引っ越してから暫く経ったが、今のところ大して変わらない生活パターン だ。二人暮らしで俺が飲食店勤めだから、双方都合が付かない日は店で夕食 用の料理を分けて貰って帰ってくることが増えたくらいかな。 ・・・あ。いや。 ひとつだけ変わったことがある。 サントさんがなんか・・・時々、なんていったらいいんだ。 俺に世話を焼かせようとしてくることがある。 基本的に、自分の出来ることは自分でやっちゃう人なので最初はびっくり したんだけど、面倒だからと風呂上りに髪を乾かすのを丸投げされたり、や りにくい足先の爪を切ってくれと言ったりの。 義手にヤニが染みつくと面倒だからと最近は大分控えめになっている煙草 の匂いがほんの微かにシャンプーや水の匂いと混じってするのが、乾かし終 わった後に残り香になるのがうっかりどきどきするんですけど! くそー・・ 体温低めの裸足の足先に触らせるとか・・ッ 帰還後一週間内には風呂介助でほぼ全裸に近い状態も触ったことあるのにあ んときは色々必死過ぎて全然なんも考えてなかった・・・。 あー・・そういや、最初はごはんに興味無くて結構骨っぽかったけど、俺に つられて少食だけどそれなりに食べるようになったから、今は手とか、凭れ 掛かられたりしても骨が当たり過ぎなくていいよね・・ ってちがうちがう!! うーん・・。 多分、罪悪感軽減としても、気安く頼って甘えてくれてるのかなぁ、と思う と嬉しいんだけどね。 寒いロンドンで、くっついてると体温と気配でああ生きてるんだなって安心 出来て・・・幸せで。 ・・・・なんか、よくわからないけど。 時々、ふと心臓が痛くて・・。 ・・・・・どうしよう。 *** 現代でも時折霧に覆われる都市ロンドンは、基本的には曇ってて寒い。 晴れの多い地方で育った俺としては最初は頭上が重たい気がして仕方無かっ たけど、じめじめしているわけではないからその点は助かる。 近年は夏は日中すごく暑くて夜は冷え込むみたいで、丁度その時期はほぼ病 院で缶詰になっていたりその後も療養していた俺としてはあんまり印象が無 いけど、健康だと気になるかもなぁ。 重ね着の仕方とか携帯するものを考えておいたほうがいいんだろうか。 と思いつつ、サントさんに貰った新しい上着を羽織ってバイトに出掛ける。 この上着は、入院中の誕生日にサントさんが用意してくれてたそうなんだ けど、あれこれありすぎて退院後も渡しそびれ、クローゼットの普段開けな い引き出しの奥に埋もれていたらしい。 「・・・私のも、バレンタインじゃなくて誕生日のだからな!」 と、あの日のお茶の後に思い出したらしく。 テレ怒り状態で顔を背けて片手で掴んで差し出された包みのカードの日付を 見た時には、もう色々記憶が蘇って来てどうしようかと思って、ありがとう ございます!と泣きかけながら包みごと抱き締めたらジタバタされて、何事 かと来たベリルさんに見られて笑われたなぁ。 防寒用の、ファー縁が付いたそれは余裕のある造りだけどどことなく、あの 館で俺がサントさんに着せた上着に似ていた。 あんな状況だったけど、いい記憶として覚えてくれてるのかなって思うと、 少しくすぐったい感じに嬉しい。 3月も終わりが見えて来て、暦的には春のうちなんだけどまだまだ寒い。 ちらほらと雪が舞ってきて、温かい飲み物と軽食で一休みというお客がひと しきりはけたところで、カウンター奥で休憩がてら支給品のおやつをいただ いているとドアベルがチリリンと鳴って口一杯に頬張ったまま反射的に見遣 る。 向こうからはショーケース越しの見づらい控え位置だったためかそのお客は こちらには気付かず、丁度テーブル側で簡単な掃除をしていた店主さんに親 し気に弾んだ声で話し掛ける。 どうやら、以前学生だった頃に此処に通ってた人みたいだ。 スーツ系の服を着こなした快活そうな中背の女性で、橙というか独特の赤金 色のふわふわと緩いウェーブが波打つ肩を越すくらいの髪に、明るい若葉色 の瞳をしている。可愛いと美人の中間くらいの容貌は程よく整っていて、化 粧気は薄く人好きがする印象かも。 年齢は20代半ばから30前半くらい・・かなぁ。 目測が合っていれば俺と近い感じかもしれない。 旧交を温めているならお邪魔しちゃ悪いよね、とおとなしく引き続きおやつ (今日は試作品のスコーン)をもぐもぐしていると、誰かと待ち合わせしてい るらしく二人分の茶菓子の用意を頼んでいた女性が、再び鳴ったドアベルの ほうに顔を向けてぱっと破顔して入り口に駆け寄り、手を引かんばかりにさ あさあと慣れた様子で奥のテーブルへ二人目を案内しようとした。 メモカードを片手に少々勢いに面食らった様子で立っていたのは・・今朝仕 事に行くのを見送ったまんまの格好のサントさんだった。 え? と思っていると、再度女性が店主さんと話し始めた間に、サントさん の視線がさっとカウンター周辺を見回して俺を目敏く発見すると、安心した ように小さく微笑って挨拶するように軽く首を傾げた。 サントさんは幾度か此処に様子見に来て店主さんとも話しているから、内装 詳しく知ってるんだよね。 女性が振り向いてもう一度促されたので、サントさんはそちらに向き直っ て席に着く。女性の明瞭でよく通る声は聴き取り易いので、もう開き直って 引っ込んだまま耳を傾ける。 サントさんの応対の様子から見て仕事関係みたいだけど、本人ではなくまだ 子供の弟さんが義肢関連を必要としていて、相談を兼ねて、ライターのため 具体的に取材をしたいという話らしい。 専門医の先生が多忙で都合が付かないので、サントさんが代理でやって来た ようだ。 サントさんが先生と呼ばれるのは以前目にしたことがあるけれど、女性は明 らかに敬意を込めて熱心に呼びながら大振りの手帳に手早くメモを取りつつ 準備済みだったらしい質問をあれこれしていて、平静で真面目な表情を殆ど 崩さずに応対している安定仕事モードのサントさんは初めて見たかも。 ・・・・・。 まだかつて何が起こったのか詳しいことは聞けていないけど、きっと、元々 のサントさんはそのまま進めばこういう風に仕事に励んでいたのかもしれな いなぁ・・・。 良かった。やりたいことが出来ているなら。 俺の力はごく小さいものだけど、サントさんを助けられて。 サントさんが笑えるなら。 サントさんが幾人もの誰かを助けてあげられるなら。 遅い午後の暖かな店内で、 俺は俺の我儘な選択を改めて肯定することにした。 *** あの後、帰宅したサントさんに尋ねると、ライターの女性はカロータ・ウ ォルテゥルという名前で、呼びにくいから個人名でどうぞと希望されて名前 で呼んでいるそうだ。 サントさんがサント先生なのはアポ前に病院自体に取材に行った時の周囲の 呼び方がそのままらしい。こっちのほうが呼びやすいもんな。 やや押しが強いのはライターの仕事柄なのかもしれないが、子供な身内の ためとあって熱心さは疑いようがないねとサントさんは苦笑していた。 マスコミはピンキリだから、見た通りの真面目そうな人で良かった・・。 と一先ず安心した。 |
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