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 「あれ・・?」
 何かが感覚に触れた気がして、古い書類の分別整理に忙しくしていた司書
の青年はふと顔を上げた。
何かが、図書館の・・建物の外に居る気がする。
危険なものである時に起こる反応が無いから、ひょっとすると知り合いかも
しれない。
二階の窓からは遠いので、もしも知り合いだったら出迎えようと階段を降り
玄関脇の窓に近寄って暗い平面を眺めてみたが、目立つ色や人影はどこにも
見えなかった。
でも、機械である私たちに気のせいはないって前に実感することがあったこ
とだしな・・。
改めてよく目を凝らして見ると、ちらりと遠い黒い平面になにかが動いた。
人影のように見えた。
そして何かを反射する、透明なもの。
 ・・・現実空間を知らないオラクルにとっては縁遠いものだったが、暫く
前に別の色のそれを見たことがあったので気が付いた。
あれは・・・開いた傘? 
首を傾げたその時。
 
 来客を告げる古風な響きの聖堂を思わせる鐘の音色と共に、いつかコード
がしたように丈高い天井の何処からともなく、その姿は舞い降りた。
天窓として所々に配されているステンドグラスからの明るい色が、過ぎるそ
の影に追いすがるように映る。
その背に大きな黒翼があるように見えた司書は一瞬またたきをして見直した
が、それは幻だったかのように薄い黒い上衣のはためきとなって、音もなく
着地した"かれ"の背にはたりと落ち着いた。
「やあ、君がオラクル?」
明るく投げ掛けられた響きの良い低めの声には、確かな聴き覚えがあった。
「君は・・・<ルシフェル>?」
相手は何故か一寸考えるように宙を眺めてから、
「うん、そうだね。
私は、ルシフェルだよ」
と答えた。


 かれは確かにあの企画のプログラム用に与えられた仮のIDと、エル博士
に発行した限定接続許可ナンバーを持っていた。
訪問者が帰った後にレポートを書き切符に確認の判を押して博士に送る手順
になっているので、かれが差し出した小さな紙片を丁重に受け取る。
二階の応接コーナーへと案内すると、お邪魔します、と口元で軽く笑ってみ
せると持っていた透明なビニール傘をソファの横に立てかけてから腰をおろ
した。
傘はかれの元々のキャラクターの所持アイテムなのだ。
博士はどうやら忠実に再現したらしい。
お茶の好みを尋ねてみると、細かいことはよくわからないから君の好きなも
のを、と言うので確か今の日本の季節は冬だったと思い出し、ホットのアッ
プルカモミールティーを選んでみた。
フレーバーではなく紅茶に生の林檎と乾燥カモミールを加えるタイプのレシ
ピだ。ほんのりと甘い香りと控えめな香草の風味がする。
暖めたティーカップに注ぎ茶菓子にジンジャーケーキを添えて出すと、かれ
は申し分のない仕草で口にしてみせた。
向かいに座って、先ほどから気になっていたことを尋ねてみる。
「あの・・少し前に、それを差して外に立っていた?」
今は綺麗に畳まれているビニール傘を指して。
ルシフェルはカップを手にしたまま傘に目をやると、うん、となんでもない
ように頷いた。
「ちょっとこの外をよく見てみたかったんだ。
いけなかったかな?」
「いけなくはないけど・・
柵の外は危ないから、ウイルスとかにちゃんと対処出来るんじゃなければ
1人では危ないよ?」
さっきからどうみても正式起動前のプログラムだとは思えない落ち着きっ振
りなのだが、元々のキャラクター設定のせいなのだろうか。
でも、かれは公式の歌人パロディとしてプログラムされている筈だから、多
分基本的な自己防衛機構程度しか持っていない筈だ。
それとももしかして、防御型にしろなんらかの有効な機能を持っているんだ
ろうか?
「・・・そうだな。
私が迂闊だった、気をつけるよ」
少し目を伏せるようにしてどこかをぼんやり眺めたかれは、ふ、と小さく溜
息をつくと残っていた紅茶を飲み干した。


 その辺を見て回っても構わないかな?と尋かれたので了承して、自分の分
の紅茶を飲みながら不躾にならない程度に改めてかれの様子を観察してみる。
 見た目はほぼ元々のキャラクターデザインだ。
というよりも、元々の現在出ている情報自体がデザイン画とムービーとアク
ションモデル用の部分などで見た目が結構違うので、ひとによって印象が曖
昧なのだ。なんとなく“かれ”は全部の要素が混じっているような気がする。
 上向きに立てた短めの黒髪、肌はかなり白い。
容貌は柔らかめで整っていて目立つ癖は無い。
眸の色は薄い赤を帯びた茶色だが、時折全体に複雑な赤が揺らめいて消える。
服装は見覚えのある黒い細身のジーンズと、上のほうから色味が薄くなって
いく何のともはっきりしない模様を配した腰辺りまでの丈の黒紗のシャツ、そし
て黒い革靴だ。
唯一見覚えの無いものは、右側の耳宛部分から顔幅を越える長さで黒い翼が
伸びているマイクつきの白いヘッドフォンだ。
翼はディフォルメデザインされてはいず、ミニチュアなリアル風だった。

 近くを歩き回って本棚の背表紙を眺めていたかれが戻ってきた。
「・・・此処は本当に、他に誰も居ないととても静かなんだな」
元の場所に腰をおろすとそう話しかけて来たので、新しいカップに別の紅茶
を注ぐ。今度はマスカットの香りがするストレートティーにしてみた。
「そうだな。
とても静かだけど、私は今は此処に本当に1人きりじゃないから平気だし、
昔と違って時々こうしてお客様も来てくれるから楽しいよ」
お茶請けも入れ替えて、プレーンのスコーンに葡萄のジャムとクリームチー
ズを添えてみる。
ありがとう、と取り上げたカップを少し掲げてみせてから静かに一口飲むと
かれは受け皿にカップを戻した。
こちらから話し掛けようかとも思うけれども、何か考えているような気配が
するのでとりあえず様子を見ることにする。
先入観を持たないためにこちらは基本の設定も知らないし、まだ初回なのだ
からあと数回訪れてくれる予定だし慌てることはないだろう。
明らかなトラブルにならなければ気になった点を報告して、具体的な対処自
体は博士が決めることだし。
ルシフェルはそのまままたどこかぼんやりしたような表情でどこかを眺めて
から、ふと思いついたようにこちらを見遣る。
「君は“自律”についてどう思う?」
唐突だ。
ただ、AI同士の会話だと言う事であればロボット的な意味での“直接操作
型”と“自律型”のことだと思うが・・どうなんだろう。
それとももっと別の意味だろうか。
念のため反射的に辞書検索をしてごく一般的な意味の意味を確認する。
【他者から制限や命令を受けずに自分で規範を決めて行動する】又は
【自身で決めた正道と思う道徳観を守り感情的欲求に負けないこと(哲学)】
いずれの意味にしろ難しい話題だな。
ロボット的な意味においてのほうは動作や判断能力だけではなく、延長上の
“心”の問題にまで行くとどのようなものがロボットの範疇でどのようなも
のが人間と判定されるのかという所にまで行ってしまいかねない。
「どういう意味で尋ねているのか、聞き返しても構わないか?」
首を傾げて返答を保留すると、おや、というように瞬きして口元が笑む。
「・・・ろっと、抽象的過ぎる質問をしてしまったか、すまない。
質問を変えてみようか。
君に尋ねてみたいのは・・・そうだな。
君は、自分自身に色々な制限が掛かっていることは自覚しているし、現在の
技術と役割上殆どは仕方の無い事だという事は理解している。
だがもし・・・仮にだ。
技術上の制約が解決し、君と同等もしくは君より適任の性能の者が居たとし
たらこの仕事を受け渡してもいいかと思うかな」
「・・・ええと、つまり
職業選択の自由、が可能だったらどうするかと?」
まあそんな感じだ、とかれはまた口元だけで笑む。
多目的が可能な者と違って、私のように大規模な企画・構造・費用で完全に
目的を絞って造られた専用AIは余程劇的に状況が変わらない限りは簡単に
交代することはないだろうが、仮定として考えるのであればありえる話では
ある。技術革新はいつ起こるかわからない。
・・ただまあ、私の場合は性能の関係で勤務場所が変わる程度のような気は
するが。
「うーん・・
もしも人間だったら、とか外に出られたら、っていう仮定の話はいつかした
ことがあるんだけれど。今の状態が改善されてなおかつ選択肢の余地がある
という具体的なのは考えたことが・・・」
あれ、とふと何かが引っ掛かる。
ルシフェルは何についてきいているんだろう。
・・・<ルシフェル>?
「あれ。
もしかして、生まれつきの役割が定められた存在についての話なのかな」
元キャラクターのルシフェルは天使という設定になっているし、ルシフェ
ルやルシファーと言ったら諸説入り乱れてはいるものの堕天話が有名だ。
最初の自律の件についても、ひょっとして自分で道を選ぶことについての
是非についてだったとか。
ルシフェルを見ると、今度はすまして残りの紅茶を飲んでいた。
カップを口から離すと、器越しに目を細めて笑う。
綺麗な笑顔なのに何故かおどけている様に見えた。

 「・・・ルシフェルは、歌うのは好きじゃないの?」
 歌うために生まれたあの子は、歌が大好きだった。
最初に遇いに来てくれた時も、緊張しながら自己紹介代わりにと決まった
ばかりだというデモンストレーション用の新曲を歌ったくらいだ。
今も、忙しくあちこちに呼ばれながらも大好きな歌を自分の喉で奏で続け
ている。
歌人としてつくられたプログラムが、もしも歌が好きじゃなかったらどう
なってしまうんだろう。
 ・・・昔、<ORACLE>の半身であるオラトリオが完成直後速やか
に望まれた能力を示し全ての研修を終えてから間もなく。
負わされたものの重さと大きさと、孤独感と深い絶望に苛まれてストレス
で倒れた事を思い出す。
彼は結局そこから立ち上がって、私の手を取ってくれたけれど。
・・・能力があっても、そのために生まれても、それになんらかの意義や
喜びを感じなければけしてそれは易しい道ではないのだ。
それは自由度や、人間やロボットやAIであるかどうかは余り問題ではな
くて。
「・・・歌は、別に嫌いじゃない」
歌ってみせようか?と言うので頷くと、ルシフェルは座ったまま目を閉じ
て一つの歌をうたってくれた。
・・・聞いた事の無い言葉だった。
遠くまで響いていくような不思議な歌だ。
何語なのか造語なのかと尋ねてみたけれど、もうどこにも残っていない言
葉なのだと言ってかれはまたぼんやりとどこかを見る。
・・・此処にはない何かをさがしているんだろうか。
独りでは、見つからないものもあるんだけど。
かれの助けになるものは何処にあるんだろう。
「ん?」
ふと、<ルシフェル>だったら横にもうひとり居るんじゃないかというこ
とに気が付いた。電子歌人シリーズのほうは順次立体化の構想だから気に
していなかったんだけれど。
「ルシフェルは、イーノックが居ないから寂しいのか?」
がしゃっ!!
崩れやすいスコーンをこぼさないように、皿を手に持ちながら齧っていた
ルシフェルがテーブルの上に皿を取り落とした。
慌てた様子を大丈夫と抑えて手早く片付けた。
こういうとこは電脳空間(ヴァーチャルスペース)は楽だと思う。現実空間
(リアルスペース)だとシグナルたちの話を聞いていると本当にあれこれ大
変そうだし。
「・・・いや。
エル博士は、“この<ルシフェル>”の相方は出来れば人間から現れるべ
きだと夢見ているそうだ。相当なロマンチストみたいだな」
まあ、元々の電子歌人のソフトのコンセプトが貴方だけのアイドルみたい
なものだから合っている様な気もしないでもないけど。
「・・・ああ、ごめん。
まださっきの答えていなかったな。
外に出られて、此処じゃない好きなところを選んでいいと言われても
私は此処に相棒が残ることを選択するならまだ続けるかもしれないな。
あいつがやめて、全く別の事を始めるのならその時は私も新しい選択肢を
吟味しようと思うけど」
あの時私の手を取ってくれて、今までずっと一緒にやってきた彼との道は、
選択肢はなかったけれど確かに此処まで辿り着いた足跡だから。

 私が笑ってみせると、ルシフェルも苦笑したような笑顔になった。
「そういえば、oracleには助言者という意味もあったな」
そう言うと立ち上がりながら傘を取る。
「帰るのか?
また外で歩かないで、気をつけて」
一つ頷いてから、ふわりと背に翼を・・・・
黒翼が六対?
「最初見たときは一対だったのに」
柔らかそうな黒い鳥の翼についそっと手を伸ばして触れてみていると、く
すくすと笑いが聞こえる。
「一寸覗いてみるつもりだったけれど、長居してしまったからサービスだ。
ああ、そうだ。
今回のレポートは必要ないからな」
「?」
振り返った目が白と黒の中で妙に目立つと思ってから気付いた。
眸が、鮮やかな赤色をしていた。
「私は、“此処のルシフェル”ではないんだ。
偶然、界を迷って此処に来てしまってね。
この器に重なっていることに気付いてどうしようかと思っていたら博士が
やってきて。事情を話したら、驚いたけれど面白がって色々教えてくれた
んだよ」
この世界でもエルにつくられるとは、と微かな声が笑うように呟いて。
ふわりと浮かんだかれは、私の額に片手を触れる。
「賢者と守護者に、祝福を」
ぱちん!という高い音と共に、意識が逆行するような感覚に襲われた。






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