<Tell>



 2012年・現代。
微かなざわめきや喧騒が絶えない都市の雑踏の中を、人々が歩いて
ゆく。それぞれの思いと、それぞれの理由で。

 かれら、はそれをみていた。


 「日本語の響きは、やっぱり面白いな」
笑みを含んだ声が興味深そうに呟くと、手摺にもたれて地上を見下ろす。
少々寂れたビルの屋上には、かれらのほかには人影も無い。
まだ朝のうちで、今日の天気は悪くない。
ただ、この大都市の上空はいつも行き交う自動車やなにかの吐き出す排
気やそのほかの粒子で、ぼんやりと霞んでいることが多い。
淡く鈍い青の空を背景に、白っぽい金の髪が風に揺らいだ。
先ほど流暢に日本語を口にしたかれは、肩辺りまで伸びる金の髪に明る
い南の海のような緑の眸、よく陽に焼けたような茶色い肌をしていた。
おそらく二十代後半だろうか。身長は日本人の平均よりもやや高い。
無駄なく鍛え上げられていると思しき体躯は、どこにでもありそうな白
いパーカーと深い青色のジーンズを身につけ、そして何故か足元は革紐
で編んだ随分古めかしいサンダルを履いているのだけが少々変わってい
る。
気候が完全に春になるにはほんの少しばかり早く、まだ風が吹いたり日陰
では肌寒い。
黒や茶の髪ばかりでかれよりもやや小柄な民族の住むこの国ですれ違っ
たら人を惹きつける面立ちや独特の雰囲気に気を留めるものも多いだろ
うが、この大都市の片隅で見掛けてもそれ自体を不思議に思うものは居
ないだろう。
「・・・そういえばあの時も、そう言っていたな」
隣で手摺に背を預けていたもうひとりが口を開く。
日本人と比べたら色白の肌に上方向に立てた短い黒髪、薄く赤を刷いた
茶色の眸をしたかれは、少し背が高いことを除けばこの国でもさして目
立つ色彩の持ち主ではなかったが。
細身の体躯を包む黒いジーンズに黒い革靴、それ一枚だけを軽く前を留
めただけで羽織っている黒紗のデザインシャツは時折風にはためき、
布越しに輪郭を透かす。よく陽が当たっている場所でも流石に寒いよう
にしか見えない。
しかしかれは気にする様子も無く、首だけを少し傾けて隣の青年を見遣
った。
年の頃は青年と余り変わらないような、よくわからないような。
端正に整った容貌は柔らかめの線を描いていて、目を眇めるように向け
られている少し曖昧な表情でもそれなりの数の人間が美人だと感じるだ
ろう。
「全く、あの時のおまえはろくに話を聞いていなかった」
顔の向きを前に戻して、これみよがしに溜息をついてみせたかれに青年
は暫し思い出すようにしてからゆっくりと答える。
「・・仕方ないだろう。
あの後言ったように、私は貴方の声が沢山聴ける事がただただ嬉しかっ
たんだ。それまでは、大概が数年飛んでくらいの単位で少しの間しか耳
にする事が叶わなかったんだからな。
あの状況でもつい浮かれてしまっていたのくらいは、そろそろ許してほ
しい」
「・・・。
まあ、それは私も悪かったよ」
表情を微かにばつの悪いようなものに変え、黒衣の青年は手摺から身を
離して隣に居る存在に向き直る。
「でもやっぱり、今でも時々おまえは話を聞かないじゃないか。
おあいこということでどうだ?」
少し目を瞠った金髪の青年が、一呼吸置いて破顔した。
「・・・あははは!
貴方はそういうところにこだわるな。
わかった、私の負けでいい」
かれも肘を置いていた手摺から離れて右隣に居た存在に向き直る。
話を聞かなくてすまない、と素直に謝意を表したかれに向かって、もう
一度、今度は色合いの違う溜息が落ちる。
「本当に、おまえは相変わらずだよ」
目を伏せてくすくすと可笑しそうに笑う黒髪の青年を眺めて、金髪の青
年はふと、表情を改めた。

「ルシフェル」

その声の至極真面目な響きに、ルシフェルと呼ばれた青年は笑いの名残
を消して、目を上げてかれを見た。
「・・なんだ? イーノック
おまえが“此処”に降りたいと言っていた理由を説明してくれるのか?」
イーノックと呼び返された青年は、生真面目な表情で頷いた。
「・・・貴方が、好きだと言っていたこの時代まで辿り着けたら
いつか言おうと思っていた」

 この<世界>の管理者である<神の代理人>を継いだ存在。
かつて人間として先代に天界へ招かれたイーノックは、遠く懐かしい時
代にひとつの旅を経てこの<世界>の護り手の道を歩むことになった。
ひとつだった人間は今ではそれぞれの地と民族に分かれ、当時たった一
種類だった“地上”の言語は今は複雑に分かれて増え、そして幾つかは
片鱗すらも残さずに時の狭間に消えていった。
懐かしい時代の最初の言葉は、いまはもうどこにも使うものも無い。
それでももう一度、この時だけ口にした。
「“神と天使としてではなく、代行者メタトロンと助力者ルシフェルで
もなく、ただ、イーノックという名の存在として。
貴方に告げたい”」
驚いたように瞬きをしたルシフェルは、笑みを浮かべる。
「・・・随分と、長い間耳にしない言葉を選んだな」
懐かしそうに目を細めて。
「おまえに最初に会ったときはもう天界語を覚えていたから、あの旅で
必要だった時以外はずっとそれで話してばかりで。
もう忘れてしまったのかと思っていたよ」
苦笑で返す。
「流石に、間違わないように記憶を引っくり返してこっそり練習したよ」
「それは・・ちょっと見てみたかったな」
悪戯に眸を輝かすかれに苦笑したままそれはやめてくれとイーノックは
手で制した。予想通りなら、試しにこれこれを言ってみてくれと云われ
て遊ばれそうだ。
「・・・・まあ、続きは日本語で」
話を元に戻すと、ルシフェルも続きを促すように頷いた。
その姿を改めて見遣ったイーノックは、ひとつ深呼吸する。
もうそれなりに長いこと考えてはいたが、言葉にして目の前の存在に
告げるのには相当な勇気が要る。
かれは特別な天使で、創り出した存在である先代の代行者<エル>に
も無条件に従うものではなかった。
家族のように、友人のように、隣で話をして笑って怒って。
かれが<エル>の助力者でありつづけたのは、<エル>がそれを願っ
て創り出したからではなく、ただかれを気に入ってかれを助けること
が自身の望みでもあったからだ。
だから。
かれの創り手でもなく、代行者として生まれたわけでもなく、エルほど
長い流れの中を共に在ったわけでもないから。
だからこそエルもいつかきっと願っただろうように。
かつて人間だった自分が願ったように。
ただ、ひとがひとに話すように。
貴方に伝えたい。
「ルシフェル
私は、貴方が好きだ。
貴方と出会えた事と、貴方がずっと私を助け続けてくれたことを
何事にもかえられないほど感謝している。

 そして、この時代のこの時間に、今の私は尋ねたい。
“私”と一緒に、これからも共に在ってくれるだろうかと」
一言一言確かめるように紡がれた言葉に、黒髪の青年は一瞬驚いた風
だったが何故かどこか子供っぽい拗ねたような表情になると、呆れた
ように言う。
「・・・・・・・。
今頃になってそれを言い出すとは、おまえの思考内はどうなっている
んだ」
両手を伸ばして指先でイーノックの頬を摘んで引っ張る。
「いひゃい、はにふぁひにさふぁったのか」
何か気に障ったのか、と言いたかったらしい。
ルシフェルは両頬を同時に抓り上げるとぱっと手を離した。
「わざわざ“端末”を作ってまで影を降ろしたいというから何をした
いのかと思ったが。
・・・私が、おまえを見限ることがあるとでも思っているのか?」
抓られた頬を押さえていたイーノックが、拗ねたような表情と冗談を
告げるときのような口調の奥に別のものを見て取って慌てて口を開く。
「・・! 違う、そうじゃない。
貴方を信じていないとか、約定をさせたいわけじゃない。
ただ、これは私なりのけじめなんだ。
貴方は神を助けるものとして生まれてきて、次の代の私の手助けをす
ることも必然になってしまったようなものだ」
だから、と切ってから言葉を続ける。
「助けるとか、助けないとか、そういうことを抜きにして。
“貴方”は“私”の傍にいてくれるかと。
聞いてみたかったんだ」
そこまで聞いて、ルシフェルの表情が漸く少し緩んだ。
「ああ・・。
解ったよ。おまえはそこまで考えた癖に、肝心の一言が足りない」
ふん、とそっぽを向いてみせた横顔が言う。
「くれるだろうか、じゃない。
いてください、だ」
相手の意向に任せる言い回しだけでは、願いの強さは伝わりにくい。
勿論、イーノックが何故そのような言葉の選び方をしたのかもルシフ
ェルには理解出来たが。
言葉というものがややこしいことは充分承知の上の元書記官に対して
は遠慮するつもりはない。
「おまえがたまにやるよくわからない押しの強さはこういう時にこそ
使うものだろう。
まったく、このダメノックが」
先程抓った跡が少々赤くなっている頬をもう一度抓ってやろうと手を
伸ばすと、慌ててイーノックの両手がルシフェルの両手を掴んで止め
た。
「すまない、私が考えすぎてストレートに伝わらなかった!
これ以上やると暫く赤くなってそうだからやめてくれ」
勘弁してやることにしたルシフェルが手の力を抜くと、イーノックは
その掴んだままの両手を下ろしてもう一度話し出す。
「もうひとつ、貴方に伝えたいことがある。
・・・あの頃の私とほぼ同じ“端末”・・いや、“移身(うつしみ)”
を作ったのは、貴方と此処を歩いてみたかったからだ。
ずっと貴方から聞いたり見せて貰うだけだったこの頃の時間の、この
地で。貴方が気に入ったと言っていた物を一緒に見たり、土産にと持
ってきてくれた色々なものがあるところに行ってみたかった。
だから・・・」
イーノックは相手の顔を見ていた目線を下げて、自分の手の中にある
ルシフェルの手を眺めた。
色の違う手が、交差している。
それを少しだけ力を込めて、ぎゅ、と握った。
「今日は、この街を一緒に歩いてくれ。
そして、これからもずっと私と一緒に居てほしい」
「・・・・・」
ルシフェルは、握られた手に視線を落として暫く黙っていた。
そして、声を出す。
「おまえの気のほうは変わらないんだな?
私を選んで後悔しても知らないぞ」
マイペースでいつも飄々としているかれの声が、微かに震えているの
に気がついて。
イーノックはコンマ以下思考したのかしないのかさえも自分でわからず、
腕を引いてルシフェルの身体を引き寄せて抱き締めた。
「大丈夫だ、問題ない!
ルシフェルがいい!!」
「ちょ・・・こ、こら!
手加減しろ!」
力が入りすぎていたようで怒られた。
少し腕を緩めると、おまえなんかイーノックじゃなくてバカノックで充
分だ、と目元と耳元を染めたルシフェルがぶつぶつと文句を言いながら
も、一つ息をついて抱えられた胸に凭れ掛かる。
「そうだな・・
おまえとなら、きっと」
一緒に居てやる、と囁くように先程の了承が返った。
それにまた、心底嬉しそうな全開の笑顔が返る。
 ふわり、と優しい気配のなにかがかれらの髪を掠めてゆきすぎていっ
た。


  
  私は、貴方の旅を忘れない。
  あの旅を、そしてまた、その後先の旅路をも。
  
  それは、とおいとおい時間と現在を繋ぐ物語。
  時が語った御伽噺。
   


FIN.


→おまけ



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