<Language>




 彼は、純粋だった。
およそ、信仰心についてはどの人間よりも混じり気無く。
好き、好き、大好き!と。
ごく幼い子供が、自分を愛してくれる親に向ける笑顔のように。
一点の曇りすらなく、きらきらと。
微笑ましく、美しい筈のそれが。

・・・・なぜか、ひとつの深刻な問題を引き起こしていた。



 天上に座す<神>・・もとい、<神の代理人>は少々額を押えて、目前
に浮かんで“地上”の様子を映していた、広げた掌二つ分程の“画面”を
閉じた。溜息がその口元から零れる。
 “彼”の気持ちはわからないとはいわない。
かつての自分が、自分が継ぐ前の先代である<神の代理人>に抱(いだ)
いていたものと、ある意味よく似ていたからだ。
しかし、その純粋な好意と信頼のようなものに、ひとつの思いつきとそれ
を形にする熱意と行動力。それが合わさった結果。
そしてさらに、それが他者の興味を引き、それに意義や共感を覚えた人々
が集う。

 ・・・・それは、ひとつ、またひとつと。
沢山の手によって作られ、運ばれ、積み上げられ。
次第に形を成してゆく。
土台が築かれ、その上に円筒が姿を現す。
広げ、補強し、高く、もっと高く。もっと上へ。
芯になる中心を取り巻く坂道が、螺旋を描き昇ってゆく。
それは・・巨大な“塔”だった。



***



 「意図は全く違うというのに。
あの建物は少しだけ、アレを思い出すな」
ふいに背後に現れた気配に、驚くでもなく振り向くでもなく、今一度の溜
息を返した。
「・・・・。
私も、まさかこんな事態は想定していなかったよ。
ナンナたちが伝えてくれた“伝承”はこれまで一切の問題を引き起こすこ
とはなかったからな」
椅子の背後から肩越しに伸びて首を抱えるようにしたかれの両腕に、左手
と右頬で触れた。上衣の薄い布越しに、私よりも低い温度が伝わる。
「・・・どうしたものか、な」
励ましてくれている気配と優しい腕の感触を享受しながら、深く息をつい
て目を閉じる。
私には、色々と経緯と事情とそのほか諸々があって、先代のような大きな
力は振るえない。まずは・・・発端の人物の説得か。
「・・ルシフェル」
「ん?」
椅子の後ろに立ったまま屈んでいたかれに、目を開けた顔を仰向ける。
「どういう風に示唆すれば、諦めてくれるだろうな?
彼自身には悪気の欠片もないし、ただ命じるつもりはないんだが・・。
ただ、あれを止めさせたいだけなんだ。
彼に、やたらな悪名をつけるわけにもいかないしな・・」
私の助け手は、見慣れた、赤を薄く刷いた柔らかな茶の眸を軽く瞬かせる
と、ふと思い当たったようにくすりと小さく笑った。
「あれは・・・・なんというか。
天上(うえ)に来たばかりの頃のおまえと、少しだけ似ているような気もする
が。・・また少々違ったタイプの、バカだぞ」
納得しないと、折れてはくれない気はするな。と。
くすくすと可笑しそうな声と共に、笑みの形に目が細められる。
「・・・きっと、またこれも“話を聞かない”」
「・・・・。
ルシフェル」
また深く、今度は別の意味で溜息をついて。
伸ばした片手でかれの顎から頬の辺りを少しくすぐるようにすると、こら
やめろ、と笑う声の色が変わって腕がぎゅうと幅を狭める。
私の手から逃れた顎と両腕で頭が抱き竦められていて、動かせない。
髪の上から、こそばゆいからやめろ、という少し叱るような口調と裏腹の
笑みを含んだ息と気配が零れかかる。
・・・ああもう。貴方には勝てそうに無い。
「・・・分かった。
覚悟して、よく考えておく」
真面目にそう答えると。
かれはひとつ、くすりと再び笑みを零して。
するりと腕を解いて、ぽんぽんとその両手で私の両肩を叩くと姿勢を起こ
し。椅子から離れて部屋の扉のほうへ向かう。
「夢啓示をするつもりなら、多少はフォロー出来るように居てやるから。
その時は、呼べ」
ラジエルのところに行って来る、と顔だけ振り向けて告げると。
ひらりと手を振ってかれは歩み去って行った。
相変わらず、マイペースだな。
でも、やっぱり相変わらず・・優しい。

 私を包むように残る、かれの気配を呼吸して。
さて、と思考をもう一度、現在の問題のほうに移す。
話を聞かない、か。微かな自嘲を意識の隅に置いたままにして考える。
下手な嘘は通用しそうにないな。
事実だけを選んで告げるべきか。
・・・しかし、なんと“名乗ろう”か?



***



 夢の中での会見は、予想された通り先行き不明だった。
彼は、目の前の私を見上げて、控えるように片膝をついているが。
何も言わずに、ただ、じっと熱心な様子で私の特徴を覚え込もうとする
かのように、白い長衣から出ている私の顔周辺と手を見ている様子だっ
た。
名乗った通りに、“天使(みつかい)”の“メタトロン”という名の相手
だと、これが真の啓示の夢だと認識してくれているだろうか。
“天使”らしくみえるようにと、自分が彼を導く上位の存在であるとイ
メージしながら語りかける。
『・・エノク、おまえが今やっている“塔”を造るという望みは、この
後に崩壊を招くのだ。
おまえの望む高さは、まだ今のおまえたちの持つ技術では造れない。
諦めては、くれないか?』
 ・・・彼の望みはとてもシンプルだ。
世界の“親”である神に、より近い位置で祈りを届ける場を造る事。
険しい辿り着くのも難しい、聳える高山の頂を自分一人が目指すのでは
なく。誰もが安全に辿り着ける、人工の頂を造ると。
その理想は、年齢やそのほかの色々な条件を問わず多くの人々を惹きつ
けた。
勿論、全てが彼と同様に純粋なわけでも信仰心篤いということばかりで
もなく、目立ったことに参加したいという理由や、面白そうだという一
種の好奇心で参加している者、人の集まる場所になるなら後々商売のタ
ネになるのではと考えた者なども珍しくは無かったが。
私だとても、もしも唯の人間としてこの時の“地上”に居たなら、実際の建
造物を目にしても検討する知識が無ければ、彼の助けになるのなら僅か
なりとも協力しようと加わっていたかもしれない。
 しかし。
私の見た予見、はその人々の願いの集まった結果である“塔”が崩壊の
結末を迎えるという風景を指し示した。
<神の代理人>の予見は、蓄積された膨大な<情報>を踏まえた一種の
解析情報による限りなく精度の高い未来予測だ。
絶対、ではないが、非常に高い可能性でそれに到達する。
その前に違う<分岐>を選ばない限り。
だから、止めなくてはならなかった。
純粋な気持ちから生まれたそれが、崩れ落ちて彼と多くの善意の生命を
道連れに、“愚行”の象徴の名を冠するのを。
 私の名は読み方が違うが、アダムの一族の伝承に残されるもうひとり
のエノクと併せれば“3人目”のエノク、は。
相変わらずじっと、何も言わずに私を見詰めている。
話を・・聞いてくれているのだろうか。
ルシフェルの忠告が思考を過(よ)ぎる。
ラジエルの情報でも、彼はとても無口で、真摯で迷いの無い行動によっ
て人々の信頼を得ているのだとなっていた。
朴訥な人間が、ひとつこれと定めて決めたことを覆させるのは、難しい。
私も“地上”にいたときによくバカだと言われたが、彼は私よりももっと混
じり気無く神を信じ、純粋で、簡潔だ。
きらきらと、透き通る光のように輝くその魂を、美しいと思う。
諦めさせたことでその稀有な光が鈍らなければいいがと、願ってしまう。
 私の血を直接引いているのか、それとも全ては同じ血の流れを汲んで
いるのだからそのためか。
かれの容貌は面影が私に似通っていて、しかし色彩と表情の違いで全く
様相を異(こと)にしていた。
鮮やかで艶やかな黄金の流れる髪。豊かな森を思わせる深い緑の眸。
そして白く滑らかな肌と鍛えられているがしなやかな肢体。
跪いて顔を上げているだけの様子もどことなく優雅で、かれが本来の只
の一人の牧人(まきびと)の民ではなく人々を率いる立場に居るのは、彼
が自ら意図した事では無いとはいえなんの不思議でもないような気すら
する。
『・・・。
了承してくれると、嬉しいのだが』
相変わらず、返事は無い。
本当に、ルシフェルが折に触れて半ばからかうように繰り返す、私の
“話を聞かない”よりも本当に聞いていないのではないだろうか、これ
は。
少々心配になってきて、確かめてから改めて繰り返そうか?と思った時。
彼が、初めて声を発した。
といっても、夢の中なので思念のようなものだが。
『貴方は、“イーノック”だな』
尋ねたことの、返答ではなかった。
というか、一寸待ってくれ。
記憶が確かであれば、私は先程“メタトロン”と名乗った筈なのだが・
・・・・。どうして。
『・・何故』
何故そう思う、という言葉を言いかけて飲み込んだ私に。彼は迷いの無
い瞳を向けると、口を開かなくても良いと理解したのか思念で告げる。
『特徴が、合致している。
私は、神を信じるのと同様に、貴方をずっと信じている』
揺ぎ無い微笑み。
そういえば、彼の名は“私の伝承”にあやかるように付けられたのだと。
天に喚ばれた彼のように正しく生きろと、そう育てられたのだと過去の
情報は語っていた。
『本当に、伝承の通りに、貴方は“天使(みつかい)”となったのだな。
光の翼が、そんなに沢山貴方を取り巻いている。
本当にとても、美しい』
・・神には翼は無いので、これは今回の夢啓示の演出用に作った一時的
な装飾のようなものなのだが。
どのような翼にしたらよいのかと相談したところ、ルシフェルが「本当
は神なのだし6対の私よりは多くないとな」と言い出し、ガブリエルが
「では6の6倍では?」と言い出し・・・・他の四天使や七天使ばかり
か、ラジエルまでもが現れて混ざってあれやこれやと。
結果、私の背には光で造られた実体の無い翼が大き目のものから極小の
ものまでが、煩く見えない程度の絶妙の配置で幾重にも重なり、耳元の
横や肩口、腕の節目の各部分や、足元が少し見えている革サンダルの踵
からも幾枚かの小さめの光翼が透ける様に伸びている。白金の輪郭のみ
のそれは重みは感じさせないが、淡く光を帯びてとても美しい。
普段もあったら腕のそれが動くたびに目に入って気になってしまうだろ
うが、一時(ひととき)の衣装としては私もとても気に入っていた。
天使は、翼を褒められるのは喜ぶものだ。
まあこれは天使に神が選んでくれたそれとは少々違うものだが、私の一
番の助け手である天使が最終的にこれだろうと選んでくれたものなのだ
から、嬉しく思っても当然なんの問題も無いだろう。
『・・有難う、翼を褒められるのは嬉しい』
礼を返すと、彼は瞬きをしてにこりと笑った。
『貴方は、とても神に近しそうだ。
神は、この事態をとても重くみられているのだな』
・・・・。まあ翼の数がこれなんでそう推測出来ても不思議では無いが。
直感力・・・なんだろうか。見事に直球である。
『ああ・・、私は<神の代理人>だ。
先程名乗ったが、今は“メタトロン”の名を戴いている』
天界でも私は先代の<エル>の代理だと公言しているので、二重の意味
で正直に名乗り直した。
彼は頷くと、やっと本来の問いに返答を返した。
『天使(みつかい)となった貴方を、この目で見る事が出来るなど思って
もみなかったので、とても嬉しくて。つい見蕩れてしまっていた。
・・申し訳ない。
だが、貴方や神を困らせるようなことはしない。
折角、皆が私の夢に賛同してくれて造りかけた塔だが、計画は取り止め
にしよう』
話はちゃんと聞いてくれていたようだ。
良かった、素直に納得してくれた。
・・・だが、これから他の者を納得させるのは、彼の役目だ。
『此処まで大きくなってしまった話を、無かったこととして収めるのは、
かなり困難なことだが。
おまえには、考えがあるのか?』
彼は少し思案した様子を見せると、答える。
『・・この行為自体には罪は無いが、此処に“塔”があると、もっと後
々のことに障りがあるのだと、夢で訪れた天使(みつかい)に教えを受け
た。と、言っても構わないだろうか?』
彼も、善意で集ってくれた人々のことを慮(おもんぱか)ったのだろう。
相変わらず一切曇りのない眼差しで私を見て、一呼吸置くと続けた。
『・・・・説得力が足り無ければ、これを“始めた”私が罰を受けると
いうことで塔と共に崩して埋めて貰うというのは、ありだろうか。
そうすれば、もう二度とやろうと思うものは出ない』
・・・・。
『エノク! そんなことを言ってはいけない。
私も神も、そんな結果は望んでいない』
思わず強い声で制止する。
彼が、軽い気持ちで言い出したわけではないことは、思念の重さと気配
で判った。彼は神を愛するのと同じだけ、神の創り出したこの世界と、
彼と共に生きる家族や周囲の人々や故郷に残してきた羊たちとその風景
を愛している。別れるのが辛くないわけはない。死を恐れていないわけ
でもない。
しかし、それ以上に。自分の夢が引き起こした大きな選択の責任を取ろ
うという気持ちのほうが強いのだ。
そしてまた、彼の魂は、きらきらと強く光を帯びる。
それは、彼だけが持つ魂の翼のようなものだ。
ふとひとつ、溜息をついて。
私を余計に困らせたと思ったのか、少しだけ沈んだ様子で俯いていた彼
に向かって告げる。
『・・・おまえの夢は悪くは無いんだ。
だが、ただ、私も神も善きもので災いが起こってほしくなかっただけだ。
気に病まずに、皆を説得してほしい。
祈りに場所は問わないのだと。
 勿論おまえに罰を下すようなことは無しでだ。
起こるやもしれなかった大事はこれで、未然に防げるのだからな』
上がった顔が、太陽が雲間から顔を覗かせるように再び輝くように微笑
み、頷いた。彼なら・・・きっと遣り遂げるだろう。
だから、私はほんの少しだけの手助けをする。
『・・・これを、天使(みつかい)に会った印の代わりに』
背の翼から、開いた両掌に載るほどの大きさのものを一枚外して、彼に
差し出す。
『おまえの役目を終えるまで、それは皆の眼に見えている。
おまえにしか触れられないし、用が済んだら消えるから保管や後の扱い
は気にしなくて大丈夫だ』
それを目にすれば、おそらく彼の話を信じないものはまずいないだろう。
了承の印にもう一度頷き、深い深い感謝を込めて私を見上げる彼に。
私は右手を伸ばしてその額に触れる。
『・・・私から、そして神に代わって。
おまえに、心からの祝福を』
どこかあどけないように、光の翼を手にして嬉しそうに笑った彼の表情
につられて、私も笑い返して。
『では。
エノク、元気でな』
夢の扉を、閉じた。





 結果的に、彼はとても上手くやった。
私と出会い、天使(みつかい)から神の言葉を授かったという事実を胸に。
目覚めて直ぐに彼は、塔の下部の人の入れる建物や、塔の周辺の野営地
などで寝静まっていた皆を起こして呼び集めた。
寝入っていたもの、寝入り端を起こされた者など様々でこんな時間に何
事かと文句を言ったりぼやいたりするものも、眠そうにふらりとしてい
る者も勿論居たが。
彼の言葉を聴くうちに皆、目が醒めていった。
美しい白金の光翼を手にして、通りの良い声で真摯に静かに語る、普段
は無口な彼の言葉を疑うものなど、そうそう居なかったのだ。
あの時の彼はまさに“神掛かって”いた。
掌の上の光翼から発する光が淡く彼の黄金の髪と白い貌(かお)を浮き立
たせ、深い緑葉の瞳には光が宿り、彼の背にする塔の向こうには新円に
程近い月が辺りを照らしている。
まるで、絵画のような光景だった。
 朝になって落ち着くと、これまでの労力や費やした時間について文句
や未練を口にする者も居たにはいたが。彼の手に昨夜と変わらず光の翼
が在るのを見て、夢でもなんでもないと思いなおし、天使の言触れを忠
言として素直に受け入れることにしたようだ。

 彼は私に先に言った事に更に加えて、建材を無駄にせぬように丁寧に
取り壊して皆で分け、それを使って遠く方々に新しい住処を造る基(も
とい)にするように、という考えも示した。
それは、量の大小の差はあれど資材を持ち寄った皆の納得を受け、広い
平野の只中に威容を現していた巨大な塔は、さほど日を置かずに徐々に
その高さを低くしていった。
塔を造るのに加わった人々は、そうしてあるものは故郷に帰り、あるも
のは数人からもっとでそれぞれ共同で纏まって、新しい地を夢見て旅に
出る。そのようにして、それまである程度近い範囲に住んでいた人間が、
もっと遠く遠く散らばることとなった。
 そして、それはそれまでひとつの言葉で足りていた彼らの間に、長い
時間と距離による言葉の差異を生んだ。
最初はいわゆる“方言”のようなものだったのだが。
次第に、全く新たな言葉も現れてゆき。
そのうちに更に新たな使いやすい言語が現れると、段々と、最初の言葉
を使うものは少なくなっていった。
 最後のそれが、“地上”で口にされたのは。
一体、どれくらい後の事だったのだろうか。

 そしてその異なる言葉で伝えられる“伝承”そのものも、変化や欠け
や付け足しがあるものとなってゆき。
更にその過程で、元々は“イーノック”と“メタトロン”だけであった
名前が本当に様々な別名・異名を増やしていったのは。
それはまた、別の話である。



***



 「・・・やっぱり、あいつはおまえに少し似ていたな」
夢の一部始終をエノクからは見えないように“傍ら”近くから眺めてい
たかれは、全ての経緯を承知している。
“地上”を映している画面を、肩越しに覗き込んで笑う。
其処には、故郷に戻って羊を連れ、新たな地に移り住んだ彼の様子が色
鮮やかな風景となって見えている。
元々居た場所とは少し違う印象だが、山に囲まれた盆地で緑と水豊かな
やや冷涼な美しい地で。小さな色とりどりの花も見える。
彼は今日も元気そうで、傍らには羊たちだけではなく、彼を慕って塔か
らついて来た親しそうな顔も羊以外の動物たちと共に幾つか見えていた。
「・・・。
まあ、無事に終わって良かった」
これで塔に関わった全ての者の行方は確認し終えた。
現状で問題は生じていない。
改めてほっとして、画面の向こうの彼に黙礼を送ると画面を閉じる。
溜息をひとつしてから、少しだけ気を抜いて椅子の背に背中を預けると
背凭れの片側と私の肩に肘を乗せていたかれが、私の顔の傍に自分の顔
を寄せる。
「よくやった、な」
労(ねぎら)いの言葉と共に、頬に柔らかな口接けが贈られて。
ふふ、と笑う声と共にくしゃりと髪が撫でられる。
以前の記憶によるものと違って、かれの手によるそれはもう繰り返されて
慣れた仕草で。
そしてやっぱり変わらずに、とても優しい。
「・・・今回、褒美のキスを受けるのは私ではなく、本当は彼のほうな
のだろうが・・。
現金なので私はやっぱりそれよりも、貴方に褒められるのは嬉しいと思
ってしまうのだけどな」
有難う、と頬に口接けを返すと、かれは目を眇めるようにすると声の調
子を変えた。
「おまえ・・そんなこと言うと今此処でおまえを放って置いて、エノク
に祝福を与えに行くからな」
むにっ、と私の片頬を摘(つま)んだ指が引っ張る。
「いひゃい、ひひはふぁふぁふぁうかっふぁ」
言い方が悪かった、と言いたかったのだが。
放された頬の痛みは放置して、すまない言い方が悪かった、と言い直し
て椅子から身を起こして、椅子の背後で腕を組んでそっぽを向いてしま
ったかれに歩み寄る。
本気ではないのだろうが、かれは拗ねてしまうと意地を張ることがある。
万一こじれたら、元通りに機嫌を直して貰うまでが大変なのだ。
かれが私を好いていてくれることはそれなりに自負があるとはいえ、何
かの弾みに本当に嫌われない補償などはどこにも無い。ずっと。
だから、私は今、目の前に居るかれと遣り取りがしたい。
「ルシフェル」
細身の背に手を伸ばし、引き寄せて腕の中に収めてしまう。
「・・・私が褒めたいんだ、素直に受けておけ」
拗ね気味の口調で、かれの声が言う。
「ご免、貴方に褒めて貰えるのは本当に嬉しい」
有難う、と改めて言い直すと、かれはやれやれ、と溜息をついた。
「・・・。
まったく、おまえは時々なんでそうなんだ。
仕方ない、のか?」
幸い、今回はこれで気が済んだようだ。
かれは組んでいた腕を解き私の腕に掴まると、その背を私の胸に預けて
くれる。
ほぼ同じ高さにある黒髪の耳元に、また機嫌を損ねないかと気にしなが
らも、思っていた事を言ってみる。
これはこれで、私の素直な気持ちなのだ。
「・・・貴方は、彼と私がどこか似ていると言ったけれど。
私は、彼はひょっとしたら、別の流れでは“天に招かれるべき者”だった
のではないかと、思ったんだ」
もしかしたら、私のように。
そう告げると顔が横向いて、見慣れたけど見飽きることは無い色彩が私
を見る。
「・・・。
もうひとりのおまえ、か?」
そういえば、名前も“同じ”か。とかれが呟く。
沢山の<分岐>を目にしてきたかれは、思い当たる事例もあるのだろう。
「・・・・そうだな。
それは、ありえないことではない」
あの魂は確かに珍しい、と口にして。
「しかし・・・。
もしそんなことになったとしても。
私は、あれの面倒がみれる気はしないがな」
細めた目が笑う。
「おまえよりも、話を聞かない奴など、それこそ“話にならん”。
コミュニケーションの時点で困難だ」
彼は言うことを聞いてはいないわけではないのだが、ひとのことは言え
ない私と比べても余りにもマイペースだ。かれがもしも一緒に行動した
ら、聞いているのか聞いていないのかを確認するだけでも一苦労するだ
ろう。
「はは ・・・まあ。
“貴方”が“私”に出逢ったように。
・・・もしも別の流れで彼が天に招かれて、そしてそこで彼の天使と
出会うなら。そしてそれもまた“ルシフェル”であったなら。
それはまた、“別の貴方”なのだろう」
黒髪に頬を当ててすり、と懐くようにして言うと、かれは可笑しそうに
納得した気配を寄越す。
「成程。
これがいわゆる“割れ鍋に綴じ蓋”というやつなのかな」
おまえと私も似合いだろう?と。
楽しそうなかれに返事の代わりに抱き締めて。
私は、私が目にすることも無いだろう、別の流れの“私”の事をもう少
しだけ考える。
 ・・・・・そこでも、“私”と“かれ”が出逢うのなら。
どうか、悔いの無い選択を。


 無数の流れと、無数の<分岐>の向こうで。
 出来れば、どんな形であれ、幸せに。
 何よりも近く、何処よりも遠いそれに祈りを送って。
 腕の中の、愛しいものに口接ける。



 END.




20110305_wup

言語ネタが点々と出ているので、入れてみたかった“バベル”ネタ。
実はこうだった、という感じの捏造基本篇.verです。

思いついていた“バベル=神の門”→“神に会いたい?”→“純粋な好意
と信仰要素を持った者を中心に造られた”というネタで。
素直な子供のような悪気の無いひととか・・と、思いついたら冒頭が浮か
んで、メモしようと思ったらふと。・・・純粋で綺麗?
そういえば“召喚理由”が違うなら、それがドヤノクさんだったらどうだ
ろう?と。
結局、バベルネタを微調整しながらそのほかのネタが次々混ざりつつ一気
に書き続けて終了(笑)。

流石に喋らないとバベルネタの対処に困るので会話して貰ったけど。
性格が違う、ようにはなったので遣り取りは面白かったです。
こういう形でWノクさんを書くことがあるとは思わなかった。

構成要素は最終的に、「バベル」「メタトロン(神の代理人・36枚の翼・
72の名前)」「ドヤノクさん」「3番目のエノク」「神ノクさんと人ノ
クさん」「パラレルが存在」となりました。

ドヤノクさんが移り住んだ先のイメージはちょっとスイス方面のあれですw
羊がいるので盆地ありにしてみた。

イールシ進行度に関しては、まだ大分時間が経過した後にあるエピソード
まで行っていないので(バベルは分化する前なのでそんなに経ってないよ
ね。この話だと1k〜2k年以下程度? ゲームだとあの“塔”自体がバベル
存在っぽいけど)、一緒に居たりキスハグレベルで十分そうな状態です。



※蛇足。
この話のドヤノクさんが別の流れの別の歴史と経緯で“天に喚ばれた”Another.ver
・・の時の“ルシフェル”さんが、“魔王様でサポート”,ver。
つまり<電子歌人と羽根と歌>のあのフェルさんになります(本来の外見は設定画寄り)。
・・・普段の会話が、傍目からでは全く成り立っている気がしないw




20110428追記:
<Color>まで辿り着いたので補足。
ちなみに、フェルさんが機嫌良さそうに割と気軽にくっついて楽しそうなの
はノクさん仕様だと継承以前に“恋愛”フラグを確立していたため“接触制限”
が大分緩やかなためです。イールシ的状況は↑参照。
“解除”するための経緯説明は別のほうで。

◆この話は4本セット予定の<Transfer>のうちの一本です◆

↑・・の予定だったんですが凍結で断念。ネタ纏めは別記にて



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