特殊な場ではあるがあくまで普通の“山”だったそれ
は、本当にその“方舟”の呼び名の通り、内に必要な区切りを何層にも
持つ広大な収容空間を有したものと変わった。
山の内側であるものの余り圧迫感や閉塞感を感じないようにされている
ものだが人間は一番思考が雑多な分様々なことに神経質なので、なるべ
くそのうちで上層に。
中層には、地上に関わる天使たちが自らの守備範囲を運び込んだ様々な
植物。それを挟んだ下層には草食動物・雑食動物・肉食動物の順でそれ
も管轄する天使たちの手によって救い上げられたものたちが運ばれて収
容されていた。動物たちは天使が居るせいもあるだろうが、大方が本能
的に“根本の異常”を感知しているのか大きさや気性の傾向に関わらず
周囲と小競り合いなどもせず、本当におとなしくしていた。
こんな状況でも、過ごしやすく目新しい場所に大喜びした人間の子供た
ちは少し落ち着いてくると早速かれらのうちで自然と決まるらしい一団
ごとに“探検”を始め。出入りの際には区画を護る天使にちゃんと尋ね
て許可を得て、大人が余り心配しないだろう草食獣の階層でうろちょろ
と、恐る恐る眺めたり触ってみたりとなかなか元気そうだった。
動物たちも単にじいっと静かなだけでいるよりは気が楽なようだし、天
使たちもちゃんと事故が無いようにさり気に注意を促したり、“地上”
で働くかれらは人間には把握できない広範囲のものも対象範囲に関わる
限り認識が可能なようになっているため、そうそう目が行き届かないな
どということもないそうで。一通り見て回っていた私は心配なさそうか
と安堵した。
 一番上部の狭くなっている部分は、多忙な指導者格のものや四天使の
居場所、それと共有の会議の出来る場所と、最上部には展望室を兼ねた
何も置いていない部屋が造られていた。

 ナンナと長老の対面には、四天使と共に同席したのだが。
なんというか“ナンナの育て親”というかで、普通に子供が居なくなっ
た親や保護者がみせる例のようないきなり怒ったり泣いたりそのほか取
り乱したり、急にこのような形で戻ってきたことを驚く様子すらなく。
至極真面目な面持ちで名を呼んで“娘”を迎えた(ナンナは年齢上彼を
おじいちゃんと呼んでいるので“孫娘”というべきかもしれないが)。
・・ごめんね、おじいちゃん。急に居なくなって。
とナンナのほうも至極真面目に切り出したが、どうして彼女が飛び出す
ことになったかということも十分承知しているらしい長老はそれについ
ては頷いただけだった。
それから、詳しいことは後で話すけど、此処に居る“私”と、そこの天
使のひとりと、もうひとり一寸離れた場所でネフィリムと一緒に待って
くれている“天使”と一緒に、もう暫く留守にしたいのだとナンナが切
り出すと。
長老は、少しだけ言っておきたいことがあると口を開いたので、ナンナ
は口を噤むとそれを待った。
 長老の語ったことは、こんなようなことだった。
拾った時から明らかに“不思議”なことが多かったから、もしかしたら
事情があって“一時的”に避難したものを預けられただけかもしれない
ということは最前承知して育てたと。
だから、普通の子供のように大きくなったらどうなるというようなもの
もこちらからはけして示唆しないようにしたし、その代わりに里のうち
や時には外でも、出来得る限り色々なものを耳にしたり触れたり体験さ
せるようにした。
長年の連れ合いであり、子供は得られなかったこともあってナンナを本
当に実子のように実孫のように可愛がっていた伴侶が亡くなってからも、
里人に手を貸して貰いながらも成長の過程で不自由が無いようにはして
きたつもりだし、労を惜しんだつもりはない。
だけどそれは、ごくごく普通の親や親族や周囲が“将来に期待”するの
と違って、ナンナが何時か選ぶべきものを目前にした時に、自分の意志
で決められればいいと思っていたので、おまえがどうしてもそうしたい
というのなら、未(いま)だおまえが子供のうちであっても止めはしない。
ただ、本当に本当に、心配であることはわかっていてほしい。
と。
語り終えて、差し出された両手に。
多分我慢していたのだろうナンナは、おじいちゃん!と涙を浮かべて数
歩分を走って飛び込んだので。
私たちは、邪魔しないようにそっと退室させていただいた。

 後刻、きちんと自己紹介と、ネフィリムと一緒に待っている天使・・
ルシフェルについても簡略に説明したのだが。
夕飯をご一緒しないかと招かれたのは、本来なら預ける相手をよく知り
たいというのなら受けるべきなのだろうけど。そもそもの覚悟もああで、
今回は特に此処に居られる時間に限りもあることだし、気が引けて。
幼馴染だという少年の“初めて実物を見る顔”をナンナが面白がって間
近でしげしげと眺め続けて、更に触れただけの記憶とぺたぺたと照合し
ようとし始めたので、おとなしいらしい少し年上の彼が照れて困ってい
るのを一寸助けてみてから、まだ“方舟”の植物の階層をよく見ていな
いので今のうちに、と一先ずの居場所を示して部屋を辞した。



 事前に見学した折に“方舟”に残る三天使の様子も訪ねたのだが。
ミカエルは辺りを見渡せる最上段の外側に居て、時折交替して巡回を
兼ね、主に人々の滞在する階層に自分が居るのだとわかるように姿を見
せながら移動することにしたようだ。
見るからに実用の武装であるということが明確な鎧姿だが基本的に丁寧
で清雅な青年の印象のかれは、護衛という意味でも人間から見た“頼も
しそうな好青年”という意味でも大方の人心を掴んだようだ。
人間であれば特に女性陣の一部がきゃわきゃわとさわさわと遠目から、
あのかた素敵ね、とやっていればやっかみも受けなくもなさそうだった
が、かれは背に翼を表し続けていたので、染めたものではない落ち着い
た青色の髪もあって単純に勘違いするような者も無く、必要とあらば行
儀よく収めている“戦う大天使”の気配もちらと仄めかせれば、大概の
ものは本能が壊滅的に衰えていなければ引き下がる。
時には子供からのかっこいい!という憧れの眼差しも受けて、ごく控え
めに少し笑ってみせていたりするのは無駄口叩かず真面目そうな印象
に、子供にはちょっと甘そうという親しみやすさにも繋がる。

 ガブリエルはラファエルと分担してもっと細かい人心把握に努め。
ラファエルが先ず運び込まれていた植物などから役立ちそうなものや必
要な薬剤や芳香剤を用意している間に、ガブリエルは不安や問題点や不
安はないかと皆から聞き出し、宥め、動く気のあるものをそれとなく促
して他の邪魔にならない範囲で適切に活動させた。ただじっとしている
よりも、何かすることがあり、更にそれで役立って感謝されるというの
は多くの人間は喜びを感じるものだ。
女性風を選んでいた外見を生かし、闊達で優しそうだが高貴な印象も漂
わせる、という方向を選んだガブリエルは老若男女問わず“相談相手”
として割と均一に一定の好感を得たようで、“治療師”っぽい雰囲気の
少々長閑で温和なラファエルとは上手く問題の性質を見分けて二分して
いた。
“綺麗なお姉さん”だが少々気軽に手を引いたりはしにくい印象のガブ
リエルとは違い、のんびりした雰囲気の青年の容姿だが能力は確かであ
るラファエルのほうは、植物や動物の面倒も総括で見ていることから出
入りする子供にも何だか年上の頼れる仲間のように扱われていて、こっ
ちを見て、あっちのあれが、とかと手伝うように情報提供もされている
様子だった。

かれらはどうやら“方舟”に残る理由であったものを体現しているよう
だ。指導者組とも連携してかれらだけが目立たないようによく気をつけ
ながらしている様子も見て取って私は一安心した。此処は確かに神と天
使に護られ支えられているが、本来その役目ではない天使に頼り切って
しまってはいけないのだ。
ウリエルは私たちと一緒に行くまで他の避難場所等との連絡役を務めて
いるそうで、飛び回っているのか特に姿は見掛けなかった。
約束の類はきちんと守る性格なので、朝にはきっと居るのだろう。



***



 植物の階層は、たまに天使の許可を得て散策する人の大人や子供の姿
がちらと見えるものの、広大なそれの大方では人気(ひとけ)は極薄く、
静かだ。
ラファエルが先ほど素材探しなのか一通り見回っていた様子で、こちら
に気付いて手を振ってくれたが、直ぐに様々な葉の影に見えなくなる。
時折そよと空気が風が吹いてゆくように動くのは、ちゃんとこの階層の
それの管理も行われているのだろう。
種々の緑がとても沢山で、独特の空気感に満ちているそこは。
今の天上には存在しない、“地上”の伝承と神やルシフェルがちらとだ
け口にした断片だけに聞く“エデン”を何となく思い起こさせた。

 “とりあえずこれを”と此処に居るものに神が選んで下さったのだと
いう夕食分の食べ物は二種類で、見た目は一見とても“シンプル”だっ
た。
ひとつは、表面は真っ白でとても細かい上質の粉のようなもので、内側
もふわとしたそれを厚さのある、親指と人差し指で軽く摘(つま)めるよ
うな円状に固めたものだ。
ほろほろと崩れやすいそれは、口に入れると少し留まるようにしてから
溶けて消える。特別の甘い菓子のようなものだった。
もうひとつは、湯に流した溶き卵のような淡い優しい黄色をしていて、
長方形の厚みのあるもので。少し固めのさくりとした歯応えがあり、
様々な穀物と木の実と蜂蜜を一緒にして詰めたような、何だとも言
えないような不思議で懐かしいような味がする。
飲み物は、透明で一見水のようだがほんの少しとろりとしていて、清水
のようなのに色々なものを含んだような感じがして、喉の渇きも何かの
不足分も足りたような清涼感のある心地になった。
 人やいずれの動物でも一先ずはこれで支障は無いのだというそれを天
使が配っていた時に、とりあえず安全が確保されたらしい状況に気が大
きくなっているのかこんなちゃちな菓子と水みたいので腹が膨れるのか
ねとぶつぶつと呟くものや、見慣れないそれに少々不安そうにするもの
も居たが。口にしたところで大抵は皆“非常時で間に合わせならこれで
十分”だと納得してくれたらしく。食べ易いそれに大喜びする子供に、
こんなの作れるのかしらと調理好きらしい関心に、幾つか食べて取って
おこうかなあと思案したり、様々にさざめきあっていた。

 植物たちには特別な“雨”のような水が与えられているらしく、先程
さわさわと清かな音を立てて丈高い植物の上の天井までの何処(いず
こ)からともなく降って辺りをまんべんなく湿して行った。
天界の雨とも似たそれは、直ぐに表面は乾いていったが。どことなくそ
の潤った気配だけは残っている。
もう食べ終えていた空の包みと飲み物を入れてあった容器は、とりあえ
ず脇に置いたままにしていたら何時の間にか“自動的”に消えていたの
で。用が無ければ回収するようになっているのだろう。
おとなしくしている動物たちはともかく、あれだけの人数からばらばら
に食べ終わりそうなそれを回収するなりどこへと指示するなり、必要に
応じて容器を残すなりの選択をするのは、幾ら天使のかたがたが労を厭
わなくても面倒だろうから、これはとても“便利”だな。





 ふと、此処がとても静かだということに改めて気が付く。
植物は沢山居るけれど。いきものだということは知っているけど。
かれらの会話は、私には聴き取れない。
・・・。
静かなことと、周囲が凡そ緑の一色(ひといろ)に近いせいか。
全く違うことを思い出した。
 青い月に染められた、独特の岩ばかりの幻想的な風景。
かれの横顔。
振り向いた時の、不思議そうな表情と。
私の答えに、そうだなとだけ答えた時のそれと。
 それから。
また別のものを思い出す。
意識の何処かで“箍が外れたようだ”と思ったことを。
かれを抱えて“逃げ出した”ことを。
かれを救けようとしていた筈なのに、苦痛を与えている自分の手が赦せ
なくて。
色々で傍(そば)でこうしていてもいいのかと思ったそれに。
目を醒まして大分何時ものように話してくれるかれは、おまえも人間な
のだからと笑ってくれた。
そして、まだ自身が何時もどおりではないのに、何時ものように私を気
遣って回復してくれようとする・・でも何時も通りではないそれに。
私は、助けた筈のかれに余計無理をさせたような気がして辛かった。
かれがそんなつもりで言ったのではないだろうことにも、何だか・・・
辛くて仕方が無くて。
嫌だと言って、泣いて心情を訴えた私に。
貴方はどう思ったのだろう。
・・・時折貴方に向けて“子供っぽい”と思うのを悟られているのはも
う相互に承知の上だけれど。
あの時の私は、素直に正直なところを言っていてかれもそれには納得し
てくれたようだったけれども、駄々を捏ねているのとそう違いは無かっ
たのかもしれない。
私を癒すためと、ほんの少しの何時もの悪戯っ気を含む、意表をついて
沈んでいた気分を変えさせようとしたのだろうそれに。
 その時は、かれの明るく真面目に礼を告げてくれた声と。
その後の遣り取りでそのまま全部“保留”にしていたんだが。
・・・・・・。
<リリス>の顛末の件で、もしかしたら自分がかれを傷つけることもあ
るのかと思っていたものが蘇っても。
かれの肯定と、私に向けてくれた笑顔で宥められていて。
完全に心配が無くなる事はないけど、大丈夫だと言える。
でも。
 ・・・・あの、本当に短い間の“記憶”が。
今、頭から離れない。
かれの唇が、わたしのそれに触れた。
ただ、それだけ、なのだけど。
心臓が、とくりと、切ないように鳴る。
まさかと、思う。
“箍が外れた”あの感覚は。神が天界に喚(よ)ばれた私の身体構造を日
々の支障が無いように大半造り変えた折に封じたのだといううちのひと
つである、神に委託されて変化に対して問題はないかと問うたルシフェ
ルが“繁殖に関する機能”だと端的に表した本能的なものも含むそれを、
もしかして解いてしまったのではないかと。
だけれど、思い返してみても、今も。
自覚できる範囲で身体的な変化は感じない。
なんというか・・具体的にはっきりと“疚しい”程度のことを考えたり
は、今この時も、無い。
 ・・ただ何となく。
黒紗を透かした輪郭が、確りしてはいるけど自分に比べて明らかに細い
こととか、近付けば確かに呼吸をしているとか。
そういうことが改めて思い浮かんだり。
多くの時の経過とものごとを負うその背を思い出すと、ふと微かに切な
いような気になるような。
 笑ってくれるその顔にふと自分のそれをああするように近寄せたら、
どういう表情になるのだろうか。
もしもそっと触れたら、きょとんとして。かれを真似るようにしたと告
げたら『おまえ、そういう“力”はないだろう?』って可笑しいように
たしなめられるだろうか。
それともいつか不用意な発言をした時のように、怒って叩かれるだろう
か。
自分の与えられた“力”である“浄化”は、普段のかれには全く必要無
いというのに・・。いつも“綺麗”な存在には。
 そんな、ごく淡いような気がするものなのに。
それでも、心臓は次第につきつきと痛みを訴える。
 それとも・・それなら。
ありえないと思いながらも、目を伏せて恭順するように受けてくれるよ
うな・・・それこそ妄想だと振り切るように急いできつく首を振った。
自分は<候補者>であって未(ま)だ<神>を継いだわけでもなく。
そもそもルシフェルは私の思考がいまちらとだけ帯びたそういう風に、
神の傍(そば)にいるわけでは・・・。
別にかれらのそれはそうであっても、きっと美しい光景かもしれないけど。
私がそれをこんな風にこんな時に望むのは、どうなんだと。
・・・・・・・・・・・・自己嫌悪する。

 人間は、相手が“ひとだ”と思える範囲であれば人形(ひとがた)にす
ら本気で恋焦がれることが出来るのだと。いつだか、人形に恋して後に
本物となったそれと婚姻したのだというとある王の物語を、種族どころか
無機物を問わずに求愛することも珍しくないという“鳥類”の話を、いず
れも御伽噺のうちであるように同列に語っていたかれの声を思い出す。
天使には、性別は無いのだという。
身体の構造も、元とは大分変わっているとはいえ私とは根本的に“違う”。
私は・・・“身の程を知らずに”“天使(べつのもの)”に恋してしまっ
たのか。
いや。そうじゃない。
私は。
私は、かれに。
ルシフェルに、惹かれているのか。
積み上げてきた“親愛”に、別のそれを加えようとしているのか。
自覚のようなものが、冥界のあの時のうちでははっきりすることはなか
ったかけらを、それという意味を含んで意識の上に浮かび上がらせる。
 旅の間のいつのまにか、物理的にでもそうでない意味でも護りたい、
と思っていた。
私に向けて笑ってくれるそれを、もう少し近くでも目に出来たら。
抱き寄せて、私よりも温度の低い頬を掌で包み続けたら温まるのだろ
うか。

 ・・・元々私はかれを好き、だった。
それは自覚していた。
かれは神とはまた別の、天界で暮らす私の“支え”だった。
なくてはならないものだと、いつしかそう感じていた。
本当に好きだ。大事なものだ。
誰の前でも言える。
かれ自身に向かってさえ、真っ向から言ったら基本的に照れ屋のかれに
怒られるかもしれないが、それでもきっと口に出来る。
 だけれど。
だけれど、これは・・・・
多分間違いなく、ただそうではなく“触れたい”という意味があるそれ
を。
私が“持つ”ことが許されるものなのか?


 旅がそろそろ終着点が見えてくるのではないかということは、わかっ
ていて。つまりそれは恐らく“最大の問題”に向かい合う必要があり。
ネフィリムの生成原因が明確になった今でさえ、既にあるそれらについ
てのはっきりとした方策などは未(いま)だ見えていない。
そんな状態で。
私は、
何に気が付いて、思い悩んでいるというのだろう。

 穏やかで空虚な滅亡など選ばない神のために。
それを助けたいと願い続けるかれ自身のために。
そして、私が喚(よ)ばれてからのそう短くも無い時間のうちで、時折そ
れなりに親しく過ごした私の意志が、神の願いを請けて挑むことに否を
返さなかった、それを助けるために。
かれは、傍(そば)に居てくれるというのに。
 これも、人間であれば無理はない、ことなんだろうか?
かれに告げてもそう、肯定してくれるだろうか?
いや、答えがどうであれ私は今の自分にそれは許せそうに無い。
というか、そんな勇気は無い。



 ・・・遠い時で、潔い声が。
人間が“おきまり”のように口にする風な“永遠”など微塵も信じては
いなかった声が。何かの話題の経緯なのかはもう覚えてはいないけれど。
“死んでも好きでいて。なんて、わたしは言わない。”
と。
“私が死んだら忘れてしまうのか?”
と冗談の口調で笑って返すと。
“一緒に居る時間とか、忘れないように抱え続けることだけ短くても長
くても、意味は無いの。・・・そういうこと。
直ぐに、だったら流石に怒るわよ。
でもね、生きていくのに誰かが必要なら。
わたしだったら、もういないあなたに向けて。
あなたなら、もういないわたしに向けて。
引き合わせてもいいと思う相手なら、良いんじゃないかしら?”
真剣だけど穏やかに。
私に向かってふふ、と笑った。
 ・・・そして、私は“死に別れ”ずに“生き別れ”たけれど。
彼女は結局、残りの人生で別の伴侶を選ぶことは無かったようだった。

 天を選んだことを、神の助けになれるのであればと選択したことを後
悔しているわけではないけれども。
もう皆が十分に大きくて心配は無かった、子供たちとの別れとは別に。
彼女を突然置いてきてしまったことだけは、思い出す時折の度に胸の奥
が痛んだ。
・・・彼女と私は、現状“死に別れた”わけだが。
もうそれを知ってからも人の時ではそれなりの時間が過ぎたけれど。
あの痛みも日々にほんの少しづつ丸くなり、あの時や“洪水”の件を耳
にした時に感じた強い郷愁も、“地上”に降りたことで収まってはいる
けれど。
・・かれを好きなのだ、と。
記憶の彼女に向かって、紹介できるだろうか。

ああもうそもそも、神に向かって悔悛(かいしゅん)として告げるべきな
のだろうか。
いや、かれに言えないのにそれは少し何かが違う。
・・・・・。
堂々巡りだ。


 そうして。
私がこれ以上考えてはいけないと自己暗示に努めた挙句、何時の間にか
眠り込んでいたらしいところにウリエルが探しに来てくれて。
大らかかつ賑やかな態度で、威勢よく起こされて気が付いた。
・・・つまりもう朝で。
ネフィリムたちと対峙しなければならないだろうことは色々心配だけど、
やっぱりかれと居られる旅の普段の状態には早く戻りたいと、昨日何と
なく思っていたのに。
・・かれを視界に入れるのが、少し怖い。
 
 “方舟”内を把握しているウリエルに水場に案内してもらい、顔や手
を洗ってから最上層へ行くと。
 長老と幼馴染と、親しい里人に会って過ごしてよく眠って。
元気一杯な様子のナンナは、イーノックどうしたの?と疲れた様子を気
遣って朝食分の、今度は人間用には見慣れた風なものなのか、新鮮な果
実と山羊のものらしい乳と焼いたチーズと雑穀の平パンを勧めてくれた
けど。私は元よりも余り食べなくて済むので、気分的なものを除いても、
昨日の特別そうな食べ物でまだ十分な感じだった。
説明して遠慮すると、“方舟”では皆ちゃんと配ってもらえるんだし、
じゃあこれはネフィリムとルシフェルにお土産にするねと、ナンナは小
さな荷袋に楽しそうに包みと水筒に入れたそれをしまいこんだ。
その、どこか気軽な遠出に出かける前の子供のような仕草に、微笑まし
いような、相変わらず流石ナンナというか、と思って笑みを向けたけど。
かれの名前を耳にしてまた怖くなりそうだったものを、内心で“箱”を
イメージして昨夜のぐるぐるの記憶ごと、ぎゅうと押し込んで蓋をきっ
ちり閉めた。
 ・・・元の通りに、かれに笑い掛けたい。
私に向かって笑ってほしい。
それだけで十分なんだ。
出てこないでくれ、そこに入っていてくれ・・・お願いだ。



***



 その後、出立前の短めの時間の内だったけれども。
ウリエルが早朝に案内して連れて来たのだという、一人の人物にも対面
した。
アダムの一族の直系、の長老たちのこの件での代表者だという“ノア”
という名の男性だ。

 私もかつてその一員に数えられ、そうであったように、アダムの直系
の男子と堕天使とは長らく彼らの“娘”を介したしきたりがあり。“地
上”に降りた彼らが多くは余り目立たずに暮らす場合の、手助けなども
していた。彼らは初期の経緯を考えれば人間と言う存在自体の“恩人”
でもあり、またしきたりに当て嵌まる者にとっては“伴侶”の“親”で
あり、子らにとっての近しい先祖であるのだから。
・・まあ、人間でいうなら(少々特殊ではあるが)ごく近しい位置の親戚
づきあいのようなものだ。
“塔”がこれまでとは全く違う堕天の様子であるということが明確にな
っていき、堕天使のもたらす変化を積極的にか消極的にかの違いはあれ
ど受け入れようとする者たちと、対照的なこれはいけないという態度を
決然と又は密かに表して何時の間にかそう呼ばれた“自由の民”たちに
“地上”の人々は凡そが二分されていったが。
堕天使とのつきあいが長く、“天がその事態に干渉していない”という
ことにはおそらく何らかの意味もあるのだろう、と多くの、一部はかつ
て天から降りてきたアダムとイヴのものも含む数々の“地上”の伝承や
記録を抱え、出来得る限り冷静に客観視することに努めた直系とごくそ
れに親しいものたちは、どちらにも加わらない“中立”を保った。
かれらのうちには当然ながらまだ生存している本来の人と変わりない風
である姿の堕天使の“娘”やその子、そもそも全体が全く関わり無いと
いうことは無かったので、最晩年に近しいものや女性や子供など、安全
が憂慮されるものは此処とは別の場所に避難させてあるそうだったが。
長や何かの責任者、又は記録者であり語り部を選ぶことの多い彼らは、
特に理由ない限り中立を掲げながらも元ある場所や、それぞれの避難所
に留まって出来ることをし続けていたそうだ。
・・・それは少し、今のこの事態に“種々の経緯”と共に“重大な理由
がある”ということを既に知っている私にとっても、“真相”を知らせ
るわけにはいかない申し訳ないような思いと背中合わせでありながらも、
嬉しいような誇らしいような心持がすることだった。
天に居た私と違って、この状況の“地上”でそういう視点を持ち続ける
ことは、幾ら彼ら独特の“忘れ得ぬ”背景があっても難しいことだ。

 多分、私の表情がはっきりと明るくなったのだろう。
私が千年近くも前に“天上”へと喚(よ)ばれたイーノック本人で、今は
“神から言い付かった特別な用事”で“地上(ここ)”に来ているのだと
だけ話した私に、特に何か訊ねるようなこともせず。
一族のほうの事情を簡潔に纏めて話してくれた彼は、ナンナのところの
長老よりはまだ大分若い風ではあるが年配の威厳と、同種の活力と壮健
さが見て取れる一見やや厳しいような風采を、ふと和らげた。
「・・何か、心配事がおありか?」
まあ、懸念だらけで無理も無いだろうが。と続けたそれと眼差しから滲
む気配にああそうか、と気が付く。
彼にとっては私は確かに敬意を示すべき“先に生まれた一族のもの”で
あり“天に招かれたもの”ではあるが。外見やほかのものでも当時の
“若さ”を保っているために、一族の長の一人である彼が見守るべき
“若者”としての要素も失われてはいないのだ。
それに気付いてまたふと、天上の、若々しい少年の気配を残すものであ
り、時折には過ぎた時間を思わせる年齢不詳の雰囲気も纏う、金と白の
色彩の優しく快活な<神>を思い出す。
見た目や言行動が特に共通点があるというわけではないのだが、これは
そういう要(かなめ)の立場を誠意で務めるもの独特の“何か”なのか。
その気持ちにも感謝して、ごく私事のことだからと断りを入れて。
近しい一族で別所に纏めて避難していた者たちも、そのほかの点在して
いたものたちも手の空いた天使のかたがたに助けて貰って此処に向かっ
ているのだと言う彼はおそらくこれからあれこれと多忙になるだろう。
これ以上時間は取らせられないし、私もそろそろもう行かなければなら
ない。
 貴方に会えて良かった、と別れの挨拶と共に述べると。
私も、貴方に此処でお会いできるとは思ってもみなかった、と彼は笑っ
た。




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